河港の街 前編05
ワタシと時雨ちゃんが店先に現れた直後。月牙様はエバさんに『後日出直す』とだけ告げ、店を離れました。我々が追随できるギリギリの速度で街を行き、辿り着いたのは人気の少ない河川敷。
ようやく振り返った月牙様は、静かに時雨ちゃんを見下ろしました。
「時雨。君が盗み聞きにこんな絡繰を使ったのは、彼の指示ですか」
彼、というのが誰なのか。この時のワタシは、訊ねる事ができませんでした。しかし、恐らくはエバさんとの会話の内で『借りを作りたくない』と月牙様が仰っていた相手で。金銭を支給する権限も有する人物。端的に言えば『上司』の事なのだろうと、推測は付けられました。
「……。そうだけど、違う」
「何が違うと言うのです」
「道具は、確かに持たされたもの。でも、報告しろとか、時雨にそういう義務はない」
「義務はないでしょうね。君は、僕を直接止めれば良いだけなのですから」
よどんだ川が、沈黙を責めるように流れておりました。まばらに生えた若草を、長靴で踏み潰すようにして、月牙様は顔を背けます。
「時雨にも隠れる形で動いた僕にも、非があります。でも、今回は、監視されるような事をしたつもりは、僕にはなかったのです」
それは怒り──ではなく。隠れ飼っていた猫を取られた子供のような表情でございました。軽い気持ちで便乗した事を謝りそびれ、気まずく事態を見守っていたワタシでしたが。その表情には、頬を張られた気持ちがいたしました。
「……疑って、ごめんね」
時雨ちゃんは、素直にぽつりと謝り。
「でも、それなら。なんで、わたしと杏華がいない時に、話を進めようとしたの」
しかし追求は誤魔化さない、といった姿勢で、青年に問いました。再びの沈黙。上流から流れて来た笹舟が、泡に溺れながら目の前を過ぎていきます。
「高い、ので」
月牙様は、いつもの清廉朗々たる姿を霞と錯覚させる、たどたどしい言葉を紡ぎ始めました。
「以前、僕のせいで怪我をさせそうになったので、自衛のため、武装機巧を装備して貰えればと思って。しかし、値段を聞いたら、杏華は持つのを嫌がると思ったのです。僕の貯蓄で、足りる額ではありますよ。でも、補填をしようと思ったら、僕も何か仕事をしてみないといけない。しかし僕は、友人に聞かないと、稼ぎ方が分からなくて……」
「月牙」
「情けないじゃないですか。僕より年下の杏華が、自分でいろんな稼ぎ口を見つけて来るというのに、僕は与えられた範囲の仕事しか……いえ、廃鉱町では、時雨の手を借りてもなお、十全にはこなせなかった。旅芸人なんて不安定な仕事だと言っておきながら、自分は同じ事ができず。時雨の手も借り続けている。一人で為せた物事が無いのだから、やらねばならぬと思ったのですが」
「月牙、ちょっと」
「それすら看破されてしまったのでダメです。僕は、穴空きの桶にも劣るぽんこつヒモ野郎です」
その言葉が、呼び水だったのでございましょうか。
「時雨、君に聞かれるのはもう仕方ないと思ってるんです。でも、なぜわざわざ僕に分かりにくい道具を使おうとして、しかも杏華にまで聞かせたのですか。体たらくを晒された、僕の気持ちが分かりますか? いや君に事情を説明せず、詰めも甘かった僕のせいなのですけど、足を掬われるのは最後の瞬間だという自覚があるのに改善できないあたり、僕もう本当に駄目な奴すぎて無理ですよねやはり生きていくのに向いていないと再認識したと言うか」
溢れ出た言葉は、怒涛の夕立の如し。圧倒されるワタシをよそに、時雨ちゃんは動揺しつつも月牙様を見上げ。
「えっと、つまり。わたしに聞かれるのは良くて、でも聞いてるって分かる形にして欲しかったのと。杏華に聞かれたのは、いやだったってこと?」
月牙様に、端的に訊ねました。青年は、引きつった表情で斜め下を向きながら、ひくっと喉を震わせたかと思うと。
「月牙様……?」
「ちょっと沈んできます」
「月牙様ーっ⁈ 」
川の方に、ふらふらと。冗談ではなく、本当に投身してしまいそうな勢いで降り始めたものですから、ワタシは慌てて青年の外套を掴みました。
「何故止めるのです!」
「危ないからでございますよおばか!」
「うるさいな、馬鹿な事くらい知ってます!」
青年はワタシの手を払い、勢いのまま振り返りました。
「学習能力がないから手際が悪いし、悪い方向に事を進めてしまうのです!これを馬鹿と言わずして何と言えば良いのでしょう、本当に、生きている方がおかしくて、消えた方がマシ──」
──そこまででございました。背後から近付いた時雨ちゃんが、修羅の如き顔で月牙様の首根に袖を叩きつけ。バチリと竜沁の光が閃いたかと思うと、青年の身体から、がくりと力が抜け落ちました。
「にゃっ⁈ 」
頭ひとつ分の身長差とは言え、男女の体格差がございます。青年の体重を支えきれず、ワタシは草地に倒れ込んでしまいました。
「いたた。今のは、催眠の術でございますか?」
時雨ちゃんは、整わぬ感情を抑えようとするかのように、息を荒げておりました。しかし、青年を一目見ると、表情を歪ませ。
「時雨は……心配だった、だけなの。傷付けるつもり、なかった。月牙、いつもはこんなに怒らないの」
動揺に震えた声を、地面に落としました。
「月牙。ずっと、良い子にしてた。杏華の前では、お兄ちゃんだったのに。時雨のせいだ。どうしよう」
「え、ええと」
「時雨、お姉ちゃんなのに。しっかりしなきゃいけないのに」
「時雨ちゃん?」
腕の中には、目を回した青年。傍らには、青年を気絶させておきながら、泣く寸前の幼子。少々天然な所はあれど、己よりしっかり者だと思っていた二人が、唐突に大人の仮面を欠落させた瞬間でございました。
「……」
展開に思考が追いつかず。しかし、ワタシが動かねば膠着状態になる、という事は、容易に想像が付きました。
「時雨ちゃん。ここは目立ちますから、まずは月牙様を橋の下に移動させましょう。手伝って下さいますね?」
ゆえに、月牙様を背負おうと姿勢を起こしたのでございますが。時雨ちゃんは首を横に振り、月牙様の肩に手をかけました。
「時雨がはこぶ」
「時雨ちゃんの体格では、月牙様を運ぶには──なぜ運べるのです力持ちすぎる」
両脇をつかみ、ずるずるずる。砂利混じりの河川敷で倒れていたら事故現場でございますが、橋の下の、風通しの良い草地に横になっている分には、ひと休み中の旅人として違和感がない姿でございました。
「取り急ぎはヨシ、でございます」
青年の頭の下に、己の外套を差し入れ。ワタシは、青年の寝顔を見下ろしました。直前の感情が、名残として残っていたせいでしょうか。泣き疲れた子供にしか見えない姿を見て、ワタシは、この青年が表に出していた顔が、ごく一部に過ぎなかった事を理解いたしました。
「月牙様がああして怒るのは、初めてだったのでございますか? びっくりでございましたね」
膝を抱えて座る時雨ちゃんの顔を覗き込むと、伏せた碧眼が気まずげに横に逸れました。
「時雨は、いつも月牙といっしょにいる。月牙は、時雨には隠し事はしないし、時雨がこっそり聞いてても止めない。だから、話を聞かれてたことに怒ったのは、初めて。でも、沈みたがるのはよくある」
「よくあるのですか」
ぐすりと鼻をすすって、時雨ちゃんは続けました。
「月牙、自分が嫌い。自分にできない事があるのが、嫌い。我慢してるけど、我慢してるのが溢れちゃって、たまに沈みたがる。たいていは半日ぐらいで浮かんできてたけど、止めないと危ないって言われたから、旅を始めてからは止めさせてる」
「半日水に沈んだら、常人は死ぬと思うのでございますが……まぁ、そこは問わずにおきましょう」
その辺りの常識を問うても無意味。そう判断し、ワタシは嘆息いたしました。
「月牙、時雨のこと嫌いになっちゃったかな」
「まさか。月牙様は時雨ちゃんに頼りっきりなのが嫌で、今回は一人で考えたい、一人で動いてみたいと思ったと仰っていたでしょう。ワタシもそういう時間はございます。時雨ちゃんも、そういう時間はありますでしょう?」
「……分かんない。時雨は、いつも月牙と一緒にいたし。一人でいるの、嫌いだったから」
「そうでございましたか。でも、今回で知る事はできたので、次からは怒られずに済むでございますね」
盗聴に関しては共犯なので、後で一緒に謝りますと言いかけて、ワタシははたと動きを止めました。
月牙様の超早口の自虐から察するに、青年は一人で為した仕事がないと認識しており、また自力で仕事を見つける経験の不足も恥じていた。
ワタシに何か、高価な道具を与えようとしたものの、それが高いと言う事、代金補填の為に仕事を求めた事はワタシに知られたくなく。そのような思惑が、時雨ちゃんはともかく当人にまで露呈してしまったので沈みたくなった、と。
「……ん?」
──即ち。今回の件は、時雨ちゃんに対するちょっとした独立心。そして恐らくは、ワタシに対する見栄と劣等感の発露でございました。
「待って。いやお待ち下さい。そんな事ってございますかね?」
意外が過ぎて。というより、ワタシが立ち回りを誤れば、ここから更に事態を悪化させる可能性があるという事実に気付き。
「もしかしてこれ、地味に旅仲間解散の危機でございますか?」
穏やかな午後のひと時に、ワタシはひとり戦慄したのでございました。
◇河川敷
金のない学生が、ヨモギや食える魚や虫を探してうろつく食材庫。野生化したダイコンとかもたまに入手できる。バッタソムリエ曰く、川によってバッタの味が違うらしい。バッタを食うな




