73 番外編14 レオナルドの夏①
夏の初めに母上がクリスを登城させると言ってからしばらく経つが未だクリスは来ない。
自分に与えられた執務室の机に深く凭れ掛かり思案する。
今頃クリスは何をしているのだろうか。きっと私を思ってお菓子を焼いているのかもしれない。
いつもなら思い立ってすぐに馬車に乗り込みクリスの元へ行くのだが、今は行く事が出来ない。
それというのも、今までサボってきたツケが身動きが取れない位に溜まっているからだ。
比喩ではなくて、本当に身動きが取れないくらいの書類の山に囲まれている。
勉強は勿論、帝王学に、王家の仕事と色々だ。
これでも大分処理した方だが、依然量は増えるばかりだ。どうしてこうなった…。
机の引き出しを開け、クリスの写真を見つめる。
「はぁ…。クリス……会いたいです。クリスはどうして会いに来てくれないのでしょうか?」
一人ごちるが、回答は返ってこない。
「はぁ…。溜息ばっかり吐いていても仕方ありません。少し休憩しますか」
執務室に備えられているソファに寝転がろうとすると、コンコンとノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼するぞ」
返事と共に入ってきたのはウィリアムだった。
「ちょうど良かった。今から休憩するのですが、お茶でもどうです?」
「いいのか?」
「えぇ、少しは気分転換も必要ですから」
「そうか。じゃあ俺が淹れるわ。少し待っててな」
用事があった筈であろう、ウィリアムはそのまま部屋を出て行ってしまった。
そういえば、ウィリアムもクリスと会ってから、性格が変わりましたね。
以前はいかにもな生意気な少年だったように思いますが、今は少し思慮深くなった気がします。まぁ、少しですが。
待つこと十五分程でしょうか。ノックがしたので開けると、ティートローリーにお茶とお菓子を乗っけたウィリアムがいた。まさか一人で持ってきたのでしょうか。
依然の彼なら、命令して持ってこさせるくらいの事はした気がしますが、この変わりようには驚かされます。
そんなウィリアムはテキパキとお茶の準備をし、ケーキスタンドを置いてと、……随分本格的ですね。
そんなに長く休憩するつもりは無かったのですが、折角なので楽しむとしましょうか。
しかし今日は驚く事が多いですね。
ミルクを少し淹れたカップに上の方から紅茶を淹れています。
随分と慣れた手つきですが、執事にでもなる気ですかね?
「ほら」
口の利き方にさえ気をつければ、今すぐにでもなれる気がしますね。
もしかして、クリスの執事見習いにでもなる気でしょうか? もしそうなら止めないといけません。
「リアムは執事にでもなるんですか?」
「え。なんで?」
「いえ、こんなしっかりとお茶の準備をされていますし、何より動きはそれなりですし…」
「あぁ…」
いや、『あぁ…』じゃないですよ。どうしてそういうところは昔のままなんですかね?
「俺…さ、将来料理人になろうかと思ってな…」
それは初耳ですね。
「いいんですか? 継がなくて…」
彼はこの国の第一騎士団団長クロムウェル卿の長男だ。てっきりその跡を継ぐものだと思ってました。剣の訓練だって今も続けているわけですし。
「いいんだよ。弟のが強いし才能もある、更にいえば一番下の弟のがもっと強い」
やっぱり武門の家に生まれるとそういうもんなんですかね。昔のウィリアムが拗らせたのもそこが原因な気がします。
「でもやっぱ、クリスの方がめちゃくちゃ強いんだよなぁ…」
強いのはいいですが、私の大事な婚約者です。擦り傷一つでも大事です。
「いいですかリアム? ちゃんと手加減しないといけませんよ? クリスの顔に傷なんて付けようものなら許しませんよ」
真面目な話をしたはずなんですが、ウィリアムは途端に笑い出してしまう。
「はははっ。無理無理。もうそんじょそこらの奴らとはレベルが違うよ。圧倒的にクリスの方が強いし、なんなら俺が手加減されてるまであるし」
「それは良かったです」
「良くねえよ。まぁそうだな…。本気でやってもかすりもしないどころか、近づくのすら無理だもん。一生かかっても勝てそうにねぇなぁ」
ウィリアムにそこまで言わせるなんて凄いですね。
流石は私の婚約者です。
クリスの剣の腕もそうですが、ウィリアムにここまで言わせること自体凄いことです。私も誇らしく思います。
しかし、クリスは一体どこを目指しているんでしょうか?
私はそんなクリスを守りたいんですが、どれだけやればいいんでしょうか。
ふと気になったことがあるので、ウィリアムに尋ねてみる。
「あの、すいません。手を見せてもらってもいいですか?」
「なんだよ急に。まぁ減るもんじゃないしいいぞ」
そう言って出された手は豆だらけだった。新しいものや潰れて硬くなったものなど、見ただけで並大抵の努力ではないと感じられた。
「こんなになるまで……。努力されたんですね」
「ん? まぁな。料理長には力を入れすぎだって良く言われるよ」
ズコッと上半身が斜めに傾くほど驚いてしまった。
「え? 待ってください。…その、え? 剣の訓練でできたのではないのですか?」
「違うぞ。ここの料理長に頼み込んで修行させてもらってるんだ」
知らなかった。いつもいるので、てっきり騎士団で訓練でもしていると思ったのですが、まさか厨房に出入りしていただなんて…。
「朝親父と特訓した後に、シャワーを浴びて、着替えてからだから、六時か七時には厨房入りしてるな」
「ず、随分とハードなスケジュールですね……」
「慣れればそんなに大変じゃないぞ。前から朝早く起きてたしな」
私は朝が弱いので羨ましいです。
「今じゃ、野菜や果物の皮剥きから、下処理に下準備までは任せてもらえるようになったけど、まだまだこれからだな」
「そうですか。頑張ってください」
「あぁ。いつかクリスに美味しいって言ってもらいたいからな」
嬉しそうに将来を語るウィリアム。
「ちょ、ちょっと待ってください。え? クリスのために料理を習ってるんですか?」
理由によってはウィリアムに対する評価を変えないといけません。
「半分はそうだな」
「半分?」
「俺に料理の楽しさを教えてくれたのがクリスだからな。その恩返しもあるし、自分の将来について考えさせえてくれたからな。だから、残りの半分は自分の為だな」
すごいな…。この歳でここまで考えているなんて…。
よくよく考えたら、こんな素直に言える時点で恋愛対象では無いんですよね。
好みの人の前だと、照れが出ていますからね。
そんなウィリアムにさっき嫉妬してしまった自分が恥ずかしいです。
「まぁ、まだクリスの足元にも及んでないんだけどな」
「料理といい、剣の腕前といい。クリスは凄いんですね」
「そうだな。でもあそこのメイドのがもっと凄いぞ?」
「そうなのですか?」
「料理の方はともかく、剣や格闘技なんか絶対に勝てない」
「そんなにですか?」
確かに何人か凄い方はいますが、そんな凄い人がたくさんいるんでしょうか? 俄かには信じられないですね。
「で、その上がレイチェル様な。絶対に勝てる気がしない。正直うちのばーちゃんより強いかもしれない」
お祖母様ですか…。
確かスーパーグレート将軍と言われた人で、先代の騎士団長だった方ですね。
本名はなんでしたっけ…。その異名が強すぎて本当の名前を思い出せませんね。
過去にエメラルド帝国が攻めて来た時に、一人で一万人以上の兵士を薙ぎ払ったという生ける伝説だ。
だから、北部の割譲された大体の都市には彼女の銅像が建っている。
そんな人より強いなんて、一体どれくらい訓練すればいいのだろうか。
「……ふぅ。随分と話し込んでしまいましたね」
「そうか? 最近ゆっくりできてないだろ?」
確かにそうですね。ここ最近忙殺されていて、寝る時以外休めていませんでしたね。
「でも大丈夫です。あと、あそこの束を片せば終わりますので」
「あの量を…か? 無理すんなよ?」
「お気遣い感謝いたします」
「まぁ、レオがクリスのところいけないってのに俺だけ勝手に行くのも悪いと思ってな…」
あぁ…。私はいい友人を得ましたね。
しかし、知っているんですよ。クリスのところには行ってないけれど、レイチェル夫人主催のイベントには全て通っていることを。
まぁ、そんなとこまで突っ込む気はありませんがね。
早くこの仕事を終わらせてクリスの所に行きましょう。
今年は特に暑いですからね。きっとクリスも薄着になっていることでしょう。
そんな風に、今後の展望を考えていると、いつの間にかウィリアムがティーセットを片付けていた。
音もなく素早く。正直、執事の方が向いてる気がしますが。
「レオが仕事してる間、俺は修行に専念するからさ」
「なんか、すいませんね」
「気にすんなよ。頑張ってあっと言わせてやろうぜ」
そう言って、久しぶりの有意義な休憩はあっという間に終わったのだった。
しかし、ウィリアムの用事はなんだったんでしょうね? まさか、ただお茶を飲みながら談笑するのが目的ではないでしょうし。
まぁ、何か思い出したら、また来るでしょう。
それまでにこの仕事を片付けておきましょう。
そう思って椅子に座り、手を付けようと思ったのですが、さっきより随分と気持ちが楽になりました。
さっきは強がって言ってみせたものの、これは本当に今日中に終わらせられるかもしれませんね。




