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幻惑の村 前編05

 

 割れるような頭痛と意識の混濁、それでいて静寂な思考の内側で、自我は記憶の海に溺れておりました。

 己の泣き声、すえたにおい、燃え尽きた灰のような空。見上げた先に、顔の見えない誰かの差し出す手。

 その手を取ろうとした瞬間、その人の身体は大きく揺れ、歪み、赤い飛沫で染まります。気付けばワタシは見下ろされる側ではなく、その人を抱き上げ、見下ろす側と成り果てておりました。


『泣く暇があったなら、さっさと逃げておけ、馬鹿者』


 ひび割れ、乾いた暖かい手。大好きだったそれが熱を失いながら、血塗れの呪いとなって、ワタシの頬にこびりつきます。


『だが、そうだな。それでも私を想ってくれるのならば』


 その人は私の耳元で細い息を吐きました。周囲にあるものは壊れた荷車、雨と泥に汚れ散乱した荷物。血に濡れ、折れた剣。そして、蹂躙の痕跡を残して消えた怪物の足跡でした。


『この場を生き抜き、……するんだ』


 ざぁざぁ、ざぁざぁ。降りしきる雨音が、全てをかき消さんとする中。


『血の繋がりは無くとも。私は確かに、お前を愛していたよ』


 その声だけは、はっきりと聞こえました。

 ああ、しかし遠ざかる。血の記憶はみるみるうちに白い光に塗りつぶされ、(いら)える事が叶いません。

 待って。置いていかないで。ワタシは、あなたとの約束を果たす為に──


 

「杏華っ!」



 ──視界が震え、音が弾け。気付けば、目の前に月牙様がおりました。

 青年は息を荒げ、腕を胸の前に突き出した体勢を取っています。彼の手が掴んでいるのは、ワタシの腕。ワタシは足を踏み出し、かんざしを月牙様に振りかぶった体勢で固まっていたのです。


「……え?」


 理解が及びませんでした。なぜワタシが、月牙様を攻撃しようとしていたのか。困惑したまま立ち尽くしていると、月牙様は、腕を掴む手を緩めました。


「意識が戻ったようですね」


 月牙様の言葉を聞いているうちに、遠のいていた感覚が緩やかに戻ってきます。しかし片目の視界がぼやけており、背後で口元を押さえるハヤさん、険しい目で、しかし安堵の表情を浮かべる時雨ちゃんが霞んで見えておりました。


「ワタシ、何を」


 無意識のうちに、青年に攻撃しようとしていた。その事実に気付き震えた瞬間、がくりと腰が砕けました。腕を掴まれたままだったので、転倒には至らず。しかし状況が掴めず混乱していると、月牙様は淡々とワタシを床に下ろしました。


「こうなる前の、最後の記憶は?」


「天井を、見ていて。天井から滲んだ汁が、御神鏡に当たりかけていたので、どけようとしていました。そしたら、目に、その汁が入って」


 手に握ったままだったかんざしを打ち捨て、ワタシは震えながら平伏しました。


「決して。決して、あなたを害そうなどとは考えておりませんでした。申し訳ございません。ワタシ、何が起きたのか分からなくて」


「いや。僕の注意不足でした。怪物の気配が近くにないからと、油断していました」


 月牙様はためらいながらも、ワタシの肩を叩いて顔を上げさせました。てきぱきと、感情を挟まぬ指示でワタシに水筒の水で目を洗うよう伝え、それが終わればワタシの顔に手をかざしながら、淡い藤色の光を降らせ始めます。


「建物を拠点に被害を出す、幻惑能力を持つケモノ。この社近辺に住み着いているのは、恐らく『アカナメ』です。通常、彼らは家の食糧や風呂垢、肥溜めなどを舐めて暮らしている。無害な間は存在を気付かれにくいケモノです」


 しかし、長く住み着いた個体は自身の分泌液を家に染み付かせる事によって、強力な幻惑を用いるようになる。天井の染みは、ケモノが天井裏に住み着いた事でできた分泌物の浸出液である。

 世間話のように、恐らくはワタシを安心させるためにあえて淡々と語っていたであろう青年が手を下ろすと、清涼な藤色の光が消え、社に重苦しい空気が戻ってきました。


「目は問題なく見えていますか?」


「……少しふらふらはしますが、ええ。視力に問題はございません」


「違和感が出た時は、すぐに言いなさい」


 ワタシに強く言い含めた上で、月牙様はため息をつきました。


「本当なら休ませておきたい所ですが、社の天井も、地下もアカナメの分泌液に汚染されています。確実性を取って僕たちと行動するか、もしくは……」


「──帰りは、いたしません!」


 ワタシは、腹の底から声を発しました。その大声に肩を揺らす青年にしまったと思いつつも、ワタシはにぱっと笑顔を浮かべます。


「いや、いや。手間をお掛けして申し訳ございません! まさか、神聖なる御神鏡を直接穢さんとする怪物がいるとは思いもせず。完全に不意を突かれてしまったでございますよ。建国奏歌にも、このような章がございましたね。確か……」


「──建国奏歌(けんこくそうか)幻想悪鬼(げんそうあっき)の章、ですか」


「ええ! 敬虔(けいけん)に暮らす人々を外道に落とさんと、御神体の裏に潜み幻惑を見せていた鬼を、救国の為に旅立たれた皇姫一行が討伐する物語でございます!」


 初めてあの物語聞いた時は、怖くて眠れませんでしたが。しゅんとした声で前置いた直後、ワタシは堂々と胸を張りました。


「今のワタシは、この程度で怯えるほど臆病ではございません! 足手まといにならない範囲で、助力いたします。名誉挽回にも努めますから、雑用でも何でも押し付けて下さいませ!」


「……相変わらず、胡散臭いですね。ですが、君の度胸と気概は買いますよ」


 月牙様は、ワタシの強がりに気付いていたのかもしれませんが。ただ諦めたような笑みを浮かべ、言葉を続けました。


「アカナメはカマイタチと同じで、本来は樹上の洞をねぐらにするケモノ。どちらの種も家屋の屋根裏や床下を好みますが、アカナメの場合は複数の洞を拠点にして、巡回する習性があります」


「という事は、この社もアカナメとやらの巡回路に含まれてしまっているという事でございますね」


「そのようです。不幸中の幸いというべきか、地下にいる人々の命に別状はありません。しかし、社の状態が改善しなければ回復は見込めませんし、僕たちも安全に動く事ができない。急拵えにはなりますが、アカナメが不在の間に社の怪祓いを行い、拠点の確保を行おうと思います」


 月牙様の提案に、ワタシは強く頷きました。聖域に潜み、しかも人に攻撃性を与える幻惑を操る怪物なぞ存在を許してはおけません。

 ……目覚めの悪い夢を見せられた分の借りは、三倍返しで殴り返す。そのような決意と、虚勢で隠しきれなかった恐怖を胸に、ワタシは月牙様の後ろに追い(すが)りました。

 

♢天井から滲むモノ

 動物が住処にしていれば、家に穴は開けるしエサの死体は持ち込むし、台所で盗み食い果てには天井裏で排泄をする。ただし実際は木板で濾過されて透明に近いから、雨漏りと間違え気付きにくいんだとか。

 これがご本尊に直撃し続ける事で腐食、文化財破壊というのが神社仏閣等で問題になっている。

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