幻惑の村 中編04
これだけ滞在していれば、『歌運びの杏華』が見知らぬ巫師と村を見て回っている、という噂は広がり切って、よく知った顔が社に顔を出すようになりました。
もちろん、旅芸人が家々を物色していると聞けば嫌がる方も多いのですが、巫師がいる手前、あからさまな排斥はされません。
また、馴染みの土地だったのが幸いして、好意的な者の来訪が大半でございました。
さて、朝餉は村の女衆が運んでくれた野菜入りの麦粥、味噌焼きの川魚、蒼稲子の佃煮でございました。噛むたびイナゴの脚が歯の間に挟まりますが、それ以外は非常に美味。
むしろ月牙様がいらっしゃるおかげで、普段よりも良いお食事をいただけたのでございます。
自分の食事を半分ほど終え、ふと周囲を見回しますと、月牙様は、綺麗な箸捌きで皿を空にした直後。部屋の隅に陣取った時雨ちゃんは、相変わらず食卓を汚していらっしゃいました。
「ふうむ……」
時雨ちゃんは、蓮のように大きく袖が開いた衣服を好んでいました。そこから手を出さずに食事をしようとするものだから、箸が持てずによく取りこぼすのです。
ご飯茶碗を両袖で持ち上げて、獣のように直で口に含む事もあり、ちょっと見兼ねる動作が多いのですが、月牙様はあまり気にしていないご様子でございました。
「月牙様。時雨ちゃんは、手を出したくない理由でもあるのですか」
ワタシの耳打ちに、月牙様は困ったように眉を下げました。
「彼女は過去に怪我をしていて、手が不自由なのです。簡単な動作はできるのですが、手を人に見せるのが嫌だと言うので、衣服も大きめの物を与えています」
「事情は分かりましたが、あの食べ方を無視して良い理由にはなりませんよ。保護者なら、行儀作法も面倒見てあげて下さいまし」
「……返す言葉もありません」
俯く様子から、思う所はあったのでしょう。まぁ、育ちの良さそうな月牙様が、弟子にしては態度の大きい幼子を連れて旅をしている時点で、二人の間にも難しい事情があると言う事は察しがつきました。
「今回ばかりは、介入させていただきます」
ワタシは自分の衣装から飾り紐を二本抜き取り、立ち上がりました。
「しかし、杏華」
「あなたの外見しか判断材料がない村人達にとって、保護対象の行儀は、そのままあなたの評価に繋がります。放っておくのは、お互いの為に良くないでございますよ」
ずっと聞き耳を立てていたのか、への字に口を曲げる時雨ちゃんに近付き、ワタシは続けました。
「というワケです、時雨ちゃん。手には触りませんから、少しお袖を触らせていただいても?」
「拘束ぷれいが好みとは。杏華はなかなか、あぶのぉまる」
と言いつつ、時雨ちゃんは素直に腕を差し出してくれました。蓮花のような袖がだらりと広がり、片膝をついたワタシの足にまで垂れ下がります。
「どこで覚えたのでございますか、そんな言葉。取り敢えず、そのまま腕を伸ばしておいて下さいまし」
ワタシは時雨ちゃんの手を取ると、大きく広がった衣装の裾口に飾り紐を巻き付けました。ちょうど、きんちゃく袋のように布を絞って、滑る幅を狭めるような感じでございますね。袖の中で手をぶらつかせる時雨ちゃんに、ワタシは微笑みました。
「生地の中で手が滑って、うまく箸が持てなかったのでございましょう? こうすれば、串程度なら持てるかと……って待った! その純白の衣でタレのかかった魚を持つ方がありまうわぁああーっ!」
慌てるも時遅し。味噌焼き魚をどや顔で掴んだ時雨ちゃんの衣には、べちょりとタレが付いてしまいました。これは作戦失敗かと諦めかけた時──
「へいき。裾が汚れたら、術式であらう」
「わぁい便利ですね水源の加護ぉ」
時雨ちゃんは無詠唱の竜沁術式で、難なく味噌を洗浄してしまいました。浄化術式とは、水源に住まう竜神の加護を借り受けて発動する聖技でございます。少なくとも、そういう事になっておりました。
うんと年下に見える幼女による、聖なる加護の無駄に無駄のない無駄遣い。そんなものを見せつけられたワタシは、複雑な心境でございました。
「改めて考えると、山野を駆けて汚れがないのはそうやって洗ってたからでございますね。しかし、毎度術をかけるのも手間でございましょう。服に替えがあるなら、以後も紐を通せるように縫製いたしますが」
「じゃあ、縫ってもらうお代。イナゴあげる」
「それは素の善意なのか単に嫌いなものを押し付けているのか、どちらでございますか?」
「両方」
「左様でございますか。反応に困るでございますねぇ」
無表情に鼻を鳴らす時雨ちゃんでしたが、朝日を受けた瞳は朝日を浴びる蓮池のような、深く吸い込まれそうな碧色に輝いておりました。思わず見惚れてしまってから、慌てて言葉を続けようとしたのですが。
「そんな簡単な工夫で改善するとは。時雨の快適性に目がいかないなんて、僕は床に溢れた味噌にも劣る愚図野郎……」
月牙様が一人で目を伏せて、自虐の言葉を紡いでおりました。本人は聞こえないように言っているつもりだったのでしょうが、ワタシは人一倍耳が良かったため、丸聞こえでして。
「自虐の表現が独特でございますね」
普通に返答を返せば、月牙様はびくっと肩を跳ねさせました。
「あ、いや、今のは違いますよ。ただの独り言、いえ独り言と言っても本気の言葉ではなく」
「はぁ」
「とにかく、気を取り直して今日も頑張りましょう!」
またしても、取って付けたような爽やか笑顔が咲きました。この御仁、能力に反して自己肯定感が低くていらっしゃるのか……などと考えていた時の事でございます。
「旅人さん達いるかい? 頼まれてたもん、持ってきたよ」
斎ノ社の戸が空いて、顔馴染みの村人達がどやどやと入ってきます。彼らが手にしているのは竹竿や鎖、バネ板式の鼠取りなど、日用品の数々でございました。
「こんなもので、怪物を捕まえられるのかい。あんた、腰に立派な刀下げてるってのに」
「組み合わせて加工すれば、最低限の装備にはなりますよ。追い詰めていぶし出せば、直接討伐する事もできなくはないのですが、幻惑で逃げられる可能性がありますし」
鼠取りの金属バネを確かめながら、青年は続けました。
「何より、このケモノの侵入が今回だけとは限らないでしょう。僕が知る限りの対策はしてから出立しますが、対応できる道具があった方が、皆さんが討伐する時に困らないだろうと思いまして」
その言葉に、しぃん、と社が静まり返りました。村人の反応が意外だったのか、道具類から顔を上げた月牙様に、女衆が言いました。
「冗談はよしとくれ。水源の加護がある巫師様ならともかく、あたし達みたいな村人に、怪物の退治が務まる訳がないだろう」
沈黙の中で、焚きしめた香のにおいが漂います。誰もが息を詰める中、青年は、少し間を置いて微笑みました。
「怪物も生き物です。生態さえ分かってしまえば、扱い方は通常の獣と変わらない。人にとっての脅威である事は間違いありませんが、巫師や武人でなければ倒せない……というものではありませんよ」
人々の表情や反応は様々。ほとんどが否定的なものでございましたが、月牙様は笑みを絶やさぬまま、皆を社の外に送り出しました。足音や声が遠ざかるのを待って、ワタシが社の戸を閉めた直後──
「僕は、何かおかしい事を言いましたか」
青年は、困惑の表情を露わにしました。
♢中型獣の捕獲
山側から人里に侵入してくる大型獣と違って、中型獣──特にアライグマは、人里の内側に住み着いて増えるのが特徴。増加速度を抑える為、人家付近での捕獲が必要になってくる。




