幻惑の村 前編03
「怪物の仕業だと、なぜ分かるのでございますか?」
ワタシの問いに、月牙様は肩をすくめました。
「いくつか心当たりがあるのですが、確信を得てから。少し待っていて下さい」
月牙様は祭壇の前に腰を下ろし、蜻蛉の形をした紙を取り出しました。それを額に当て、小さく何かを呟いたかと思うと──
「わ、何それすごい! 飛んだ!」
社守の少女の言葉通り、紙の蜻蛉は翅を得て舞い上がりました。藤色の光を散らしながら、社の窓からするりと抜け出すそれを見て、ワタシは訊ねました。
「月牙様、今のは?」
「分身神という術です。術者と視点を共有できる使いですね。今、周囲の調査をさせています」
「サラッと仰ってますが、とんでもない事をされているのでは」
ワタシは呟きましたが、青年は分身の視点に気を取られているのか、すぐには応えませんでした。少し眉を顰め、小さく指を動かしながら、社守に問います。
「被害が出た家は、五……いえ、四カ所でしょうか」
「う、うん。合ってる」
「御神鏡が曇る以前に、地形が変わるような出来事はありましたか? 大雨が降ったとか、水路の整備をしたとか」
「んー、雨はけっこう降って、山の針杉が崩れたって話は聞いたよ。あたしが来たのはホントの社守が倒れてからだから、詳しいことは分からないけど」
「なるほど」
淡々と頷き、青年はまた無言になりました。きっとお声はかけない方が良かろうと様子を見ていると、社守の少女がすすっと近寄ってまいりました。
「あんた、歌運びの杏華だよね。あたしの事分かる?」
「覚えておりますよ。ここから隣村に嫁いだ、ウグイさんの娘御でございましょ?」
「うん!ハヤって呼んで。元気そうで良かった。最近来ないから、みんな心配してたんだよ?」
「それはそれは。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「この辺り、旅芸人多くないからねー。みんな愚痴が溜まってると思うよ。この前なんかさ、お母さんの所に昔の旦那の弟だって人が来てさ」
「おや、修羅場でございますか?」
他愛もない会話を、顔見知り程度の相手と弾ませながら、ほっと心を緩むのを感じました。
旅芸人とは流れ行く者。明日は旅立つ余所者、風と共に消える者にこそ、地に根付いた人々は普段吐き出せない言葉を預けます。
人々の陰の言葉を受け、風に流してしまう事が「旅芸人が幸運を運ぶ」と言われた所以のひとつ。一箇所に留まる「居候」に、人々は言葉を預けませんでしたから、こうしてお話をいただける事が、当時はありがたかったのでございます。
「……って感じだったよ。ようやく落ち着いたーって思ったら、おばあちゃんが倒れたから、代わりにニッケイ村に来て社守に入れーって。訳分かんないよね」
「それは災難でございましたね」
といった感じで世間話を受けていると、ふいに時雨ちゃんが立ち上がりました。
彼女が座布団の上に寝かされた女人に手を出そうとするのを見て、ワタシも慌てて腰を上げます。
「時雨ちゃん、危ないでございますよ」
ワタシの言葉に、時雨ちゃんは鼻を鳴らしました。
「へいき。時雨は、こういう人間を診るのに慣れてる。むしろ手伝え」
「ええ……?」
困って振り返りますと、月牙様は「手伝ってやって下さい」と言葉を落としました。時雨ちゃんは九つとか、十を過ぎたばかりに見える幼子でしたから、触らせて大丈夫かなァと思いつつ歩み寄りましたが。
「呼吸、問題ない。脈もふつう。マジナイを掛けられた痕跡、ない。体の中の竜沁が極端に減ってるけど、流出はない」
外見に騙されました。時雨ちゃんは、薬療師顔負けの早さで女人の身体を調べ上げると、血に濡れた着物をめくって言いました。
「腕の皮膚が剥けてる。これは、ケモノにやられた跡っぽい」
「どこでございますか?」
ワタシと社守──ハヤさんが覗き込むと、時雨ちゃんは女人の腕を持ち上げ、我々の方に向けました。確かに、女人の腕には擦り傷のような痕が無数に重なり、痛々しい赤色をしております。
「たぶん、ケモノに舐められて、皮膚が剥けた。ケモノには、獲物の血を吸うヤツ、結構いる」
「この傷! 地下の人たちにもあるよ。みんな暴れたりするから、治療はできてないんだけど」
ハヤさんが思わず身を乗り出しました。
「こら。素手で触るの、よくない」
時雨ちゃんの袖が、ハヤさんを押し留めました。
「ケモノの唾液が付いていたら、よくない。先に怪祓いして、ケモノの毒を抜いてから、傷を洗う」
時雨ちゃんは淡々と女人に手を翳し、浅葱色の光を身に宿しました。見習いなのに怪祓いができるなんて凄いなと感心しかけたのも束の間。
「──できた。もう触っていい」
なんと、祝詞をひと言も唱えることなく光を霧散させてしまいました。
「えー? でもいま、ひと言も祝詞言わなかったよね。本当に怪祓いできてるの」
疑わしげなハヤさんに対して、時雨ちゃんは鼻を鳴らしました。
「儀礼じゃないから、要らない。それより傷を洗いたいから、薬が欲しい。破邪の実ある?」
ハジャの実。傷口の洗浄など、消毒が必要な際に使う薬草です。干した物を煮出して使うか、酒漬けの汁を水に少量混ぜるのが定石なのですが。
「えーとぉ、薬草の買い付けをしていた人、いま地下にいるんだ。社に残ってた薬、もうほとんど使っちゃって……」
ハヤさんは肩を落としました。ハジャは、怪物が棲まう山の奥深く、岩場にこびり付くように生える薬草ですから、そこらの民が採取できるようなものではございません。
我々が無言になった直後。分身神を回収したらしい月牙様が、時雨ちゃんに声を掛けました。
「時雨。ハジャですが、少し手持ちがありましたよね。それを使ってください」
「分かった」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」
淡々と薬草を取り出す二人を、ワタシは慌てて制しました。
「ハジャは高価な薬草でございます。薬草売りや、ワタシのような流れ者は、そういったものを売って身を立てているのです」
それほど価値があるものを、無償でぽんと与えるのは如何なものか。端的に言えば、稼ぎ口を奪わないで欲しい。遠回しに伝えると、月牙様は目を瞬かせた後、静かに訊ねて来られました。
「では、君が今ここでハジャを売るとしたら、どのような見返りを求めますか?」
「宿代や食糧、旅装との交換でございますね。金銭での取引は、主に町場で行うでございます」
「分かりました。では、今回持ち出すハジャと交換で、旅の食糧をご用意いただけるか、後で村長に交渉してみます」
ワタシがほっと胸を撫で下ろす傍ら、損をした形になる村人は少し残念そうでしたが、致し方なしでございます。
信頼を得る努力は常に行いますが、善行で腹は満たせません。頂けるお代は、きっちり頂く必要がございます。
この在り方、現代では当たり前の感覚だとは思うのですが、金銭労働の概念が薄い小さな村落では浸透しておらず。
また、旅そのものを職務としていた──旅費を補償されていた月牙様にとっても、新鮮な感覚だったようでございます。
「僕では相場が分かりませんから、後で相談します。君の食い扶持を減らしてしまう所でしたね、申し訳ない」
「いえ、いえ、とんでもないでございます」
青年に対して慌てて首を振るワタシの背中に、『ちぇっ、がめついなー』と言わんばかりのハヤさんの視線が刺さっておりましたが、さもありなん。そちらは無神経なフリで受け流しまして、ワタシは手を叩きました。
「それで月牙様。この後は、どうなさるおつもりなのですか?」
♢獣創
出血よりも感染症を疑って対応する。素手で触ると感染症を移し移されるリスクがあるので、よほどの緊急時でなければ素手では触らない。




