彷徨うモノ 前編 01
水田の水鏡がすくすくと育った苗に隠される頃、訪れるのは長雨の季節です。
露に濡れる色とりどりの紫陽花は美しけれど、舗装のない土道はぬかるみ、防水布をすり抜けた雨が着物を濡らします。
樹々の隙間から現れたのは、曇天なれど広々と伸び切った灰色の空。山々に覆い被さる雲と、深く切り立った峡谷の景色でございました。
「杏華。一の刻方向にある崖が見えますか」
ふと月牙様が指さした方を見れば、深い谷を挟んだ向かいの岩壁に、白灰色の動物が集まっているのが見えました。
小柄な牛の足を短くして、ほっそりとさせたような生物……とでも言えばよいのでしょうか。斑模様のある背中、細い足に白い尻。頭には、可愛らしい一本角が生えている様子が確認できました。
「ケモノの群れがいるでしょう。彼らは、そこな凶悪小動物とは違い、比較的大人しい種でだから噛もうとするなお前」
時雨ちゃんの肩から飛び出した白鼻丸が、「シャーッ!」と元気よく月牙様に飛び掛かるのを視界の端に収めつつ、ワタシは岩壁に目を凝らしました。
岩のわずかなくぼみに細い足を慎重に下ろし、張り付くように生えた草をちぎって口に運ぶ。その様子は非常に穏やかでしたが、しかし。
「なんと呼ばれる種でございますか?」
「首齧りですね」
「やだ物騒な名前」
家畜然とした外見に似合わぬ不穏な名前に、思わず眉を顰めました。雨が降り始めたからでしょうか、次々と崖上に引き返していくケモノ達を眺めながら、ワタシは訊ねました。
「大人しいのであれば、何ゆえ『クビカジリ』などと言う名前が付いているのでございましょう」
「その名の通り、死体を齧るからですよ。彼らの食性は基本的に草食なので、生きた人間を積極的に襲う事は少ない。しかし、塩や竜沁を求めて死体を掘り返し、背骨を執拗に齧る事からこの名が付いたそうです」
笠の角度を直しつつ、青年は続けました。
「彼らは、『怪物』としての凶暴性を発現する事が滅多にないので、怪物として人々に認知されていない場合があります。岩跳鹿と呼ばれている事もありますよ」
「えっ? あれ、岩跳鹿でございますか」
岩跳鹿といえば、山村から降ろされる食肉の一種。角も高い薬効を持つとして、重宝される種でございました。まさか、クビカジリなどと言う異名を持つ存在だとは、思いもよらなかったのでございます。
「……と言う事は、月牙様。ワタシ達が普段接している毛のモノ、普通の獣の中にも、怪物と呼ばれる種が混ざっているという事になるのでございますか?」
「それは……」
遮るもののない雨の中。少し早足になっていたワタシを手で制し、月牙様は目を細めました。灰色に濁る視界、その奥からゆったりと現れたのは、新たな岩跳鹿の群れでございます。
カッチカチ、ゴリゴリと、不穏な歯軋り音を立てながら近付いて来たそれは、我々を視認できる範囲に来ると、ぴたりと歩みを止めました。
「顔を背けないように」
頭上から降りた端的な指示に、ワタシは唾を飲み込みました。
逃げ場のない拓けた山道。雨の音に混ざり、歯軋りの音が無数に聞こえる状況の、なんと恐ろしい事か。
「彼ら、滅多に人を襲わないのでございますよね?」
「そのはずですね」
青年は、怯えた様子の白鼻丸を襟巻きに押し込みつつ、長靴の先をトンと地面に当てました。長靴に取り付けられた小鞄から、分身神が素早く舞い上がる様を見て、歯軋りの音は加速します。
「すごく、見られている気がするのでございますが」
「そのようです。下がっていなさい」
手で下がるように指示をされ、時雨ちゃんと共に後退。不安定な足場に苦労しつつ一歩、また一歩と後退する中──
「あっ!」
時雨ちゃんが、石につまずいて姿勢を崩し。ワタシの視線が横に逸れた、その瞬間。
『カッ!』
高らかに歯を慣らして、一頭の岩跳鹿──いいえ。怪物『クビカジリ』が月牙様に飛びかかりました。
クビカジリは細身なれど、人以上の身の丈を持つ大柄な怪物です。感情の読めない黒眼に恐怖し、時雨ちゃんを抱きしめた瞬間でございました。
「──巻風」
ひと言。月牙様が淡々と呟き、足を踏み出した瞬間。怪物は顎を下から突き上げられたように、姿勢を崩しました。
「えっ?」
目の前の光景に理解が追いつかないまま、淡々と時間は進んでまいります。
無防備に晒された怪物の首を、淡紫の光を纏った刀が両断し。回し蹴りを受けた怪物の胴、その後を追う生々しい首と血の軌跡が、道の端から崖下に転がり落ちるまで。ほんの、瞬きの間でございました。
『……』
残りの怪物たちと見つめ合った時間は、ほんの数秒。やがて我々から顔を背けた群れは、ぞろぞろと仲間の死体を追って崖下に降り始めました。
ワタシは、全ての怪物が視界から姿を消しても立ち上がる事ができず、地面にぺたりと臀部を付けたまま呆けていたのですが。
「立ちなさい。服が濡れるでしょう」
ぐいっと腕を掴まれ、無理やり立たされると同時に顔を覗かれました。藤の花を映した水面のような、青年の美しい瞳に動揺の色はありません。
「時雨、動けますか」
先に立ち上がっていた時雨ちゃんに視線を移します。彼女は頬を膨らませてはいるものの、足を挫いたりはしていない様子でございました。ワタシ自身にも怪我はありません。
「申し訳ございません」
「謝る必要はありませんよ。しかし、妙ですね」
言いながら、月牙様は崖下に視線を落としました。我々を通過した岩跳鹿、彼らは仲間の死体の周囲に集まり、そして──
「うげっ」
──仲間だったものの首や背骨を、ぼりぼりと齧っておりました。仲間同士で角を見せつけ、威嚇するような様子も見られます。
「あそこまで死体に執着する様子は、初めて見ました。健康な状態であれば、首齧りは嗜好の一種に過ぎないはずなのですが」
我々の視線に気付いたのでしょう。立派な角を持つ一頭が顔を上げましたが、すぐに死体に視線を戻しました。こちらを襲う気は、既に失せているようでございます。
「……興味は尽きませんが、先に進みましょう。彼らの気が変わるかもしれませんし」
月牙様に頷いて、我々は再び歩みを進めました。
雨が強くなるにつれて遠くの景色が霞み、笠から滴る雨垂れも大粒になっていきます。岩跳鹿が集っている崖も、やがて薄青の霧に包まれて見えなくなりました。
「地図が正しければ、次の町までもうひと息でございます」
防水布を揺すり上げ、時に岩陰で身を休めながら、我々は山道を進みました。
やがて山道を抜け、広く固められた道を進んで行けば、目的地に辿り着きます。
鉱石の採掘で栄えた町『リンドウ』。
これまでの村々よりもずっと道幅が広く、当世風の様子が伺える街通り。しかし、辺りは静まり返っておりました。
ぱっと目につくのは都会人が好みそうな瓦葺のしっかりとした長屋、異国風の通伝局。車輪の外れた押し車、サビかけの絡繰や発条その他。そして廃墟でございます。
「……ずいぶん寂れていますね。この辺りは人口も多く、町も発展していると聞いていたのですが」
月牙様は困惑しながら周囲を見回しますが、灯りを宿してある街灯は僅かです。建物が所狭しと並んではいますが、多くは空き家のようでございました。
「五年前くらいまでは栄えていたそうですよ。原因不明の病が流行して、山向こうの新鉱山に人夫の大半が移ったとか」
「僕の情報はだいぶ古かったようですね。しかし、病とは?」
「知っている事なら話せますけども」
言いながら、ワタシは振り返りました。
背後には純白の衣を降雨でずぶ濡れにした時雨ちゃんと、その肩で縮こまる白鼻丸。どちらもしょぼくれた表情でこちらを見上げており、あわれな野良犬のようでございました。
「まずは、宿を取りませんか」
ワタシの言葉に同意するように、くしゅんっ!と。時雨ちゃんがくしゃみを炸裂させました。
◇崖の生活
シカは急峻な崖を比較的好んで利用する。ワシによる狩以外でも普通に滑落死しやすいので、春先になると十歩歩くごとに骨片や毛皮に足が当たる壮絶空間が生まれる。春先の肉食獣の、貴重な栄養源。




