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多恵さん旅に出る Ⅶ  作者: 福富小雪
1/1

多恵さんと長崎、祖父母、そして鎌倉。父の入院。多恵さんの理解者は現れたのか!

 日光から帰って一月以上過ぎ、もう七月になってしまった。頼まれていたバラの画をやっと描き上げて、夫の上司、中川教授の所へ届けに行く事になった。勿論大樹さんも同行する。なぜか大樹さんは嬉しそう。鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気なのだ。

「なんだかとても嬉しそうね、何か良いことあるの?」多恵さん、一応聞いてみる。

「いや大した事じゃないんだ。でもさ、ちょと楽しみなんだ」

「あー分かった、何か教授が面白い本を手に入れて、それを見せてもらえるんでしょう?」

「フフフ、分かってしまったか。いや夏休みに入って直ぐ手に入れたらしくて、さっき電話したら、丁度良かった今日是非見て行ってくれとさ」

「ほんとに本好きのお二人さんねえ、まるで恋人に会いに行くみたいだわ」

「そんな事ないよ、恋人は僕の隣にいるんだし、もう一人の恋しい娘は学校に行ってる。まあどうしてもと言うのなら、家族が居てもファン活動してる、今流に言うなら、推し活と言う感じかなあ」

「良いの良いの、恋人に会いに行く気持ちで。本に焼く奥さんはいないわ」

「そうだな、現実にはこんな素敵な奥さんと、これまた出来過ぎの娘が居て、おまけに触れ惚れする絵までついてる生活があり、その奥さんと人間でない恋人に会いに行くなんて、これは贅沢と言わないで何と言おうかな?」

「そうね、そう思ってくれる人が傍にいてくれてわたしも幸せだわ」

そんな幸福な二人は大事な画(額装がしてある)とケーキのお土産を(途中で買った)持って世田谷の教授宅へたどり着いた。

玄関のチャイムを鳴らし、マイク越しのやり取りが済んで久美子夫人が現れた。

「まあいらっしゃい、今日はよく晴れてて暑かったでしょう」と久美子夫人。

「ほんとに梅雨時と思えない程、この所良く晴れていますねえ。えーと、これはお土産でケーキです。奥様がここのケーキがお好きと聞いていましたので、買ってきました。お好きなのが入っていれば良いのですが」

ケーキの箱が夫人の手に渡る。

「それからこちらが頼まれていたバラの絵です。女神の微笑みと言うクラシックローズです」

横にいる大樹さんの持った風呂敷包みを指し示す。

「まあまあそれは楽しみだわ、こっちに来て見せて頂戴」

夫人が先に立ってダイニングキッチンに入って行く。二人も後に続く。

「ささ、ここの上で開けて頂戴」

大樹さんが包みを乗せる。多恵さんが包みをほどき、箱を開ける。

「まあ、なんて奇麗なバラ。薄いピンクがだんだん真ん中に向かって濃くなって行くのね。それに何層にも重なって、見慣れたバラとは全然趣が違うわ、正しく女神の微笑み、そのものだわ」

「はい、今はハイブリットのバラが主流ですから。あのバラは世に出てからまだ百年も足っていない、50年から60年ぐらいだとこのバラを描くに当たって知りました。ハイブリットのバラもきりっとして好きなんですが、クラシック系も豪華でしかも優しい雰囲気に包まれていて好きなんです」

「ええ、私もすごく好き」

「そう言ってもらえて嬉しいですわ。でももし普通のハイブリットの方が良ければそちらの方をお持ちします」

「フフフ、そう言うことはハイブリットの方も用意したのね、うーん、良いわ、それも貰っておくわ。この次にでも持って来て頂戴。でも本当にこのバラが私は気に入ったわ、こんなきれいなバラがあるなんて今まで全然知らなかったの」

夫人はちょっと待ってと言いながら、奥の部屋に教授を呼びに行ったらしい。

夫人に先導されて教授が「やあ」と言いながら現れた。

「ねえ見て、このバラ、女神の微笑みて言うんだって、素敵じゃない」

「うわあ、これは綺麗だ。それに優しい色だ。うん、まるで‥いやよそう、花を女性にたとえるのは」

「まあまあ、ほんとは多恵さんと言いたかったんでしょう。良いんですよ、わたしに遠慮しなくても」

「いや、お前だって綺麗だったよ、今も思い出すよ君のウエディングドレス姿。もっと早く着せてあげたかったな、本当にすまなかったね」

大樹さん軽い咳払い。

「あのう教授、この画何処に架けますか」

「ああ、そうだった、これはこのダイニングのここん所に架けて欲しいと思ってるんだよね、お前?」

「ええ、そこだったら直射日光は当たらないしあなたからもわたしからも見えて良いと思うわ」

背の高い大樹さんのおかげで難なく画は壁の所定の場所に収まった。

「ほうら、部屋の中が華やかで明るくなったわ」と久美子さん。

「うん、何だかコーヒーを飲むのが楽しみになるよ。友達にも自慢できるな」

「これはクラシック系だけどもう一つハイブリットの方のバラもあるんですって、それもこの次に持って来てもらう事になってるの。一緒に並べるのも良いけど、あちらの寝室に飾るのも良いわね」

「そうだな、それは同じサイズなの?」と教授が多恵さんに尋ねた。

「ええ、同じです。どっちのバラがお好みかわからなかったので、一応二種類描きました」

「成程、そしてこっちを持って来たと言うわけですね」

「ええ、わたしとしては両方とも大好きな花ですが、どちらかと言うと、美しいのにとこちらの方はあまり一般的に知られていないのが少し残念な気持ちがあって、是非、先生のお部屋に飾って欲しかったもので、今日はこちらの方をお持ちしたのです」多恵さん、一気に説明する。

「ところが久美子はそちらも欲しいと言ったんだね」

「ええ、それを聞いて、あそう、それは今度にするわと引き下がる訳ないでしょう」

「そりゃそうだな、ハハハ」

「さあ、じゃあコーヒーを入れてケーキタイムにしましょうかね。あなた方お二人はその後、何か二人だけの密談があるんでしょう?」

「み、密談じゃありませんよ、先日先生が購入なさった本を見せて頂くだけですよ」大樹さんが慌てて否定する。

「ま、良いじゃないか、二人だけの時間だから、密談とも言えるさハハハ」教授は心から楽しげに笑う。

教授の大樹さんを養子にしたいという話が多恵さんの脳裏に蘇る。

 真理たちも夏休みに入った。真理の持ち出した話が少しそれて、と言うか大樹さんがワザと反らせたのかも知れないが、真理は今まで触ったこともない将棋を大樹さんと指すことになってしまった。

大樹さんはいそいそと物置場の奥深くしまい込んでいた将棋盤と駒を取り出す。真理は必死で将棋の本を読みだす。

初めは駒の動かし方も、駒の読み方さえも知らない真理に、嬉しそうに楽しそうに教える大樹さん。でも日にちが立つにつれ、真理の腕前はめきめき上達して行って、大樹さんとも好い勝負をするようになった。

「うーん、も少し早く真理の才能に気づいていたら、プロになれたかも」と大樹さん、悔しがることしきり。真理はそれを知ってか知らずでか、父親を喜ばしたい、それだけの思いで将棋の本を読み漁り、腕を上げて行く。しかし大樹さんの喜びも打ち破られる日が直ぐにやって来た。

 真理が友達3人と、その友人のお母さんの運転で名栗川に行くと言う。男友達(隣の武志君とその友人沢口君)女友達美香さんがメンバーだ。藤井夫人は運転しない。多恵さんは建前運転しないことになってるので、運転して連れて行って下さるのは、沢口夫人だ。とてもありがたい。

とてもありがたかったのだが、それはとんでもないものを運んできた。模型である。帆船の木による模型作り。多恵さんの父親の若いころの夢が船乗りだった(夢はあくまでも夢。現実はたいして泳げない、頑張りが全くない、英語も全然できない、おまけに高所恐怖症と来てる父)そしてその現実を全く気付いていない父は思い出したように「俺は商船大学に行きたかったんだ。でもあそこな皆寄宿校で家に言えなくて受けられなかったんだ」とほざく。

母は母で、そんな父の夢を少しでも叶えてあげたいと思い、小さなヨットみたいなものを買おうとした節がある。真理もそれを知っていた。

で、その日真理ちゃんは、男の子達が夏休みの自由研究にと二人して作った帆船の模型を川に浮かべるのを見て、これぞじっちゃんへの最大の誕生日プレゼントになると考えた。

「ねえ、船作ったことある」真理ちゃんが尋ねた。

「船、飛んでもない、全く、全然。長崎の大伯父さんなら造船所の内燃機研究所と言う所で、エンジンだか何だかの研究をずーとしてたけど」

「本物じゃなくて、木の模型なの。じっちゃん、模型でも喜ぶよ。武志君や沢口君も最初の所は手伝うと言ってるし」

と言う事で、大樹さんの楽しみの将棋は彼女の脳裏から消え去り、帆船の模型作りへとスライドして行ったのである。

しかし、夏休みも終わり、大樹さんも大学へ行き始めて、気が付けば多恵さんがその殆どを作らなければならない事になっていた。

「大変ですね」と六色沼公園で一息入れていた多恵さんに杉山君が声をかけてきた。

「ええ、幽霊さんでも猫ちゃんにでも手を貸してほしいくらいだわ」

「これじゃあスケッチ旅行にも行けませんねえ」

「誕生日前に渡したいのよ、何だかそんな焦る気持ちがしてならないの。うん、でもなんだか楽しくもあるから、もう一息頑張ってみるわ」

家に戻り模型に取り込む。おや、何だか前よりすいすい運ぶ。うーん、あいつら何かまた術を覚えたのかしらん。でもほんとにこれはありがたい、彼等のなせる業としたら、幽霊さんたちに只々感謝。

よって、思っていたよりずっと早く仕上がった。

「わあ、お母さん、もう出来たの。早い早い」と真理の喜ぶこと。

「「早くじっちゃんに見せてあげようよ」

「そうね、今度の土曜日にでも届けようか」多恵さんも少し早いと思ったけれど、心の奥で誰かが「早くしろ」と言っている。

土曜日、二人で船を届けた。

じっちゃんの喜ぶ事、喜ぶ事。(多恵さんには父だけどね)

「これを真理ちゃんが作ってくれたのかい」

「お母さんが手伝ってくれたけど・・・本と言うと殆どね」

「でも、帆船の模型を作ろうと言ったのは真理よ,最初の組み立ては真理の友達も手伝ってくれたし」

「良いよ良いよ、どちらでも。真理ちゃんと多恵の合作、こんな素晴らしいプレゼントはない、最高の誕生日が迎えられると言うものだ。ここに飾っておこう、店番をしながら何時でも眺められるよ。うん、船乗り気分でね」

彼の脳裏には広い海原を風を受けさっそうと滑り行く帆船の上でパイプを燻らせる若き姿が浮かんでいた。

その日から2日もしない朝の事だった、電話が鳴った。母からだった。

「あのね、母が夕べ痰を詰まらせてなくなったと、今伯父さんから電話があったのよ。わたしは直ぐに長崎に出発するわ。あなたどうする?」

「勿論行くわ、真理を連れて。今日は無理だから明日出発するわね」

翌日真理と二人、長崎へ。一応スケッチ帳と水彩道具とカラーペンシルは画家としての嗜みと言う事で、旅行鞄の中へしまい込んだ。

「え!」と多恵さんは驚く。杉山君始め幽霊諸君が飛行機の中にいるではないか。大体が長崎行きの飛行機は何時乗っても満席状態だから、空いてる席はなく、幽霊さん達は狭い通路にプかリプカリと浮かんでいる。風船ならば優雅で綺麗とでも言えるだろうが、何しろ幽霊だ、それも大半がムサイ男たち、優雅とはとても言えない、むしろ邪魔っけで見苦しい限りだ。

長崎はとてもよく晴れていて海と山に映えて、青空が眩しい。

葬儀場と言うか葬儀を執り行う会館は実家の近く、と言っても実家は山の中腹、会館は下界に降りて、バス通りとそこから数分歩いた本通りのチンチン電車や数社のバスが走る道路を渡り、郵便局とカステラ会館の間を抜け、今度は鉄道の線路を渡った先、悠然と流れる浦上川の前に立つ建物だ。それも道を隔てて二棟に分かれて立っている。まごまごしてたら母が手を振っている。

「丁度良かったわ、もう来る頃と思って上から降りて来たの」

その上に行くといわゆる親戚が集まっていた。

「お昼、何か取ろうか」と下の伯父さんが提案。

多恵さんはチャンポンを食べたかったが近くの中華店のチャンポンはテレビか何かで評判になり、とても無理とのこと。結局近場の他の中華屋から(長崎には中華屋さんは掃いて捨てるほどあるのだ)皿うどんを取ることに。多恵さんは母から「凄く美味しい」と聞いていたその中華店のチャンポンを是非食べてみたいと思っていたので、とても残念な思いだった。

母と真理は葬儀の係りの人に連れられて、実家の方に置いて来なくてはならないものがあると言って車で出かけて行った。

多恵さんはその間にこの前を流れる浦上川が気に入ったので、少しスケッチをしてこようと出かけることにした。

長崎の港を鶴の港と言うらしいが、海からこの浦上川に伸びる様は、平地の少ない所ゆえに埋め立て埋め立てで港は変形して行ったかも知れないが、それを引いても十分鶴の港と言えるじゃないかと多恵さんは合点した。

両岸に植えられた柳がなびき、ちょと下の出っ張りに植えられたのか、自然に生えてきたのかは分からないがススキが穂を出している。こちら側の道は狭いので向こう側へ橋を渡って描こう、と多恵さん、信号が変わるのを待つ。

「そうだ、あの連中どうしたろう?」ふと多恵さん幽霊軍団を思い出した。

「やっと思い出しましたか、俺たちの事」

「はいはい、話は向こう側に行ってから」

「丁度信号も変わりましたよ、さあ早く渡りましょう、ここは交通量が多くて大変ですね」

幽霊さん達が次々現れる。

「長崎は平地が少ないのでどうしてもこうなるらしいわ。しかも横に流れる公共の乗り物は完備してるけどこのように縦に繋ぐ公共の乗り物は少なくて、縦に行くには徒歩か自前の車かタクシーで行くしかないの」

「そこで由美はわたしの入所しているマリア老後園に長崎に帰ってくると、目では近場にあるけれど、この橋を渡って、さらに暫く歩いて、歩いて通っていたんだよ」多恵さん慌てふためく、祖母の声だ。

老後園に入る前は実家で90過ぎるまで、一人暮らしをしていた。元気だった。とても若く見えていた。そのころ、多恵さんは友人たちと一緒に長崎にやって来て、祖母の家に泊まってあっちこっち見物して回った。あれから15年以上立っている。あの頃はまだまだ元気で髪も真っ黒だった(染めていたんだけれど)目の前に現れた祖母は髪は真っ白で、何だか顔も少し感じが違って見える。

「どうしたんだい、少し顔も違っているかもねえ。年を取るとあごの筋肉が衰えてねえ、引力に逆らえず垂れてくるのさ」矢張り、祖母だった。103歳で喉を詰まらせ、夜人知れず亡くなったらしい祖母。死ぬまで人に迷惑をかけず、明るく、賢く振舞った人、それが祖母である。

「ううん、本当は生きてる時に会いに来るべきだったのにと悔悟の念に駆られたの」

「まあ、あんたも色々あって忙しかったけんで来れんやったんやろ?後悔しても仕方がなかよ」

「それでどうしてこの幽霊さん達と一緒にいるの?」

「それがさあ、私

あたしは棺の中でじっさんが迎えに来るのをおとなしく待っていたんだよ。そしたらあんたが由美と私が食べたチャンポンを食べたいと言う話をしてるじゃないか。しかもそれが今すごく人気で中々食べられないって話。ふーんと思って外に出てみたら、あんたが幽霊みたいな連中に取り囲まれているじゃなかと。こりゃ大変だと思って『なんであんたたち、あたしのかわいか多恵ちゃんの周りにいるとね、さっさと向こうに行かんねえ』と言ってやったんだよ」

「そこでぼ、僕が、それはとんでもない誤解ですと、今までの話をかいつまんで話したところ、やっと了解を得たと言う訳です」杉山君。

「ついでにチャンポンの話をしたところ、おばあさんが私が案内してやろうと連れて行ってもらったんです」と良介君が続ける。

「あれは本当に豪華でうまっかった」石森氏。

「ええ、チャンポンがあんなに美味しいものだなんて知りませんでした」

「今まで食べていたものとは全然別ものだったわ、麺自身も味も」女性陣からも声が上がる。

「分かった分かった、それ以上言わないで!」多恵さんが皆を押し留める。

「わたしはそのチャンポンを食べたかったのよ、でもお客が多くて食べられなかったの。その残念な気持ちでここにいるの、そんな話を聞くともっと残念になるじゃないのよ。早く忘れてスケッチに取り掛かろう」

「そう言えば、真理ちゃんはどうしたの?確か来てくれてたはずだよねえ」

祖母が思い出したように尋ねた。

「ああ、真理は母と一緒に葬儀屋さんたちと家に行ったわよ、何だか家に飾らないといけないものがあるからとか。正一伯父さんも一緒だけど」

「そうか、飾りつけばせんといけんとね。誰もいない家に飾りつけしたって、少しばっか虚しかと思うけど、あたしは」

「まあそれはそうだけど・・・時々、和尚さんがお経を上げに通ってくるので、正一伯父さん夫婦があの家に行くらしいわ」

「まそれはそうだね、一応格好付けなくちゃいけないんだ。そうだ、あんたたち、私と一緒に坂本の家に行ってみたくないかい。なーんにも無いけど山は近いし、下界は見下ろせる。さあ行こう!」

祖母の号令に幽霊諸君、喜んでか渋々だか分からないがすぐさま彼女に従って飛び立った。

多恵さん、気を取り直し川のスケッチに向かう。川の向こう側とこちら側とでは、まるっきり印象が違う。向こう側から見ると山が直ぐ近くに迫っているので何となくせせっこましい印象を受けたがこっちに来て眺めると、多恵さんが歩いてきた分平地が広がり、いきなり金毘羅山へと続くのではなく手前に穴コボ山などの小さい山があるため、解放感があるし、建物も長崎らしいちょっと異国情緒を感じられるものがあって、絵描きの心をくすぐる。この穴コボ山とは金毘羅山の中腹にある岩山で、洞穴の中に弘法大使が祭られているので、そう呼ばれているらしい。多恵さんは母からそう聞いたが、その母もそう推理しただけで良くは分かってはいない。もう一度長崎に来て時間があったら、上って確かめなくちゃあいけないな。その北東に広がる景色を方向を変えてたり、主人公を変えたりしながら5枚ほど描いていった。

夕方になり元の建物に引き返す。

もう母も真理ちゃんも会館に戻っていた。

「お母さんも来れば良かったのに、赤い花が山に沢山咲いていたよ」

「丁度彼岸だからね、彼岸花が畑に植えてあって、それが咲いていたのよ。母は赤い花が大好きだったからあの世に旅立つのにふさわしいと思ったわ」と母が説明する。

多恵さん、幽霊軍団をを引き連れ、何やら話し込んでいた祖母を見つめる。

「わたしはね、赤い花も好きだけど、紫の花も好きなんだよ」それに気づいた祖母がそばに寄って来てささやいた。

「あら紫の花も」と多恵さん、思わず口に出して言ってしまった。

「そうなのよ、紫色の花も大好きなの」と多恵さんの母。

「はい、明日のお花には紫色の花を沢山入れてくれるように頼んでありますよ」と言ったのは、正一伯父さんの奥様、克絵夫人。

「本当に克絵さんはよう気が利くもんねえ、ありがたかと何時も思とったよ」と祖母が又ささやく。

お通夜が始まったが、それは祖父の時とは違って寂しいものだった。と言っても、多恵さんがまだ小学3年生の時だからはっきりと覚えていないが、近所の人も大勢来てたし、勤め関係、伯父の関係等々溢れるほど来てたのを覚えている。それに引き換え、伯父さん二人はもうとっくに大学(上の伯父はその研究にほだされた九州大学の教授に請われて、三菱造船所から大学の先生になっていた)や会社をリタイアしていたし、

長崎にいる親類、縁者、それにマリア老後園の関係者だけの通夜となった。その親類と言っても祖母の兄妹は皆無で、母のいとこの男が2人と女が一人だけ。それに2組の伯父夫婦と多恵さん一行3人。縁者は克絵さんの弟さんだけなのだ。

「うん、葬式は皆に惜しまれるうちにやった方が賑やかで良かねえ」と何となく薄暗い感じの通夜室で、祖母が残念がる。

「兄さんが、長崎に住んでたら来年の盆祭りには精霊船、立派なのを作って賑やかに送ってあげたかったわねえ」と母が呟く。

「ああ、賑やか好きの母さんだったからね」上の正一伯父さんもうなずいた。

「そうそう、賑やかかと良か男が好いとると」と祖母がしゃべる。

「でもさあ、本当は今私の周りには中年から若い者まで揃って結構賑やかなんだけど、みんなには全然見えなくて残念かねえ」

「じゃあ、今夜、わたし達だけでパーテーでも開きましょうか?」杉山君たちが盛り上がる。

「パーテー?そりゃあ良かねえ、わたしはパーテーが大好きなんだ。でもこの格好ではおさまりが悪か、もっと良かキモンが欲しかあ」

「はいはい、和服が良いですか、それともドレスにします?」輝美ちゃんが祖母に尋ねる。

「そうね、ダンスばしよったけん、ドレスば着たか」

「それが売ってあるか、貸し出すような店知ってますか?」美咲さんが聞く。

「勿論知ってるわよ、この近くにあると、これから行って着替えてくるばい」

まもなく紫の衣装に着替えて華々しく祖母、再登場。

「お酒、飲まれます?」石森氏が尋ねる。

「昔はねえ、飲めないと思っていたんだけど、爺さんが死んでからと言うもの、タガが外れて飲むようになってね、いや、家では飲まんばい、飲まんばってん、こんなみんなが集まる席では、結構飲んでいたとよ。それが本当に美味しくてさ、泊りがけの夜は随分飲ましてもらったよ」

「じゃ、今夜は美味しお酒を、あ、どう云った酒がお好みで」

「そうね、ワインも良いけど、本当はビールにジュースを入れて飲むのが好きなんだ」

「へー、変なものがお好きなんですねえ」

「あら、もしかしたら美味しいかも、私も今夜はそれにしよう」

「そうね、ジュースを色々変えて楽しみましょうよ」盛り上がる女の幽霊たち。

「さっき、隣の建物覗いたら、あっちは式場がメインで、こっちみたいにお通夜はやらないらしいよ。だから食べ物も豊富、飲み物も豊富。明日の朝まで盛り上がりましょう」

「ここの周りにも料理屋さん沢山あるし、バー等は電車通りを超えれば、押せや押せやと言わんばかりだからね。勿論本の前まではそんな事なかったんだけど、いつの間にやら飲み屋ばっかりになってしまったよ」と祖母が呟く。

「本当に昔は市場が多くてさ、遠くから野菜を売りに来る人もいたし、喫茶店なんかも結構あったんだよ。そうそう由美の大好きなブランデイーカステラを作っていた山本屋さん、あそこは古くからのケーキ屋さんだったのに、どうした訳か無くなってしまったらしい」祖母は少し寂しそうな顔。

多恵さんも母がケーキの山本屋さんが、長崎に帰ってみたら閉店していたと、嘆いていたのを聞いている。

この会館は勿論泊まることもできるので、正一伯父夫妻と由美さん、多恵さん、真理ちゃんは泊まることになった。勿論布団もお風呂完備している。ついでに朝ご飯も!

下の伯父さん夫妻は今は鹿児島に住んでいるので、今夜はホテルを予約してあってそのホテルに帰って行った。夜景が素晴らしいと評判の稲佐山の中腹にあるホテルらしいが、真理にも夜景を見せてやりたいなと、ちょっぴり多恵さんの心を掠める。

「あ、そうや、真理ちゃんに夜景を見せんといかんばい。今から行くね?」と正一伯父さんが言い出した。

「見に行きたい!」と真理は即答。

「昔なら自動車を運転してたけん、直ぐ行けたけどさ、今はタクシーで行って、それからロープウエイに乗って上がって行かんばいけんけど、それも良かよ。帰りはタクシーで帰らんでテクシーで帰ろうか?ここまでなら大したことはなかけん。多恵ちゃんも一緒に行くよね」

「ええ勿論。わたしも一度ロープウエイに乗って見たかったの」

「へー、多恵ちゃんはまだここのロープウエイには乗った事なかったんだっけ」

「まだ幼児の時、父と一緒に稲佐に行った時は乗ったけど、あの時はまだ小さかったし、昼間乗ったので、覚えていないのよね」と母の由美さんが付け足す。

「小さい時おじいちゃんと行ったの?」多恵さん吃驚して聞き直した。

「ええ、、父は多恵が大好きで、いつも抱っこしてたわ。会う人ごとに可愛いお孫さんですね、おじいちゃんにそっくりと言われるのが喜びであり自慢だったのよ。探せば写真が残っているはずよ」と由美さん。

「じゃあ行こうか」

正一伯父さんを先頭に多恵さんと真理ちゃんが続く。???

後ろから祖母を先頭に続くのは幽霊軍団!

「わたしもね稲佐からの夜景を見てみたかったよ」と祖母が言う。

「えっ、おばあちゃん稲佐からの夜景、見たことなかったの?」と多恵さん思わず口に出してしまう。

「ああそう言えばそうかも知れんね、連れて行った記憶がなかもん」と伯父が答える。

「長崎に住んでるから、当然見てると云う固定観念があるから、気にもしてなかった」しみじみとした伯父の顔。一抹の寂しさが漂う。

祖母はそんな長男の気持ちなどお構いなしに、来たタクシーに乗り込んだ多恵さん達と競争するようだ。

ロープウエイに乗る。勿論幽霊軍団も一緒だ。下に広がって行くきらめきの世界。

「うわー綺麗」先ずは真理ちゃんの声。「ホント綺麗」多恵さん。

「凄い,凄い」「来て良かったわねえ、美咲さん」「ええ、ほんとにこの世の憂さを忘れるわね、輝美さん」幽霊軍団大はしゃぎ。祖母は?ただじっと下界を見下ろしているだけ。

「わたしが乗り物酔いが怖くてねえ、こう言った物は嫌煙してたもんやけん、色んなもんを見損なってしもうた」しばらくして顔を上げた祖母はこう多恵さんにしゃべった。

だから稲佐山に祖父と来た時も祖母は同行しなかったのだ。

「まあ、じっさんが無くなって、みんなと旅行にぼちぼち行くようになって、酔い止めの薬さえ飲めば平気になって来たから、あれこれ見て回るようになったけど、まあ随分損したんだねえ」

「おばあちゃん、乗り物酔いが酷かったんだって」と多恵さんが伯父さんに話しかける。

「ああばあさんは電車以外は全然ダメで、オイが運転する車でも乗ったら最後、ただじっと石のように動かんようになってたなあ」

「だから余計に稲佐山に連れて来れなかったんじゃない」

「そうか、さっきからどうして祖母さんを連れてこなかったんだろうと考えていたんだけど、そういう訳だったんだ」伯父さんすっきりした顔色になる。

「これからは、肉体というものから解き放たれて何処にでも行けるから、このロープウエイにもどこにでも

乗ったり行けたり出来るから、もしかしたら今ここにおばあちゃん、乗ってるかもしれないよ。わたし達と一緒が良いと言って」

「ハハハ、そうかも知れない」伯父さんも笑った。

山頂に着く。

「こっちこっち」伯父さんがドンドン前の建物の中へ入って行く。

多恵さん、真理さん、幽霊御一行さんもぞろぞろ後に続く。

ロープウェイの中も幽霊さんを除いてもかなりの人がいたが、ここの中はもっと大勢の人がいる。

「屋上まで行ってみる」伯父さんが尋ねる。

「うん、行ってみる」と真理ちゃん。

ここも人が多いが解放感があって広い感じを受ける。

「綺麗綺麗、さっきよりももっと綺麗。まるで光の滝だね」長崎の地形上住宅地が山に伸びていてそこから下の繁華街に伸びて行く様は、真理ちゃんの言ったように、まるでさまざまの色の光が四方から落ち込む滝のように見える。

「本当にねえ、生きてるうちに見たら感動もひとしおだったろうねえ」と祖母は呟く。

「お、俺も多恵さんと生きてる時にここへ来たかったなあ」杉山君も一言。

「あんたは多恵ちゃんの事が好きだったのかい」祖母はびっくりして杉山君に聞き返す。

「はい、大好きで大好きで死ぬほど好きでした」

「それで死んじまったのかい」

「そうじゃないんですよ、彼はしがらみで他の女性と結婚してしまったんですよ」良介君が答える。

「彼はばくち好きでそれで借金が山のようになって、ビルからおっこって死んだと言う訳です」石森氏が付け足した。

「他にもうつ病もあったらしいですよ」輝美さんが補う。

「ふーん、多恵ちゃん、こんな男と結婚しなくて良かったねえ。今の旦那は真面目で何か、料理まで出来るとかいう話だもん、数倍、良いよ」杉山君、しょんぼり。

「でも杉山さんは、彼杉山というんですが、杉山さんは鬱が出てない時はとても明るくて、面倒見が良くて僕たちが死んで落ち込んでいる時、声かけてそんなんじゃいけないと、多恵さんに引き合わせてくれ、助けてくれたんです」良介君。

「まあ、最大の女神は多恵さんですが、彼がいるのといないとではまるっきり雰囲気が違います。しばらく俺達といたら分かりますよ」石森君

「色々、みんなそれぞれ事情があるみたいだねえ、あ、あんた、まだ若いねえ、まだ二十歳になっていないだろう?どうして幽霊なんかに為ったんだい」祖母が誠君に尋ねた。

「あっ、彼は幽霊ではないんです。彼は川で小さい男の子を助けようとして、心臓麻痺になって死んでしまったんです。でも天国から声がかかってもまた同じ場所で子供がおぼれるんじゃないかと心配で,そこに留まっている所を多恵さんに会って、そこにお地蔵さんを立てる話が分かり無事放免、だったんですが、何故かわたしらと行動を共にしてるんです。お陰でわたしの妹が救われました」美咲さんが説明する。

「面白そうだね、私もじいさん来たらさっさとあの世に行こうと思っていたけどさ、少し、あんたらに同行するわ。由美ちゃんや多恵ちゃん、それに博君の様子もうかがいたいな。あの子は私が死ぬ直前まで毎週,ハガキをくれて、楽しみにしてたんだ。それに東京見物もしたいからね。あんたらの話も面白そうじゃなかと、何で幽霊になったのかさ、知りたかじゃないの。どうせ爺さんはあの世のテニスコートで毎日テニス三昧してることだろうから、こっちの方が興味が湧くもんね?」祖母の顔がググっと若返った。「お、おばあちゃん、若い、若く・・・」多恵さん、思わず声が出てしまって途中でどうにか止めた。

「うんばあさんは見かけも頭も若かったよなあ。誰もがそう言ってるよ」伯父さんが多恵さんの言葉を受け止めて答える。

「さあ、長崎の夜景、堪能したかな真理ちゃん」

言い忘れたが正一伯父さんには子供がいない。今は長崎の隣の諫早に住んでいる。下の伯父さんには二人多恵さんよりずっと年上の男の子がいるが、今回の葬儀には欠席している。ちなみに二人とも今どきは珍しくもない、未婚者だ。

今日もチャンポンを頼んでみたが、例の中華店はとても無理とのことで他のお店になる。

いよいよ葬式のセレモニーが始まる。

主役の祖母は一体どうしたろう?と多恵さんきょろきょろ。居た居た、、幽霊軍団を指揮せんとばかり、一列に並んだ彼らの前のど真ん中に真っ赤なバラの花束を持って胸を張って立っている。

ただ葬式の参加者は本当に少なく昨日の母のいとこ3人と正一伯父さんの奥さんの弟と云う人と、伯父さん夫婦二組、あとは由美さん一行のみ。

お別れの挨拶をお願いしますと云う司会者の声。母が進み出る。

「お母さん、とうとう行ってしまわれるのですね」という言葉で始まり、クライマックスは母が中2の時、インフルエンザに罹った時の場面だ。何でも熱で何にも食べられなかった母に祖母は「なんか食べたかもんはなかね」と聞いたらしい。

「梨を食べたか」と母は答えた。時は春、時代は今から60年くらいも前の話。言った後由美さんは後悔したらしい。「梨なら食べられるとね」と尋ねる祖母。少し考えていた祖母は出かけて行った。

そして帰って来た祖母の手には小さいけれどちゃんとした梨が握られていたそうである。

しんと静まる式場。元々少ない人数で静かだったが、多恵さんの耳には幽霊さん達の声が聞こえていたので

彼らが静まり返ったのだった。

焼き場は何と稲佐山の中腹にあると云う。みんなを乗せた車が登っていく。伯父夫婦、由美さん一行は霊柩車に乗り込んだ。着いた。周りは高い木に囲まれて下界は殆ど見えない。かと言ってあまり周りの風景も

画家心をくすぐるものでもなかった。

飲み物やお菓子を買って、終わるのを待つ。

正一伯父さんが自分の時計を褒める。

「この時計はさあ、太陽電池で、自分でちゃんと時刻も合わせると。外国に行ってもちゃんと自分でその国の時刻に合わせるとばい」

「へー」と母の従弟たちが乗り出して、伯父の時計を見ている。伯父さん腕時計を外して見せている。

他に話すこともなく、お菓子や飲み物を口にする。

「あこれ、結構美味しか」と母の従妹。

「うん、本当に美味しか」と真理ちゃん。初めて真理ちゃんの口から出た長崎弁に皆が笑う。

そんなこんなでどうやら時間が来たようだ。

帰りは全員同じ小型バスに乗り込んだ。稲佐の山を下り、例の会館のもう一方の方へ向かう。

「さっきの由美の別れの言葉さあ、あれ聞いて思わず涙が出たよ」と正一伯父さんが呟く。

「あれさ、由美の作り話やろ?」と下の伯父さん。

「みんな本当の話よ、兄さんとは違うわ」母は抗議する。

「ふーん、あのころ春先によう梨があったなあ」

「私もそう思うわよ。味は病の所為もあってすこぶる不味かったけど、病はそれを境によくなっていったわ」

多恵さん、一緒に乗り込んでいる祖母を見る。満足そうな顔をして、大きく頷いた。

会館に着く。4階の会場に着席。

由美さん、さっきから何か考え込んでいる。

「由美ちゃんさあ、心の中で私に呼び掛けているんだよ、一緒にマガタマに帰ろう、生きてる時は一緒に暮らせなかったけど、魂一つになった今、一緒に暮らせるねって」と祖母がそばに来て知らせた。

「そうか、母は長い事、母と暮らしたかったけど、あの狭いマガタマの家では暮らせなかったんだ。冗談みたいにドラえもんの道具が叶えられるなら、一つだけ、どこでもドアが欲しい、母とドア一つ隔てて母に会える得る、どこでもドア。それ以外は何にもいらない、と言っていたっけ」と心の中で多恵さんは思い出していた。

帰りの飛行機は3人一緒だった。勿論幽霊さん達も一緒だ。

「実は10月にも来るの。母が元気なら10月にマリア老後園に行く予定で、飛行機の予約してたのよ。そしたらその日に納骨式をしようと、正一兄さんが言ってくれたの」母が語る。

「何だか父の遺骨もお寺に預けてあるらしいので、父のと一緒に。わたし、今まで父の遺骨はどうなっているのかと心配だったけど、これでやっと遺骨を抱きしめる事が出来るわ」母が窓の外を見る。青い空だ

「わたしね、長い事父をそんなに好きでなかったのよ。父は海軍の将校だったの。さあ階級は何処まで行ったかは知らない。わたしの生まれる前の話だもの。その父は教育にはとても厳し人でね、いわゆるスパルタ教育を崇拝してたのね。ところがこの私は詩や物語を書いたり、絵を描くのが好きだったのね。勿論少し年が行くと数学や理科が好きになって行ったけど、父が望むようには勉強しなかったのよ。だから父から所謂暴力を受けていたの。でもわたしは頑として父に抵抗したわ。所が父が私が勉強するのを強いることを諦めた頃から、今度はわたしが猛然と勉強し始めて、成績が学校のトップになったのよ。それで、理系が好きだったから、医学部は家庭の財政上無理と思って薬学に行きたいと言った所が父がのたまわく『女は短大で十分だ』笑っちゃうでしょ、あの昔、腕力に訴えても勉強しろと言ってたのは、一体何の為だったのだろうかって」そこまで言って母はいったん言葉を止め青空が広がる外を眺めていた。

「でもねえあなたが生まれて、私も母も驚いたのよ、そりゃ、可愛がる可愛がる。ご飯を食べる時にもあなたを抱いたままなのよ。お陰ですっかり抱き癖が付いちゃって、自分の家に帰って来てから苦労したわよ、パパも私も。本当は父は子供好きで、私を可愛がりたっかったんじゃないかと思うのよ。そう思うと、思い当たることが色々あってね、おくんちのお祭り、人が一杯で踊りが見えないでしょう?そしたら、もう中学にもなる娘を負ぶってさあ、見せようとするのよ。わたしは恥ずかしくて『もう良いよ、見えたから』ってすぐ降りたけど。PTAにも良く来てたなあ。少しはわたしが自慢だったのね、先生に由美さんは文才があるとか、知能テストで凄い点数が出たとか言われて。そうねそれも有って、張り切って娘をしごいて立派な成績を取らせなきゃと思ったのかも。この年になって初めて気付く父なりの愛。だからさ、今度骨壺待って納骨所に行くらしいから、長い間心の片隅で父を毛嫌いしてたこと詫びようと思うのよ」

母は笑った。乾いた静かな笑いだ。

「あ、ついでにわたしからも長い間、ご無沙汰して申し訳ありません。生前は本当に可愛がってもらい、ありがとうございましたって」

「じゃあ、真理からも会いたかったよって」

それまで黙って聞いてるのか聞いていないのか分からなかった真理ちゃんが、突如口をはさんだ。

幽霊さんが乗り合わせたにもかかわらず、飛行機は無事羽田に着いた。当たり前だが・・

祖母はどうも母の方へ行くようだ。母は品川から丁度来た上野東京ラインに乗り込んでイザナギ駅前行き、多恵さんは赤羽駅で乗り換える。

 「着いた着いた、わが家が一番好いよねえ、お父さんも居るし」と真理ちゃん、大人が発するような事を言って、大樹さんと多恵さんを笑わせた。

急いでいたので長崎空港でお土産は間に合わせた。

「はい琵琶ゼリー、これ好きと言ってたわよねえ」とお隣に渡す。

「まあ、葬式に行ったのにお土産?」

「伯父さんからたんまりお小遣いもらったから、遠慮しないで」

「じゃあ、伯父さんにありがとうと礼を言うべきね」

「そうだわね、でも運んできたのはわたし」

「じゃあ二人に感謝、ありがとう。わたし、本当に琵琶ゼリーだいすきなのよ」

「わたしも好き。でもこのメーカーのじゃなくて、亡くなった祖母の近くにあった三松と云う喫茶店兼洋菓子店で作っていた琵琶ゼリーが美味しくて、祖母が送ってくれるのが楽しみだったけど、もう何年も前にその店が無くなってしまったのよ、うーん残念。味が落ちる方はどんどん売れて、今もやってるのに、三松みたいに素敵な味の方は無くなってしまう、世の中間違ってるわ」

「まあまあ、無くなってしまったものはもう取り戻せないんだから、諦めましょう」

藤井夫人が多恵さんを慰める。

「ほんとね、どうして愚痴ったのかしらまあ祖母の葬式が重なったからかもしれないわ、忘れましょう」二人は笑った。

 三日たち、秋晴れのさわやかな空気を求めて六色沼公園へ出かける。

そこに現れたのが、お馴染み杉山君。

「まあ、杉山君、もう祖母から解放されたの?」

「はいと言うか、いいえと言うか、どっちつかずですねえ」

「ああら、多恵ちゃんも居たの。ここは懐かしかねえ、あんたがまだ小さかった時。この近くに住んでいたので遊びに来たことがあるよ。ここはほんとに良かよ、良か所ばい。本とよ、景色はよかし、結構、交通量が多か割に静かやし、足の便も良かもんね。良かとこに住んどるよ」

祖母が現れた。

「ありがとう。画家やってるから、無理して買ったのよ。お陰でローンの返済が大変なのよ」

「ところで真理ちゃんはまだ学校なの・」

「ええ、あの子、演劇部で台本書いたり、体鍛えたり大変なのよ」

「へー、演劇部ねえ」祖母が言いよどんだ。

「なんかあるの。もしかしておばあちゃん、劇をやりたかったとか?」

「トーンでもない、演劇やりたかったのはわたしじゃなくて由美ちゃんばい」

「前も聞いたことあるけど、母が劇をやってたのは何時頃位から?」

「今は昔の話ばい、本人も忘れているやろうね、小学校3年位から中学生の頃迄ばい」」

「ふうん、そうなの、今度機会があったら聞いてみようかな。でも今は仙人になりたいのよね」

「なーんて又夢物語みたいなことを又言っとるんやろう。あの子は小さい時から、そんな夢みたいなことばっかり言ってたんだよ。じいさんが図書館に勤めていたもんだから、学校行く前から図書館に入りびったって、夢みたいな本を読んいたから、その所為でそう言った夢物語の世界に住んでる気持ちになっているのかも知れん」

「そう言えば、お母さんは昔みんなから夢見る人って言われたって言ってたわ」

「あれは、夢見る人でなく、妄想する人だねえ、全く」

六色沼公園に風が吹いて行く。秋の風だ。そう言えば。去年見つけた萩の花が当然のことながら、今年もひっそりと咲いている。

「萩の花かい、もっと沢山咲いていたら綺麗だろうけど、これだけじゃ全然目立たないねえ、私、結構好きな方だけど、これだけじゃ物足りないな」

「長崎には沢山咲いていたの?」

「全然。咲いてるなんて聞いた事もないねえ。うちの周りにもススキばっかりさ。どこかお寺さんにでもあればニュースにでもなるんだろうけど・・わたしが居たマリア園の裏には公園があったけど萩は見当たらなかった、ただ、春は桜が沢山咲いて、そりゃあ綺麗だったけどね」

「もし、萩の花を見たかったら、鎌倉にはその名所があっちこっちあるらしいわ。ねえ杉山君、おばあちゃんを鎌倉に連れて行ってくれない」

「え、あはい」突如。お鉢が回って来て驚く杉山君。

「あ、わたし、行ったことあります、萩で有名なお寺」輝美さんが声を上げ、姿を現した。

「でも折角ですから、多恵さんも行きましょうよ、その方がおばあ様も嬉しいでしょうし、楽しいですよ」

祖母の顔を見やると大きく頷いている。

「そりゃそうだろうけれど、行くのなら私はスケッチしたいわ」

「この間の花を描かせたら日本で1,2と言う人も連れて行くんじゃないでしょうね」杉山君が牽制する。

「そうねえ、それも楽しいかも、電話入れてみるかな」

「うわー、藪蛇だ」杉山君頭を抱える。

「なあに友達が多いに越した事なか、どんどん連れて来な、あたしにも友達は一杯いたよ。皆先に逝ちゃったけどね」

「で、でも多恵さんが霊が見えるのは、世間一般には秘密なんですよ。多恵さんの友達が居たら、おおっぴらに話すことも出来ないんですよ」

「うん、そりゃ困ったねえ。よく今まで知られないできたねえ多恵ちゃん」祖母が多恵さんに聞いてきた。

「今までは例え見えたとしても無視して来たの。でもさあ杉山君は知ってる顔でしょう、無視出来なかったの。そしたらそれ以来芋ずる式にあっちから、こっちから幽霊さんが現れて、こんな状態になってしまったのよ」多恵さんは説明する。

考えてみればあの長野に向かう特急電車の中で杉山君と会話をしたのが事の始まりだったのだ。

「結構多恵ちゃんも人が良かとね、仕方がなかばい。その友達と言うのは絵を描くんだろ」

「花の絵をね。花の絵ではまあわが美術クラブでは、それこそ1,2を争う腕前なの」

「うん、じゃあその1,2を争う花の絵を描いてもらって、わたしたちはそれを堪能しようとしましょうかね。早く電話して、早く出かけよう」祖母はせっかちだ。

そこで家に帰る。祖母は多恵さんに付いて来る。他の幽霊さんは勿論門前払い。

「少し可哀想かね」と祖母は杉山君達に同情する。

「わたしは亭主も居れば子供もいるのよ、幽霊を家に入れて風邪でも引かせたら申し訳ないし、それに二人とも私のこの霊が見えたり、話したり出来る力があるなんて、思ってもいないのだから」

柏木さんに早速電話する。

「アラー良いわねえ、わたしも少し、山や草原に咲く花を描くのに飽きて来たので、何か違ったものを描きたいと思っていたの。お寺や古都に咲く萩の花か。うん、良いねえ、菊の時期には早いようだし、わたしはあまり野菊以外の菊は興味がないんだ」

と言う訳でとんとん拍子で話はまとまった。

真理ちゃんが帰って来た。

「あ、お帰り。劇の方上手くまとまった?」

「うん、わたしさあ、シンデレラの王子様やるんだ」

「おっ、中々良い役やるじゃないか」祖母大満足。

「みんながさあ、この役嫌がるのよねえ。何しろガマガエルのお面付けるでしょう。それにセリフも少ないものだから」

「なんでシンデレラの王子がガマガエルなんだい」祖母いぶかしがる。

「それでさあ、台本書いた責任上、お鉢が回って来たのよ。シンデレラは永沢先輩なの。永沢先輩は我がクラブの花なんだ‥でもさ、彼女、来年卒業でしょう、そしたら次に花になる人が必要になるじゃない?わたし、一人目星をつけてる子がいるんだ。その子残念ながら女の子じゃなく男の子なんだけど、これって花じゃ可笑しいかな?そりゃあ、アニメの主人公みたいな顔してるし、成績もわたし達の学年で飛びぬけて一番なんだ。こんな子ほっとく手はないでしょう?」

「そりゃないね」と祖母が合いの手を入れるが、真理には全く届かない。

「しかもよ、あの健太が牛耳ってるテニス部にいるのよ。彼が健太にいびられてるって考えると、うーん、我慢ならないわ」

「そりゃ真理ちゃん、ちょっとして少し初恋がかってるんじゃないかねえ」祖母がズバリ言う。

「え、何ですって、は、初恋ですって」多恵さん、祖母の言葉を聞きとがめて思わず口にしてしまった。

「いやあね、お母さん、そんなんじゃないわよ。兎も角イケメンなんだから、お母さんも彼に会ったらイチコロよ」

「そ、そうね、おかあさんはイケメンに弱いから。但し、芸能人じゃなくてね。死んだおばあちゃんは死ぬまでジャニーズ系の男の子に夢中だったらしいわ。ベッドの壁には係りの女の人が持って来て下さった男の子の写真が貼ってあったらしいわよ」多恵さん祖母の方を見る。

「別にジャニーズの子じゃなくても良いんだよ。わたしは可愛い子よりどちらかというと良い男が好きだな。でもさ、年取ると目が弱くなる、医者はテレビは目に良くないから、あまり見るな、週刊誌も目に悪いって言うだろう。だからさ目に入ってくるのは今人気のあるものだけなんだ。だからジャニーズの男の子が一番めにするのが多くて、その中からわたし好みの男の子を応援することになるんだよ」

「でもお父さんはそんなにイケメンじゃないよ。まあ悪くはないけど」

「お母さんはお父さんぐらいが一番良いのよ、あんまりイケメンだったら周りがほっていないでしょう、焼きもち焼いたり、いらぬことを想像したり、絵に集中できないじゃない」

「大丈夫よ、お父さんはどんなにイケメンでもお母さんにだけ夢中なんだから、他の女の人に目移りすることなんて絶対にないよ」

「その男の子の名前は何ていうの?」

「東村っていうの。彼はイケメンだけどとっても優しいんだ」

「それは真理ちゃんだけにかい、それとも女の子みんなにかい?」祖母が又口をはさむ。

「女の子、みんなに優しの?」仕方なく多恵さんが聞いてみた。

「うーん、分かんない。だって、彼がイケメン過ぎて、他の女子は引いてんのよ。陰ではこそこそ噂してるのにさ」

「ま、年頃の女の子ってそう云うもんじゃないの」

「それで真理ちゃんは平気で話してるんかい、そのイケメン君と」祖母。

「そうなの、女の子ってそう云うもんなの。わたしは別に平気だよ、話す相手が武志君だって敦ちゃんだって、東村君だって。そうそう、沢口君もいた。まあ健太もいるな」

「まあ、真理ちゃんには随分男の友達がいるんだねえ、その中でだれが一番好きなのかい?」祖母。

「だけどさ、東村君って何か寂しげなんだ。勉強が抜群に出来てさ、そうそう英語がね、特に発音がめちゃ旨いんだ。他の学科はちょっと勉強すれば追い越せるかもしれないけど、ヒアリングと発音は逆立ちしてもかなわない。そもそもわたしは逆立ち出来ないし・・何の話をしてたんだっけ」

「その東村君が何故か寂しいと言う訳を説明してたんだろう」と祖母。

「そうそう、そうだった、東村君はイケメンで、勉強出来て、おまけによ、体操迄そこそこなんだ。これじゃ、男子も引くわなあ。よって彼の周りには友達がいない。多分それでもって独りぼっちなんだ。ようし、この真理様が彼に友達作ってやって、それから、彼を演劇部に引っ張り込むぞう。そしたら、彼も助かるし、我等演劇部の未来も助かる。ありがとう、お母さん、忙しいのに私の話の相手をしてくれて。さあて、今日は塾の日だあ、武志君来る前に何かお腹に詰め込まなくちゃあ」

「はいはい、お母さんのお昼の残りのチャーハンを温めて来ましょうかね」

多恵さんはとってあったチャーハンのお皿を電子レンジに入れる。

「それから、これが隣の藤井さんから教えてもらったミルクティーよ、どうぞ」

「あ、これ結構いけるんだ、じゃあ戴きます」

真理ちゃんは隣の武志君と連れだって塾へと出て行った。

「あの子が武志君と言ううんだね」

「そう、小さい時からずーと一緒に育ったから、まあ兄妹みたいなものよ。でも塾の行き帰り、一緒だからとても心強くて助かるわ。わたしこれから夕食の支度するの、その間ここいら辺り見て回ったら」

祖母は少しの間躊躇してたが「そうしようかね」と出て行った。

翌日また祖母が現れた。

「あんたの旦那さん、哲学の先生してるんだろう?なーんか気難しくて嫌だなと、実は毛嫌いしてたんだけど、夕べあんた達の話来てたら、別に普通の話してて安心したよ。でも少し背が高すぎるねえ、あれじゃ、布団だって困るだろうし、服も靴も大変だ。生活するのに色々不便を感じるだろうね」

「まあ本人は慣れてるからあまり気にはしてないようよ。只初対面の人は皆驚くけど。でもおばあちゃん、夕べはあれからどうしたのかなと思っていたけど、こっそり帰って陰から覗いていたのね」

「少しの間だけだよ。やはり、いくら苦手でも大事な孫娘の旦那さんだろ、一度は顔を見ておこうと思ってね。それにあいつらも進めてくれたので、ちょっとの間覗いてみたんだよ。その後はあいつらに誘われてちょっくら夜の東京の雰囲気を味わいに行ったけどさ」

「ふーん、そうだったの。でも大樹さんを哲学やってるからって、それだけで毛嫌いするなんておかしいわよ、うん、哲学って名が如何にも固くって食べられないってイメージだからいけないのよ、思想学とか思考学って名前だったらもう少し取っ付き易いのに」

「思想とか思考とか名前を変えrたら、何とか食べられるのかい」

「食べられはしないわよ。ほらテツって鉄に通じるでしょう、それが固ーいイメージになってると言ってるのよ。だから思想とか思考とか、普通の人間にもわかりやすい名前にして置けば良かったんだろうけどさ、哲学をやる人間てさ、大樹さんは違うけど、そんな一般人が分かるような名前では面白くなかったんじゃないの」

「ハハハ、多恵ちゃんが言わんとする所は始めっから分かってたけどさ、少しからかって見ようかと思ってさ。まあ普通の良か人で安心したよ」

祖母がベランダへ出て六色沼公園を覗き込んでいる。

「でもさ、ここは景色が良くて好いよねえ。由美ちゃんの所は目の前に大きいスーパーはあるし、駅は近いし、それでもって緑も多いと来てる。あそこは生活するのに最高の場所だ」

「そうよねえ、あそこで生活してたら、他には越せなくなっちゃうわ」

「でさあ、早く鎌倉行こうよ。早くしないと由美ちゃんが又長崎に納骨しに戻るだろう、そしたら爺さんもその納骨式の為遣って来るから、わたしも行かなくちゃならない。その前に早く鎌倉を見物したいし、萩の花も散っちゃうよ」

「それはそうね、明日にでも明後日にでも出かける事にするわ、柏木さんに電話をしてみるわ」

多恵さん、柏木さんに電話をかける。

「鎌倉?すぐ出かけたい?萩が葉っぱだけになちゃう?良いわよ、今からでも」

「今からだったら少し時間が遅いと思うけど」

「ハハハ、冗談よ。出かけましょう明日。あなたの都合は良いの、わたしは身軽な独り者だからいつでもいいのよ、問題はあなた、あなたしだいよ」

「成程そうか。うん、明日出発で良いわ、今日、お出かけの準備、しっかり準備して・・出かける口実は、うーん何としよう?」

「いいわよ、わたしの所為にして。わたしが急に萩の絵を描きたい、早くしないと散ってしまうからどうしても明日出発するって」

と言う訳で多恵さんは翌日、つまり今日無事に鎌倉へと出発出来たのだった。

久々の鎌倉だ。時間的には昔は一日がかりの旅だったが今は、2つもマガタマ市からこちらへ向かう路線が出来て、グッと短縮されて大助かりだ。それにしても鎌倉はマガタマ市の変貌に比べて何とあまり変わっていない。それがとてもありがたい。と言う事はあまり高いビルが駅前の商店街通りに少ないと言う事だ。晴れ女である多恵さんと連れだって歩く柏木さんはニコニコ嬉しそう。ちらちらと開店したばかりの店先に目を走らせる。

「可愛いものが一杯、何だか買いたくなっちゃうわ」と、今にも萩のスケッチしに来た事を忘れ、お店の中へ入って行かんばかりの風情である。

「駄目よ、お土産や買い物はちゃんと絵を描いてからにしましょう」と多恵さんが引き留める。

「うーん仕方ないわね、その有名なお寺はどこらへんなの?もし近いようなら腹ごしらえをしてから向かった方が良いんじゃない?私達、あなたのお母さんじゃないんだから」

「あまり遠くじゃないけど、朝は急いでいたから余り食べて来なかったわ。あなたの説に従ってどこか喫茶店にでも入りましょうか?」

食べ物のお店も多いが、多恵さんはここは喫茶店みたいなお店に入りたいと思う。

「良いわよ、喫茶店ね。あ、あそこに外見的には感じの良い店があるわ、あそこにしない」

「いらしゃいませ」と中年の女性。この店の店主らしい。

「私はこのモーニングセットを頂くわ」と多恵さん。

「じゃあわたしもお願いします」

「はい、モーニングセット、2つですね」水が運ばれる。他にもお客さんが入って来る。ついでに幽霊さん御一行さんも入って来る。お陰で小さな店は満員だ。

「うーん、賑やかね」と多恵さん。

「え、この店が?私達ともう一組しかいないじゃない」

「いえ、これから外が賑やかになるのよ」と多恵さん、苦しい弁解。

「私ねえ、このコーンクリームスープが大好きなのよ。これが付いてるなんてラッキーだわ」

「右に同じ、フフフ」

「わたしもこれ大好きだよ、お代わりしたって好いんだよね、幽霊は?」祖母もどうやら好きなようだ。

「お代わり、ええ勿論いいわよ」多恵さん、祖母の言葉に反応してしまった。

「お代わりですって、それはできないと思うわ」と柏木さん。

「ああ御免なさい。出来たらいいなあと何時も思うのよ」

「そうよねえ、私もそう思うわよ、特にホテルで出された時にはね。でもどこでも一杯だけ、詰まんない。今度勇気を出して聞いてみようかな、もう一杯もらえますかって」

「きっと接待の人、目を白黒させて驚くでしょうね」

「でも中には承知いたしましたとさっとお代わりを持って来てくれる気の利いた人がいるかも知れない」

「そんな給仕長が居たら、その人も、そのお店も尊敬するだろうなあ、きっと」

二人して頷きあう。

「わたしはこんな気の利いたもの口にしたことなくてさ、きっと由美ちゃんも食べた事ないかも知れない」祖母が又横から割り込んで来る。

「私の母はこう言ったクリームスープ物が大好きで、よく自分でコーンだけでなく、カボチャやグリーンピースで自己流のクリームスープを作っていたわ。これが結構美味しくてさ」

「そう言えば作ろうと思えば作れるわね」柏木さん。

「そう言えば、由美ちゃんは昔から美味しいものに目がなくて、イクラなんて長崎じゃお目にもかかれない頃から、雑誌に載ってるのを見て気にしてて、こっちに来て、結婚して正月にお土産に持って来てくれたっけ。随分沢山箱で持って来てくれたから、麗ちゃん、、お前の大叔母さんだけど、あの子なら分かるだろうと半分あげたら、ものすごく喜んでいたよ」と祖母。

「で、どちらのお寺からにするの?」柏木さん。

「そうねえ、近いのは宝戒寺のようだけど、腹ごしらえも済んだ事だし、海蔵寺の方から行きましょうか。

そこでスケッチしてたらお昼過ぎるでしょうから、どこか又お店を見つけてお昼を済ませ、引き返し宝戒寺へむかいましょう」

「うんそれが一番効率的ね。それから、いざという時の為に、パンやおにぎりも買っとかなくちゃ」

「私は昨日パンは用意したわ。でも飲み物は買って行かなくちゃ」

二人は前回の中禅寺湖の時を思い出して笑った。

「食べる事は生きる事」と柏木さん。

「生きる事は絵を描く事、画家の基本の基だわ」多恵さんも負けずに言い切る。

外に出るると丁度パン工房を見つけて入る。多恵さんも好い匂いに誘われて、3個ばかり買い足した。

「こりゃあ美味しそうな匂いがするねえ、ほらあんたたちも遠慮しないで少しばかり頂こうよ」

祖母の勢いに負けそうな幽霊さん達も、その声にせかされて慌ててどこから持って来たのか知らないが、

大きな袋にパンを詰め込む。

横のスーパーに入って飲み物を確保。

「うーんこれで途中で迷子になっても大丈夫そうね。いよいよ本業の為出かけましょう」

「大体徒歩で2,30分くらいって書いてあったわ」

「そのくらいなら楽勝、楽勝」

「金はなくても体力だけはある」

「その通り。え、待って、それは私に言えてもあなたには当てはまらないわ、河原崎さん」

「いえいえ、わが家もローン抱えた貧乏所帯なのよ。よってわたしも体力あって、金なし画家でーす」

「でも今日も良く晴れていて暑いわねえ。日影がなくて辛いわ」

「でもこの日差しの中を人力車を引っ張って走り回っている人がいるのよ。あれには頭下がるわ」

「ほんとうね、あれにはまけちゃうわ」二人の会話は続く。

「あなたさ、霊が見えるってこの間言ってたけどさあ、これから行くのはお寺じゃない、お寺ってその霊が一杯じゃないの、それってどうなの?」

「ああ、霊ねえ。でも霊ってお寺に集まっているんじゃないのよ、霊は自由なの,勿論人がお参りに来ればそこに一時的に戻るでしょうけど、大体がそこにはいないのよ、この世に未練がなければ、いわゆるあの世の世界で安息の時間を過ごしているでしょうし、愛する人が居たり、この世に未練のある人は、この世に留まってその思いが何とかなるまで過ごして行くのよ」

「悪い人は?」

「そうねえ、それほど悪い人でなければ、後悔の思いにはさいなまれるでしょうけど、それ以外はやはり普通の人と同じ。でも、すっごく悪い事をやった人は、どうなんでしょうねえ」

「そこまでは知らないのか」

「何、何か凄く悪い事しでかした人でもいるの、知り合いに」

「いいや、別に。でもさあ、これからとてつもない事に巻き込まれて、何かとんでもない罪を犯すかも知れないじゃないの、その時はどうなるかなあと思って」

「止むに止まれぬ場合はそりゃ仕方のない事よ、自分勝手な思い込みは、その思い込みを抜け出られるまで、その思い込みの中で苦しみ、戦わなければならないでしょうけど」

「うん、何となくあんたの言わんとする所が分かった気がする。あんたが霊が見えるかどうかは分からないけど、彷徨える霊たちが集まって来るのはよーく分かるわ、わたしだって、死んで道に迷ったら、あなたの所に助けを求めに尋ねたくなるわ」

幽霊軍団が一斉に頷く。

「ここが英勝寺ね、竹寺としても有名だけど今日はパスしましょうか」

「このお寺が多い鎌倉で残った、唯一の尼寺だなんて寂しいわね」

「昔はそうだったかも知れないけど、今はそうでもないんじゃない。娘さんがお寺の後を引き継いでいるって、あちこちで耳にするわ」

「そうか、そうよねえ、こういった宗教の世界こそ平等であって欲しいわね。仏教が先ずは平等の扉を開いたのは何よりだわ、勿論まだまだ色んな制約があるでしょうけど」

「あ、あれが十六夜日記を書いた阿仏尼のお墓と言われている所よ」

「お参りだけでもして行きましょうか、と言っても、お線香もお花も何も持っていないけど」

「うん、そうね、どこかお花屋さんでもあれば備えたいわねえ」

「あるあるほら向こうに、見えてるわ」

二人は花屋に駆け込んで菊を買い求めた。

「何故、お墓やご仏前に菊を備えるのか知ってる?」

「勿論よ、丈夫で長持ち、中々しおれないからよ」

「それからもう一つ、菊って良い匂いがするでしょう、あれが死んだ人をあの世に導く道しるべになるんですって。人間死んでも暫くは聴覚や嗅覚は残るらしいわよ、だから菊やユリを手向けるんだって.偶に生き返る人がいるじゃない?その人たちが、言ってたのを聞いたことがあるわ、死んでいたのに素晴らしい匂いがして、これに導かれてあの世に自分は行くんだなと感じたって」

「ふうん、そうなの。菊の花がねえ。わたしさ、菊の花、も少し好きになったかも知れない」

そこから本のちょっと行った所に浄光明寺がある。少し奥まっているがここも萩と芙蓉がきれいだと物の本には書かれている。しかもこの寺は足利尊氏と深い関係があったと言う話だ。

「わたし、芙蓉を描きたいわ」

「ここの芙蓉は酔芙蓉だから、今はまだ白いわよ」

「うん、でもさ萎れたものは赤いわよ」

「そのコントラストは良いかも知れないわねえ」

「では、行きましょう、行きましょう」

受付の人が「花は客殿の前庭に咲いてますよ。でも大分盛りは過ぎてしまいましたが」と教えて下さった。

「ハハ、描く方もトウに盛りが過ぎていますから」と柏木さんが笑わせる。

二人は先ずお参りを済ませ、客殿の花の方へ。

なるほど萩の方はまずまずだが、芙蓉は殻からはみ出た綿毛の方が目立っていた。

「これは面白いわ。ようし、この綿毛と花が萎んだ赤、それに今日咲いた真っ白い花、これ頂きまーす」

柏木さん、おおはしゃぎ。多恵さん、負けた、彼女はやはり花の、いや植物の名画家だ。

「じゃあわたしは客殿を入れて描いてみるわ。あまりこう言ったお寺は、今まで書いた事ないんだけれど、勉強と思って挑戦してみるわ」

多恵さんも観念して画になりそうなところを探し少し日陰になっている巨木の所から描く事に決めた。

でもこうやって一人になっても、幽霊さん達はそばに寄って来ない。

どうしたんだろうと少し、心配。まあ相手は幽霊軍団だもの、迷子になるなんて考えられない。彼らの事は彼らに撒かせ、わたしは絵の方に専念しようと,雑念を振り払い多恵さんは絵に向き合った。

ここはそれだけに留め、次に向かおう。

浄光明寺を後にして、そこから先、道が二つに分かれている。左に行く方が海蔵寺に行く道だ。

「帰りは遠回りになるけど、この右の方の道を通って行くのがお勧めらしいわよ」

「うんうん、亀ケ谷坂切通しと言う道が風情があるらしいわね」

「わたしら、どう見ても見かけはがさつだけどさ、中身は風情に溢れているのよね、フフフ」

「そりゃもう溢れているわよ、ハハハ」

二人は静まり返った道で大きな声で思いっきり笑い転げた。

「お、まだお寺にも着いていないのに、この通りの家には、どこもかしこも石垣の上から萩の花が枝垂れ落ちてる」

「ええ、さすがにみんな、自分たちが何処に住んでいるのか心得ていらしゃる。きっと、このお寺と共に長い年月を過ごして来たのよね」

そうこう言ってる間に、目的地海蔵寺の山門に到達した。

「うーん、残念ながらピークは過ぎたみたいだけど、でもでも、この石段に散った花と言い、垂れ下がる枝に咲く花と言い、まだまだ、それこそ風情たっぷり」

「シーズンを過ぎたからこそ、見物人も少なくてゆっくり描けると言うことも出来る」

「そうね、さあ描くとするか。うん、でも少し喉が渇いたな、それに歩いたからお腹のも隙間が空いたからパンを一つ頂いてからにしよう」

「あら、私もそうしようと思った所なの。フフフこう言った点は二人とも気が合うわねえ」

二人は背負ったバックから、スケッチの道具と飲み物と先ほど購入したパンの一つを選んで取り出した。お腹の隙間が満たされたら、それぞれの好みに合った場所選びだ。柏木さんは下から3,4段上がった所の石段と左手から垂れ下がる萩の花に焦点を当てて描くと決め、山門の下の石段に腰掛けて描き始めた。

多恵さんは山門も居れて描きたかったので、石段より離れた所の意思に腰掛けて描く事にする。

早速、杉山君が近くにやってくる。

「二人とも気が合いますね、話が途切れませんでしたよ」

「まあね、わたしもこの頃花に興味が湧いて来たし、彼女は彼女で霊に興味を持って来たし。うん、話、弾まない訳がない」

「でも、河原崎さんが霊の姿が見える事は信じちゃいないんでしょう」

「ええ、、そうらしいわね、。まあそれはそれで良いじゃないの。でもさ、あなた達、ここ一通り見物したら、祖母を大仏さんや鶴岡八幡宮等を見物に連れて行ってよ。江の島なんかも好いと思うわ」

「やっと、この話から取り残されたばあ様の事に気が付いたんだねえ」

ずーっと生きてる人間の話に割り込んで来なかった祖母がそばに寄って来て口を出した。

「気にはなっていたわよ、でも、彼女はわたしが祖母の霊を連れているなんて知らないし、教えても信じないか、嫌がるだろうから」

「分かってるよ。その代わり、この子たちが相手をしてくれて楽しかったよ。途中の英勝寺にも寄って来たよ、桔梗なんかが咲いて綺麗だったよ。それに竹林も素晴らしくてとても気に入ったね。あの世に行ったら仲良しの真田さんにも話してあげなくちゃあ。あの人は生きてる時にはなんも楽しい所に顔出さず、人の為にばかり働いていたからね、これからわたしが色々楽しい事を教えてあげなくちゃいけないんだ」

祖母は遠い目をして、祖母よりも早く亡くなった人の良い友人を思い出して居る様だった。

「ええ、おばあちゃん、これからおじいちゃんだけでなく、色んな人に会えるわよ。結核で亡くなったおばさんや、原爆で亡くなったおばさんにも」

「ああ、そうだねえ、、爺さんに会ったら一先ずあの世に行って、悦子や文子に合わなくちゃいけないね、あんたたちが 死んでどんなに切ない思いをしたことかを話さなくちゃあ、でもこの日本が今は平和で楽しいことに満ちてることも話さなくちゃ、これが先だよね。うんうん、こっちが先に決まってるさ」

「さあ依子さん、ここを早く見物してから、鎌倉見物に参りましょう」

依子さんは祖母の名前だ。何時の間にやら、幽霊さん達に自分の事を依子さんと呼ばせていたのだった。

「じゃあそうしようかね、でも又会えるんだろう?」

「大丈夫よ、わたしも杉山君達も互いに通じているから、会いたいときに会えるわ」

「先ずはここを見たら、お二人の話に出てた何とか切通しや鶴岡八幡宮を見物して、大仏見物と行きましょうか」

「そうしましょう、そうしましょう」

みんなは多恵さんの傍から飛び立っていった。

やれやれとスケッチブックに向かう。時折吹く風が気持ちが良い。萩の花に埋まりそうな山門が何とも言えず、多恵さんの画家魂をゆすぶる。

「今日はまだまだお寺を描かなくちゃいけないわ。何時からお寺専門になったんだって冷やかされるかな。いや、とてもとても専門には程遠い腕前だから、誰もそう言ってくれないか」多恵さん一人笑った。

「どう描けた?」柏木さんがやって来た。

「まあ大体3枚程度かな、あなたは?」

「うん、わたしは全体図が3枚、部分的なのが、ほらこれだけ描いたわ」

「わあ凄い!沢山描いたのねえ。さっきも負けたと思ったけど、今度もはっきり負けたわ」

「バカねえ、絵は描いた枚数じゃないのよ、その描かれたものが、自分を、それを見た人を感動させるか、心を打たれるかそれによって決まるのよ。あなたの描いたものを見せてよ」

柏木さんは多恵さんのスケッチを見ている。

「あなたの描いたものを見る度に何時も思うのよ、どうしてこんなに心を打つのだろうって。良く描けたとかそう云うもんじゃないんだ、色使いとか、技巧が優れているとかじゃない、何か絵の中に心を引きずり込む、そう言った物があなたの絵の中にはあるのよ。その何かとはもしかしたら、あなたが霊が見えると言った事とかかわりがあるのかも知れないと、この間の日光の旅以来考えていたのよ。ええ、この絵の中にもわたしに語り掛けてくるものがあるわ、特にこの山門の所がね」

柏木さんはそう云いながら3枚の絵を見比べている。

「ねえ、今日は誰とも会ってはいないの?」

「だれと会うの?」

「何とぼけてんのよ、この間みたいに遭難した子供とか、心中した中学生とかさ」

「今日はそう言った人達とは会っていないわ」

「でも、何となく受け答えが怪しかったわ、あれは何なの?」

「そう、でも今は私の周りにはだあれも居ないのよ、本当に」

「まあ良いわ。じゃあ中に入りましょうか、折角来たんだからお参りして行かなくちゃあね」

二人は絵の道具をバックに仕舞い肩に担いで山門をくぐる。ここのお寺はその名が示す通り、水溢れるお寺だとか。しかしその前に、ここはモンキチョウの舞うお寺と言うべきだ。

「ここいら辺りは蝶が多いわねえ、特にモンキチョウの多いことと言ったら」と多恵さん。

「フフ、気付いた。モンキチョウはマメ科の植物に卵を産むのよ、萩はマメ科でしょう?だからなの」柏木さんが説明する。

「成程ねえ、でも他の蝶も多いようね」

「これだけ花が沢山咲いていれば蝶も集まって来るわよ、桔梗もあるし、コスモスも咲いてるもの」

お参りを済ませ、ここに点在する井戸を見学。特にずらり並んだ十六井戸には目を見張るばかりだった。でもそれがどういう訳でほられたかは不明だと言う。

「さあここを出て、その何とか切通しを通って宝戒寺の方へ向かいましょうか」

「そうしましょう、そうしましょう。お腹も空いて来ましたからね」

二人は笑いながら海蔵寺を後にした。

さっきの分かれ道に来た。反対の道を歩く。成程道の両脇から萩の花が滝のように流れ落ちている。

「ヤッホー、ここも絵になるわねえ。只惜しむらくは中心になるものがなくてまとまりが悪いはねえ」と柏木さんが嘆く。

「じゃーここは写真に収めてと言う事で諦めましょうか」と多恵さんが提案。

「そう言う事にしましょうかねえ」柏木さん少し残念そう。

だが結局、柏木さんも諦めてカメラに4,5枚ほど収める事にした。

道なりに歩いて行くとラーメン屋さんがあった。

「鎌倉でラーメン屋さんなんて風情がないとお思いでしょうが、すきっ腹には風情も何も関係ないので、ここは一つ、ラーメンと行きましょうか?」

「異議なしと認めます。さ、早く入りましょう」二人は暖簾をくぐる。

「実を言うとわたし、ラーメン好きなんだ」柏木さん。

「右に同じ。ラーメン大好き」

「ええっとわたし、ワカメもやしラーメンにする」

「あ、それ良いわね、美容にも健康にも良さそう。済みません、ワカメもやしラーメン二つ下さい」

ラーメンはワカメもやしラーメンだったが、味そのものはこってりとしていて、すきっ腹の二人は大満足だった。

ラーメン屋を出て、鶴岡八幡宮を只管歩く。途中美術館の存在は認識してたが、コロナ下と言う事もあり、

心苦しくもパスして行く。八幡宮はいつ来ても賑やかだが、今日は頭だけ下げて通り抜け、その横手にあたる雪の下と云う池と弁財天が祭られている社がある池の間を抜けると、もう一つの目的地、宝戒寺に着く

ここはかって北条市の館があった所とか、今は静かで厳かな雰囲気のお寺になっている。

しかしここの萩の圧倒的量の多さよ。多恵さん達は一瞬たじろいた程だった。

「す、凄いわねえ、何もかも埋まってしまいそうだわ」

「緑と白の滝の中を山門迄流されて行くみたい」

「でもこれは序奏曲に過ぎないのよ」

「そうよねえ、でも素晴らしい。ここでも1枚描きましょうよ」

二人はバックを下ろし、スケッチブックに思い思いの構図で静かなる参道と、それを覆いつくさんばかりの白萩の共演を刻した。

「この参道も味わい深くて好いわね、白萩にぴったりだとは思わない」

「思うわよ。でもさ、感じる事も描いてる対象も同じだけど、捕える視点は全く違ってるのねえ」

「わたしは花を取り巻く全体像を捉え、あなたは参道と花に焦点を当てる」

「なあに、わたしの視野が狭いと言いたいの?」

「違う違う、どんな時でもあなたは花が中心で、その花がどう周りのものに語り掛けてるかを描き。わたしはあくまでもその主体とするものは全体の中の一部であると云う描き方をしてるって言いたいのよ」

「まあそう云う事よねえ。それが良いか悪いかはどうでも良いのよ、ただその捉え方が好きか嫌いかの問題よ」

「それも問題ではないんじゃなくて、時と場合によって全体的に捉えなくちゃならないし、部分的な方が需要になる事もある」

「それともう一つ、全体的なものを描くのが得意な画家と焦点を絞って描くのが得意な画家もいる。うん、わたしは焦点を広げて描くのが苦手なのよ、ハハ」柏木さんが少し自嘲気味に笑った。

二人は描き終わるとスケッチブックは手にしたままバックは背負って寺の中へと入って行った。

本殿を覆い尽さんばかりの萩の花。その萩を描く前に先ずはお参り。ここは恋の成就の御利益があると言う事だが、柏木さんはそれを知ってか知らずてか、多恵さんには分からなかった。

ここは萩も多いが北条市の菩提寺と言う事もあって、それに関係のある寺社仏閣や石碑も多い。本殿を少し離れても鳥居が見えたり、祠にぶつかる。

「ここも酔芙蓉があるわ。それにこのピンクの花、昔は良く普通の家の庭で見かけた花よ」

「ああ、それは花虎の尾って名前なの。良しこれと白萩を描こうかな。フムフム、ここには普通の赤い萩も混じっているわ、ナイススポット、わたしここで少し描くわね」

柏木さんが先ずは描く場所を決めた。

「じゃわたしはも少し行った所から、芙蓉も入れて萩に埋もれている本殿の姿を描くわ」

多恵さんは柏木さんと離れて少し奥まった所から描く事にした。

余りの萩のすばらしさに、バックの中から携帯の折り畳み式イーゼルを取り出し、水も用意して、ここは水彩で描く事にする。勿論、初めは鉛筆で描く。

あ、何か変。周りを見渡す。

「あら、あなたは・・そう、おじいちゃんだ」

目の前に現れたのは懐かしい祖父である。祖父はいかにも嬉しそうに笑っている。

「おばあちゃんを迎えに来たの?」

「うん、まあそれもあるが、ばっさんだけがお前と会って、楽しんでいるのに、俺が可愛がっていた多恵ちゃんに会えないなんて不公平だろう?だからさ、少しだけでも多恵ちゃんと話したいなあと思ってさ、

優しい笑顔だ、その笑顔からは母が語っていたスパルタ国の鬼軍曹の姿はとても想像できない。

「多恵ちゃんも絵を描くんだ」

「ええ、わたし、画家になったのよ」

「そうか、由美も絵は上手かったが多恵ちゃんは輪をかけて旨いねえ、この石灯篭なんて配置も良いし、形も良いし、大きさも全体的に釣り合いが取れてるよ」

「おじいちゃん、おじいちゃんも絵を描いてたの?」

「ハハハ、描いてたとこまでは行かないさ、。ただ好きだっただけさ。絵を描けるほどの豪農ではなかったから、そんな事考えにも浮かばなかったなあ。ただ、海軍の学校に行く前にトラの絵を描いて村の公民館に残して言ったのが、長い間保存されていたとは聞かされていたけどさ、今はどうなったかは知らない」

「へー、初めて聞いたわ。鹿児島には全然行った事ないから、おじいちゃんの話は耳に入って来ないわ。下の伯父さんはいるけど、上の伯父さんみたいに話したことないので、行く機会がないのよ」

「まあ、仕方がないよ、余り名所旧跡もない所だからなあ。車で行けば吹割の滝みたいな大きな滝と言うか川と言うか,そんな所もあるが、興味があるならぜひ一度足を運んでくれ」

「おじいちゃんはそこには行ったことあるの?」

「いや、話だけさ。そうだばあさんは行ったことあるんじゃないかな、幸男が鹿児島に家を建てた時、正一や由美と一緒に尋ねた時、幸男の車で出かけたみたいだ」

そう、おばあちゃんに聞いてみよう」多恵さんせっせと色を塗っていく。

「早いんだねえ、大した腕前だ」

「こんなの普通よ、画家なんですもの」

「ハハ画家か。でもこうして絵を描く多恵ちゃんの傍にいると、昔、由美と一緒に、長崎の諏訪神社の動物園で絵を描いていたのを思い出すなあ、いや描いていたのは由美だけで自分は指導と言うか教えていたと言うか、そばに立っていただけなんだけどね」

「母に絵を教えていたの?」

「まあ、結果的にはどうもそれが悪かったみたいだなあ。あいつは自分が教える通り描いたんだ。見物人は描くな、この鳥小屋だけを描けば良いんだとね。あいつは見物人も描きたかったに違いない、賑やかで楽しい動物園をね.それにクレパスなんかじゃなく、絵の具を使ってね。当時、公務員の給料は安くてさ,まだ小さかった、3,4年の頃だったから、買ってはやれなかったんだ。その絵はコンクールに出す絵だったんだけどさ、見物人が一人もいない寂しい動物園なんてね、見事に落選したよ、ハハハ」

少し日が陰って来た境内に祖父の力ない笑い声が多恵さんの耳に悲しく響いて聞こえた。

「今ね、おばあちゃんたち大仏や江の島観光に、私の知り合いの幽霊さん達と一緒に出掛けてるの。おじいちゃんも行きたい?」

「そりゃ楽しそうだね、でもどうやれば追いつけるんだ」

「大丈夫よ、直ぐ案内人を呼び出すから、待ってて」

多恵さん、杉山君にテレパシーなるものを発した。

杉山君が現れる。

「はい、女王様、ご用は何でございましょう,私目等は、今大仏の観光を終わって、江の島観光に行く途中でして、急いで戻らないと、もう一人の大女王様にお叱りを受けるのでございます」

「それは悪い事したわね、でもさ、ここに向こうの女王様の連れ合いがいらしゃるの。彼も是非御一行に加えて欲しいとおしゃっているので、連れて行って欲しいのよ」

「あ、今回の旅は幽霊ゼロの旅ですね。この方が多恵さんのお爺さまですか、わたくし杉山と申します。河原崎さんとは学生時代からの知り合いで,色々ありまして今は幽霊をやっております。どうぞ宜しくお願いいたします」

「ふーん、多恵ちゃんの知り合いが幽霊やってるのか。何で俺の多恵ちゃんに幽霊にまでなって付きまとうんだ?」

「は、色んな事情があって・・すみません」杉山君しどろもどろ。

「彼はね、借金こさえて自殺したのよ。それで心の安らぎを求めて、幽霊仲間を引き連れて私の所にやって来たのよ」多恵さんが助け舟を出す。

「ふーん、それで心の安らぎは得られたのか?」

「そりゃあもう、ありがたいと思っています」

「彼はねえ今は私の住む近くの公園の近くの、彷徨える幽霊さん達が立ち直れるように指導もしてるのよ」

「そうか、中々関心な幽霊だ。もうすぐ幽霊は卒業だな」

「あ、ありがとうございます」

「ねえ、それよりおじいちゃん、早くおばあちゃんのところに行かなくちゃ,みんなしびれ切らしてるよ」

「そうだった。でも自分も大仏を少し見てから行こうかな」

「それでは私がみんなにそう言ったことをテレパシーで送りますから、わたくしと一緒に大仏見学いたしましょう」

「うん、中々お前は気の利く幽霊だ。それに何となく明るくて頼もしい奴だ。そんなお主が自殺するほど借金こさえるなんてなあ」

「彼は一種の病気だったの、躁うつ病とか云う。でもそんな詮索より、早く見物に出かけたら?」

「そうだな、訳は見物しながらでも聞けるしな。じゃあ、行くか、ええっと、お前の名前はなんと言うんだったんけ」

「す、杉山です」

「そうか、杉山君か.では宜しく頼むよ、杉山君」

やっと二人は飛び立っていった。

「杉山君大丈夫かしら?」と緊張しまくっていた杉山君が、多恵さんちょっぴり可哀想に感じた。

「何が大丈夫なの」後ろから声がかかった。柏木さんだ。

「え、あら、柏木さん、もう絵、十分描きまくったの?」

「メインはとっくに。部分的なのも大体描いたわ。あなたは?水彩にしたのね。良いわあ、素晴らしいわ。何やらぶつくさ独り言言ってたから、大丈夫かなと心配してたけど、ちゃんと絵は描けていたんだ」

「昔さあ、私のおじいちゃんが母に絵の指導をしてたんだって。何だか知らないけど絵のコンクールで。母は本当は周りの見物人もいれて描きたかったらしいけど、そんなもん描かなくて良いと言ってね。それでかどうかは知らないけど、、、もしかしたら審査してる場所にいたのかも知れないなあ、祖父は主催者である図書館の人間だから。それでねえ、どうも子供らしくない絵だと落選したと言う事を、ふと思い出してね、写生は自分が見たまま、感じたままを描かなくちゃとね、特に子供は猶更よね」

「今度は子供じゃなくてお爺さんなの、現れたのは?」

「いやねえ、幽霊じゃないのよ彼は。正直話すけど、先日祖母が亡くなったの。そこでだ、祖母の霊が今私の周りで闊歩してるのよ。それをうらやましく思った祖父がここに現れたのよ」

「ええ、そうなの、それならそうと早く言ってよ。ええっと、こんにちわ、、初めまして柏木と申します。多恵さんとは同じ画家をやっておりまして、大変お世話になっております。残念ながら、わたしには多恵さんみたいに霊を見る事が出来ません。失礼なことがあったらお詫び申し上げます」

多恵さん吃驚。

「柏木さん、もう彼はここにいないの。祖母が鎌倉見物に出かけたと言ったら自分も行きたいとか言って、私の知り合いの幽霊さんを呼び出して、さっき彼と一諸に飛んで行ったわ」

「なあんだ、それこそ早く言ってよ。でも今度現れたら教えてね。失礼がないようにするから』

「なあに、日光では教えても全然信じなかったくせに」

「だからさ、あれから色々考えてみて、思い当たる事が多くて、あなたの言う事を信じてみようと思ったのよ。あなたの言う事を聞かなかったばっかりに、日光では酷い目にあったから、今度は失礼しないようにと思ったの」

「ハハハ、彼女らは若くていたずら好きだったから、幽霊のたった一つの武器、冷やす力を持ってあなたにいたずらしまくったのよ。でも祖父も祖母も幽霊じゃなくて普通の霊だから、あんな事には為らないわ」

「そうか、あんな目には合わないで済むのか、安心したわ。で、さっき呟いていた杉山君と言うのは?」

「うーん聞かれてしまったのか。彼がそもそも私が幽霊さん達と付き合うようになったのは、彼が原因なのよ。彼は大学時代からの友達で、河原崎さんが僕の事を振り向いてくれるまで結婚しないと言ってたのが、あっという間に結婚してさ」

「まあ、呆れた」

「まあそれには深い事情があって仕方がなかったんだけど、彼は若い時から賭け事が大好きで、気が付けば借金の山。その上に躁うつ病が重なって自殺したの。わたしね、それまで自分が霊が見える事、分かっていたけど彼らを完全無視してたの。でもさ、長野にスケッチ旅行行く列車の中で、彼が幽霊仲間を引き連れて現れたのよ、知り合いだから無視出来ないじゃない?」

「まあそれはそうだわね」

「その時から幽霊さん達の悩みを聞いてあげるようになったのよ。今じゃ大所帯なの、幽霊さん達で」

増々日が傾いて来た。それはそれで一層の趣が有ったが、二人とも最後の追い込みに精を出すと、ここで今日のスケッチにピリオドを打つことに決めた。

「さて、お土産を買ってどこかで夕食を取らない?それともあなた、家族の為に夕食を作らなきゃならないの」と柏木さんが聞いた。

「まさか。これから帰って夕食を作るなんて私の頭の中には全く存在しないわ、どこかで夕食取りましょうよ」

「と言っても、私のお財布はそんな豪華なものは賄いきらないわ。美味しくて安いものが良いわ」

「右に同じ、回転寿司なんてあったら入ろう」

「そうね、折角鎌倉まで来たんだもの、せめて回転寿司位は食べたいわよねえ」

「先ずはその前にお土産買わなくちゃいけないけど、そんな旅行でもないんだから子供たちにお菓子なんかを買えばいいかな?」

「あなた子供は女の子一人じゃなかったの?」柏木さん、聞きとがめる。

「ええ一人よ、でもさあ、隣の男の子、一つ違いなんだけど生まれた時からずーと兄妹みたいに育っているから、つい一緒くたに考えちゃうのよ、フフフ」

「将来の花婿候補って訳ね」

「今の所、それはないと思うわ、娘に関してわ」

「まだ小学生?」

「中1に今年なったのよ。お隣は中2。なんだけど、他にもボーイフレンドはいるのよ」

「河原崎さんに似て美人なんでしょう。モテモテなんだ」

「気性がさっぱりしてるから、それが男の子にモテる理由じゃないのかな。今は何だかまた気になる男の子が現れたみたい、すっごいハンサムで勉強もダントツなんですって」

「へー、その子に唾つけようとしてるんだ」

「いいや、彼を自分のクラブ、演劇部に入れたいと思っているみたい」

「演劇部なの、お嬢さん。好きなんだ、劇やるのが」

「最初はね、嫌がっていたのよ、色々体力付けるため運動させられるのが嫌で。そこでその顧問をしてる先生と私で共謀して入れさせたんだけど、今じゃまるで自分のクラブみたいに感じてるらしいわ」

「人は変わるのよねえ、まして子供はころころ変わるわ、ハハハ」

「あ、これ美味しそう、これにしようかな」

「どれどれ、ふうむ成程、美味しそうだ。わたしも買って行こうかな、勿論わたし用にこの中箱もらおう」

「わたしも中箱二つもらおうと。それからここも結構湯葉が有名らしいわ、刺身湯葉とか書いてあるわ。これをお隣用と我が家用に買って行くわ」

「あ、ずるい、わたしも買って行くわ。この間買って行って重宝したから」

お土産はこれだけにして後は回転寿司店探しをすることに。

「こっち、こっち。回転寿司はこっちですよ」杉山君の声。

「え、どこ?」

「ほら少し外れの角の所にありますよ」

成程、それらしい店が目に入った。

「柏木さん、ほらあそこに在るみたいよ」

「ほんと、良く分かったわねえ、と言うか、幽霊さんが探してくれたの?」

「まあね、役に立つこともあるのよ。いやいや、この頃は大いに役に立つことが多いわ。ちょっとした術も使えるようになったらしいし」

二人はその角の店に入った。時間が時間だけに店内は混雑してたが、何とか二人分の席を確保した。

「あのう、俺達、お二人を案内して、ちょっと豪華な、と言うか老舗の寿司屋に参りますが、宜しいでしょうか?」杉山君が聞く。

「どうぞ、二人に美味しいお寿司を食べさせてあげてね。それから祖父は本来甘いものが大好きで、糖尿になった位だから、デザートには甘いものを沢山食べさせてあげてちょうだい」

「はい承知いたしました。、デザート、沢山用意します」

「じゃあ、二人を宜しく」

勿論多恵さんはひそひそ声で話す。

「何をそんなに小声で言ってるのよ、もう私には隠す必要はないんだから、普通に話せば?」柏木さんが聞きとがめる。

「あなたには隠す必要はなくても、この周りの人達は知らないんだから」

「あ、そうか。失礼いたしました。で、彼らはどうするんだって、これから」

「彼等はこれから老舗の寿司屋に行くんだって」

「あ、良いわねえ、老舗のお寿司屋さん。高いわよお」

「大丈夫よ、彼らは幾ら食べてもロハ何ですから」

「ええっ?あ、そうか、ただなんだ、姿見えないんだった」

「でも、そのお店にあるものや作ったものしか食べられないんだ」

「でも好い、好いなあ。幽霊何て悲惨なものだと思っていたけど、聞いてみるとえらく楽しそうじゃない。美味しそうなものさ、ただで食べられて、しかも自分で作る必要がないと来てる」

「ただ、そう言った物に囚われ過ぎてると、何時までたってもあの世、つまり、安らぎの世界には行けないの。美味しいものだけじゃない、女性なら着物とかドレス、男性ならスポーツカーやヨットとか」

「ふうーん、邪念は捨てないといけないのね。お酒の好きな人や、甘いものが好きな人は、せめて死んだからにはお酒や甘いものを思いっきり飲んだり食べたいと思うわよねえ、しかもただと来てるんだから」

「でもお酒を飲んでも酔わないし、甘いもの食べても全然お腹は満たされないのよ。その匂いと感触、味は分かるらしいけど」

「そうか、幽霊になって酔っぱらていたら、面白いでしょうね」

「ただ、アル中の幽霊はいるのよ。その人たちはお酒のある所から離れられないの。誰かが声かけてそこから引き離してくれるまで、毎日毎日酒浸りの時を過ごすのよ」

「それは少し哀れで可哀想だわねえ」

「わたしの知り合いの幽霊さん達の中にも、奥さんの事で悩んでアル中になった人がいたんだけど、今はみんなのお陰で立ち直っているわ」

「ああ、わたし、少し自制する精神を養わなければいけないわねえ。独り者は引き止めてくれる者がいないから、自分の好きなものをまあいいや、食べてしまえって事が多くていけないわよねえ」

二人はお昼にラーメンを食べたきりだったので、目の前にやって来るお寿司を次々食べる。

「お腹が空いてる時は、どんなネタでも美味しいわねえ。これが誰かのおごりだったら、勿論好いネタだけを選んで食べるでしょうけど、例えお腹が空いていたとしても」と柏木さん。

「そりゃそうでしょう。そうねえ、もしも私が有名画家になって絵がバンバン売れるようになったら、驕ってあげるわよ、あなたの好きなもの」

「そしたらさあ、こんな所じゃなくてさ、幽霊さん達が行くような老舗の寿司屋に行って食べさせてもらうわよ」

「それで思い出したけど、あの私達のレセプションの後パーテーの時、他の物はまあまあだけど、あの寿司だけはとてもお粗末じゃない。まあ挨拶とか新人会員紹介とか、色んなことで食べる前に、1,2時間はかかっている所為もあるけど」

「うんあれはまずい。も少し何とかならないものかしら。ぼちぼち売れてる人もいるんだからさ」

お酒も飲まないのに、寿司談義は続いたが、そろそろ帰らなくてはならない時刻だ。

「そろそろ帰らないと遅くなっちゃうわ」と二人は立ち上がった。

 祖父母の事は少々気がかりだったが、杉山君達が付いていれば、どうせ死んだ身、もう死ぬことはないのだからとその日は過ぎて、朝がやって来た。

大樹さんも真理ちゃんも出かけて行った。

掃除機をかけてると、その二人が現れた。

「昨日は楽しかった?」掃除機のスイッチを切ると二人に尋ねた。

「お、俺は寿司が上手かった。それに酒も久々に旨いし、あの杉山と言う男が持って来てくれたケーキも旨かったよ」

「あたしはあそこの店はすかん、あたしの好きな巻き寿司が置いてなかとよ。あたしは巻き寿司が誰が何と言っても一番よかと」

「でも、お前も食べてたんじゃなかと?」

「そりゃ、折角若い人が連れて行ってくれたから、美味しか美味しかと食べんば悪かろが?でもさ、ビールとオレンジジュースがあって良かったと、ビールにジュースを入れて飲むのが一番たい」

「鎌倉と江の島はどうだったの?」多恵さんは尋ねた。

「今はコロナとか騒いでいるけん、そんなに人は出ていなくてゆっくり見物出来たとよ。何しろ自由に飛び回れるけん、大仏さんの顔も近くでじっくり見物出来て本に良かったよ。江の島から富士山も眺めたし、特に夕日が富士山に沈むのを見られてほんとにきれかった、それが一番たい」

うっとり顔の祖母。

「お、俺は多恵ちゃんや由美にあの景色見せてやりたいと思ったよ。あれは絵が好きなもんだったら描きたくなる景色だからなあ」

「あたしは絵は描けんから分からんけど、俳句なら読めるかも知れんばい、ちょっとばかり清叔父さんに会って勉強しなおさんといかんばってん、そしたら良か俳句が出来っかも知れん」

「おばあちゃん、これから時間は幾らでもあるわ、勉強して良いのが出来たら、そちらの世界で発表してみたら。良いのが出来るのを楽しみにしてるわ」

「そうね、私の叔父さん、清叔父さんは、長崎ではちょっとばかり名の知れた俳諧師でさあ、その叔父さんに小さい時に教えてもらってさあ、依しゃんは中々筋が良いって褒められたこともあったんだ、だけど何しろ7人姉弟の一番上だったから、歌なんて詠むようなゆとりなんてこれっぱしもなかったよ」

「俺は12人兄弟の一番末だったから、海軍行けば勉強も出来るし、勿論その頃みんなの憧れの海軍の将校に為れると言うので、成績もトップだったし、海軍兵学校に入ったんだ。絵は好きだったけれど、それで食べて行けるなんて思いもしなかったなあ」

「今だって絵で食べて行くのって大変だけど、昔はもっと大変だったでしょうねえ」

「ハハハ、今でも大変か。そうだな日本は家が狭か上に、絵を飾る場所が欧米に比べて極端に少なかけん、仕方なかかも知れん」

「わたしの描いた絵、見てみる?」

「見せてくれるのか、このじっちゃんに」

「勿論よ、こっちの部屋に置いてあるけれど、これは1部。他は貸倉庫に預けてあるの。そう云う事もあって画家は色々大変なのよ。支えきれなくて廃棄せざるを得ないと言う人が沢山いるの。でも、画家はまだいい方よ、塑像を作っている人たちはもっと大変だと思うわ,傍から見てつくづく思うのよ」

「天国は良いよ、広いし誰からも邪魔されないし、絵の具は使いたい絵の具を使いたいだけ使え、勿論キャンバスは朝でも絹でもただだし、ハハハ、でもいくら書いてもこの世の人間には見てもらえないがね」

「そうよねえ、画家も田舎に家持ったら良いのかも知れないけど、どうしても働かざるを得ないから、都会に住むことになる。鼬ごっこね」

「おーこれは素晴らしいな、これを多恵ちゃんがねえ。良かよ、とても好か。こう何か胸に迫るものがあるねえ、これを多恵ちゃんがねえ、ほら依子も見てみんね、素晴らしかよ」

「どれどれ、わあよかよか、ほんとによう描けとるよ。わたしは絵は全然分からんけど、この画が素晴らしいかは分かる。あ、こっちの絵もあたしは好いとるよ」

「うんこれも良か。みんな良か絵ばっかりたい、あの世に2,3枚持って行きたかねえ」

多恵さん抜きで二人の絵の品評会が続く。

「ねえ、母は何時頃長崎に立つの?」多恵さんが尋ねる。

「えーと、来週あたりだと思うよ。あたしが生きていたら、由美ちゃんと又ゆっくり話が出来たのにねえ」

祖母が少し残念そうに語る。

「来週か、季節的には一番良い時よねえ」

「ああそうだよねえ。長崎も一番良い時だよ。お宮日も過ぎて気候も大分涼しくなってさ、空も山も海もお互いに映えあって最高に綺麗だと思うよ。お諏訪さんは終わったけど、順々に色んな神社で宮日があるけん、そいも楽しみたい・・そう言えば坂本の山王神社の宮日はもう少し後だったかな、あんた」

「うんそうかも知れんな。秋になるとあそこの宮司がそわそわしだすんだ、毎年」

「あんた達、仲良かったもんね、隣の向井さんやお菓子屋の山木屋さんと、どうしたら坂本山王がこれから盛り上がるか、四人で話し合ってたよねえ」

「うん、よく話し合ってたよ、少ない町内会費でどうしたら良いかとかさあ」

「中心メンバーだった向井さんが倒れてしまってからは、我々もそう言ったことにタッチしなくなってしまったけど。でも向井さんが、あんなに健康的な人が変な奇病に罹るなんてなあ」

「酒もあまり飲まず、たばこは吸わない、剣道の達人で子供たちを集めて山王神社の境内で、夕方剣道を教えていたのに・・奥さんが、今では私の名前さえ分からないと嘆いていたわ、病気の原因も判らずじまいじゃた」」

「今はさ、元通りになって、みんなで時々集まっては色んな事やってるよ。自分はテニスが好きだから、ついついそっちの方に惹かれるけどさ、あの連中と話すのは楽しいよ」

「ああそうだ、真理ちゃんの学校はどっちの方向かい?ねえ、長崎に戻る前にひ孫の様子を見て行こうよ」

祖母が祖父を誘う。

「ここから近いけど、外に出て杉山君を呼び出せばすぐ来るはずよ。彼に案内してもらったら?」

「ああそれが良いねえ、彼は幽霊にしとくのは勿体ないくらい性格のいい子だもん、案内してもらおうかねえあんた」

「お、俺もあいつは気に入ってるんだ。早速案内してもらって真理ちゃん見学だ」

二人は出て行った。

やれやれ静かになった。そうだ、今のうちに昨日買ってきたお土産をお隣に渡しておこうと、多恵さんは立ち上がる。

でも夜になると二人は又やって来た。今度は家の中には大樹さんも居れば真理ちゃんもいる。多恵さんはそんなには返事が出来ない。二人共多恵さんにに話しかけたくてうずうずしている様子。

「真理ちゃん、今日何か学校であったの?」と一応真理ちゃんに先ずは多恵さん、声をかける。

「え、いや、別に変った事なかったわよ。今年も運動会なくて、球技大会があるんだって。それくらいかな、そうそう、中間テストもう直ぐあるから、劇の稽古は一時融資なんだ」

「そう、山岡先生何か言ってた?」

「うん、何時もの通り、と言ってもまだ2回目だけど、あなた達の本分は勉強にある。演劇部員として恥ずかしくない成績を取るようにとね」

「ふうーん、ひいじいちゃんの好きそうな言葉ね」

「え、ひいじいちゃんてそんな言葉好きだったの?」

「いえね、この間聞いたのよ、あなたのばっちゃんに。あなたのひいじいちゃんは凄いスパルタの軍曹みたいだったって」

「ひょえ、でもばっちゃんはお母さんにはすっごく甘々だったって言ってたわよ」

「多分離れて暮らしてたし、子供と孫と言う違いもあるから。それに鬼軍曹も年を取れば,菩薩様に変わるんじゃないの」

「そうか、、時が変われば鬼も仏に変わるのか」

「変わらない人も沢山いるけどね、あなたのおじいちゃんみたいに」

そう言いながら多恵さんは目の前の祖父の顔を見る。

「由美には悪いことをしたと反省してるよ。スパルタでやればあいつの成績がぐんぐん伸びると思ってな。でもあいつには反対だったようだ。あれは自分で考えて自分の方向を決めたかったんだ。だが我が家の経済的な事を考えるとそうもいかなかったんだ。正一にも同じ思いをさせたよなあ」

祖父の目は子供の思いをかなえられなかった親の悲しい目をしていた。

「でも、正ちゃんはあんたが死んでから研究室の主任にもなったし,九大に呼ばれて先生にもなったから、そんなに悲観することもないよ」と祖母が慰める。

「それよか、真理ちゃんね、劇の中でダンスするみたいだよ、その演劇部の花と言われてる人とさあ」と祖母が付け足した。

「え、そうだったのか、成程」多恵さん思わず合図地を打つ。

「なあに、何が成程なのよ」と真理ちゃんが聞く。

「いえ、少し思い出したことがあって。所でその演劇、新シンデレラ伝説だっけ、あんたはカエルの王子様をやるのよねえ」

「カエルの王子様じゃなくて、カエルのような顔をした王子様よ」

「あ、そうか。それでシンデレラとはダンスするの?」

「初めはしない設定だったけれど、永沢さんの最後の舞台だから、山岡先生の意向を汲み取って、ここは二人、永沢さんとわたしが、ベランダで思いっきり踊ると言う事にしたのよ」

「へーあなたがダンスをねえ。大丈夫なの?」

「うん、まあ試験が終わったら猛特訓するわ。永沢さんに恥をかかせられないもん」

「そりゃそうね、お母さんは少しは出来るけど、お父さんは全然踊れないのよ。まあお母さんで良ければ相手をしてあげるわ」

「うんその時はよろしく。あ、明日はじっちゃんの誕生日だね、わたしからおめでとうと言ってたと伝えておいてね、試験だから頑張るとも伝えてちょうだい。わたし、ご飯の後、少し勉強するね、東村君に恥ずかしくない程度の成績取らなくちゃいけないんだ」

東村君ねえと多恵さんはまだ見ぬそのイケメンの顔をあれこれ想像してみたが、今一イメージが湧かなっかった。

「ねえ、おばあちゃん、東村君て分かった?」多恵さん、祖母に尋ねてみた。

「うーんはっきりと分かったわけじゃないけど、一人すごっくハンサムな子がいてね、時々真理ちゃんと話してたから、多分その子だと思う」

「もう一人背の高い子が結構好い男だったと思ったけれどあいつは違うのか?」

「多分それは沢口君と言う1年上のバスケット部の男の子よ。隣の武志君の友人なの」

「その子も真理ちゃんに気があるみたいだったなあ」

「真理ちゃんは可愛いし、性格も明るくて良い子だからモテるのよ。でも、東村君は絶対あの子よ、ハンサムの度合いが違うもの」

「まあそうだろうと俺も思うけど、そのバスケットやってる子も気になるよ」

「今の若い子って良かねえ、好きと思えば気楽に話せるし、気が合えば付き合うことも出来るもん」

祖母はそう言って、大きなため息を一つ。

「あら、おばあちゃんたちは恋愛結婚って聞いたけど」

「まあ、そうよねえ、長崎で会って、上海で又会ったから、運命と思って結婚したんだよ」

「お前、だれか他に好きな奴がいたんか?」

「まあ人生、色々あるわよねえ、多恵ちゃん」

祖父母の間に黒雲が沸き上がる予感、多恵さん焦った。

「まあまあ、色々あるのが人生よ、おじいちゃん」

「まあ、俺も祖母さんの前に、結婚してたからなあ」

「え、おじいちゃん、離婚してたの?」

「多恵ちゃん、知らんかったと?鹿児島で結婚してたとよ、それも養子縁組でさ」祖母が付け足す。

「まあ、向こうも縁組を解除した後、直ぐ又結婚したけどさ」祖父。

「明乃さんの結婚した人が戦死しなければ、ほんに良かったとばってん戦死してしもうて、鹿児島であたしがどんげん肩身の狭い思いをしたことか」

黒雲から飛んだ祖父母の離婚話やその結末を聞こうとは、多恵さん予想もしていなかった。

それから2,3日、祖父母は杉山君達の案内で東京見物に出かけた行った。週が明け、火曜日には母が長崎に行く日がやって来た。

「色々面白かったよ。又直ぐ戻るかも知れんけど、一応由美と一緒にうち等も長崎に行くけんね。そいまでさよならね」

「幽霊のみんなにもお世話になったなあ、お前からもお礼を言っててくれ」

祖父母はそう言うと消えて行った。

多恵さんの周りがすっかり静かになり、ああ、今は秋なんだと、改めて感じ入った。

それから4日立った。

朝、電話が鳴る。電話に出る。

「はい、もしもし、島田ですが」

「多恵ちゃん、お母さんだけど、お父さんがね、お父さんが私が長崎に帰っている時に階段から落ちて,誰もいないから、博が仕事から帰って来るまでそのままの状態だったの。それから博が慌てて救急車を呼んで、入院させたの。病院は前、やはり階段から落ちた時に行った同じ所なのだけど、前は直ぐだったから入院しないで返されたけど、今回は緊急治療室。今も意識は戻っていなくて昏睡状態が続いているわ」

母の声は落ち着いているが、それでも多恵さんには父の状態が相当悪いと言う事は感じられた。

「そう分かった。見舞いに行く時は連絡するわ。真理も行きたいだろうから」

「うん、だけど今コロナで中々お見舞いが難しいのよ、しかも集中治療室だからねえ」

「そうか、中々お見舞いも難しいのか。まあ良く考えてからにする」

「先ずは集中治療室から出ない事には話にならないと思うよ。それに今は意識がなくて何も分からない状態だから、お見舞いに行ってもあの人には分からないと思うわ」

母は冷静で現実的である。でもその通りだ。

その日の夕方、先ずは先に帰って来た真理ちゃんに話をした。真理ちゃんは暫し絶句した。

「そうか、じっちゃんは入院したんだ。コロナでお見舞いも出来ない。ちょっぴり悲しいね」とその後呟いた。

夜になって大樹さんが帰って来た。大樹さんに報告。大樹さんも暫し絶句。

「お母さんが居ない間に酒でも飲んだかな?」

「ううん、お酒類は置いてないはずよ」多恵さんは考えを巡らす。有った、一つだけ。

「梅酒があったわ、まだ父が元気だった頃、二人して作っていた梅酒が。父の加減が悪くなって、母が家にいる時は、その目を気にして飲まなかったけど、母が居なければ、こっそり、分からないだろうと飲んだに違いないわ。お酒は飲めない性質なのに、友達と飲みたくて飲みたくて、悪酔いしながら飲んでいたのよね。気が付けばどちらかと言うとアル中見たいになって、辞められなかったのよ。煙草は何とか止められたのにさ」

「そうだな、今は大分飲み会も少なくなっているらしいけど、昔は飲めないと仲間に入れてもらえない事が多かったから、お父さんも無理したんだろうな」

「そうじゃないのよ、父は何だか悪ふざけが過ぎてね、修学旅行の時から、先生にこっそり隠れて飲んでいたらしいわよ、友達と。初めに好きだったのはどうもお酒でなくて悪ふざけだったのね、タバコもそうらしいと聞いてるわ。小学生の時は蛇を捕まえて来て先生の机の引き出しに入れた事もあったとか。そのくせ今は猫が捕まえて来たネズミ一匹始末することが出来ないと母が嘆いていたわ」

こうして父が倒れたことを知りつつ、何も出来ないままに時間は流れて行く。

そして又祖父母の霊もやって来た。

「あら、二人してあの世の世界に行ったんじゃないの?」

「そうしようと思ったばってん、由美の旦那が倒れてしまって、帰るに帰れんようになってしまったので、今暫く様子を見ようと決めたんだ」と祖父が言う。

「ほんに由美はふの悪か、定一さんは見かけは良かばってん、他はブーンと駄目やった。引っ越しの時もみんなが一生懸命働いているのに、ちょっと一服と言って休んでばかりだし、酒癖もあんまし良くなかった

ようだし、会社も由美が辞めないように頼んだのにさっさと辞めてしまって」祖母はぶつくさ。

「でもさあ、自分に甘かった分、他の人にも甘かったと言うか、優しかったよ」

自分の父親の事をぼろくそに言われ、多恵さんとしては反論しようとしたが、優しかった以外には中々反論するカードがない。

「そ・それ以外にも・・」

「他にもあると?」と祖母が聞く。

「えーと、それ以外には・・そうだ、字が旨かったよ。今は全然書けなくなったけど、昔は字がとても綺麗だったんだよ。剣道もやってたし、サッカーもやってたらしい」

今、この祖父のに誇れるものがないのが辛い。

「まあ、多恵ちゃんの大事な父親なんだから、そう云う事にしようかね」祖母は一応納得してくれた。

「「長崎はどうだったの?」部の悪い父親の話を止めて、長崎の話を持ち出す。

「ああ、長崎ねえ。長崎はねえ墓も大抵山の中腹にあるとよ。うちらの墓も坂本の家の近くにあってね、稲佐山がよー見えると。勿論下の街も見えるばってんかさ」

「海も見えるばい。今度行く事のあったら寄ると良かよ、中々良かとこに作ってあるばい」

「あたしのお骨はずーと正一が抱いてて、由美はあんたのお骨をずーと抱いていたとよ」

「由美は俺の骨が何処にあるのかと、長い間、お前にも正一にも聞けず、気にしていたらしい。やっと俺の骨に巡り合えて、ほっとしたのと、長い間ほって置いたのを詫びる気持ちがあったらしい」

「あんなに小さい時いじめていたあんたをかい」

「いじめてはいないぞ、もう少し詩とか絵とか、下らんことをしてないで勉強してくれたら、もっとずーと

良か成績が取れるとにと思うと、つい先に手が出てしまうとさ」

「それを今では虐待と言うらしかばい」

「うーん、そうかも知れん。何しろ海軍兵学校の教え方をそのまま用いたしなあ。でもその内由美は自分から勉強しだして、薬学に進んだんだ」

祖父はじっと一点を見つめて喋っていた。

「あの子が成りたかったものは一体何だったんだろう?」

「時勢が時勢だったから、仕方がないと自分の中で諦めていたんじゃないの。多分その当時の大半がそうだったように」多恵さんが締めくくった。

多恵さんは思う。母はとっくに祖父を許していたんだと。そして母が父に惹かれたのは、その優しさだったんじゃないかと。

 多恵さんはあの長崎の浦上川の絵を描きたいと思った。ここは母が少し大きくなってからの住んだ所で、もっと前は所謂旧長崎のその長崎宮日が催される諏訪神社の近くに住んでいた。つまりここが母の小学高学年から青春時代を過ごした場所である。

青い空、ここいらの空とは違う青い色だった、なだらかな山々とそこに目指すように伸びて行く建物達。それらをすべて受け入れゆったりと流れ行く川。そよぐ柳の木々さえも優しい眼差し。

この絵を描いて行くと何故か自分の心が広くなって行くと云う、不思議な気分を味わっていた、その一方でこの川の直ぐ傍に原爆が落ち、近くの沢山の学校(小学校、中学校、女学校、大学、薬専、師範学校他)病院が被爆し、おびただしい人々が亡くなり、後遺症に苦しめられて来た。きっとこの川の水を求めて幾万の人達が亡くなって行ったんだろうか、この川にどれだけの人達の死体が浮かんだことだろうか。でも川は今静かに、人と言う愚かしい生き物をも掻き抱いて海へと流れて行くのだ。

母が行った事を思い出した。

「私、絵を描きたいの。あなたみたいに上手に書けないけど、被爆して死んでいく子供たちや少女たち。それから、被爆して胴体は燃えたけれど、何故か顔だけは燃えずに残った木製のマリア像の絵を、その日の朝と被爆している時のマリア像。焼け落ちた天主堂のレンガの中に真っ黒になりつつも焼け残ったマリア像の顔を。わたしはこのマリア像が被爆後に故郷の浦上に立ち寄った修道士に発見され、これから修道士として人生を過ごす北海道の修道院に持ち帰り、長い年月の後その修道院から浦上天主堂に返されたと言うニュースを新聞で読んで、長崎に飛んで行ったんの。あれは3月も中旬だった。しかも長崎、本来なら桜もちらほらと言う季節なのに、雪が降ったとかで、まだ植え込みや日陰には名残の雪があってね、それは先のローマ教皇様が長崎を訪れた時の事を私に思い出させたわ。その頃はそのマリア像は非公開で、どこにあるのかも分からなかった。兎も角浦上天主堂へ向かい、そこで、展示品や土産物を売ってる所に行って、そこでストーブを取り囲んでいた男の人達に、わたしは今は東京の方に住んでるけど、ニュースで焼け残ったマリア像の事を知って飛んできたと告げると、それは遠い所をと、マリア像の安置されてる所へ案内し、わたし一人だけにして下さったの。そのマリア像を見てたら、泣けて泣けて、その時決心したのよ。今から精進すれば少しは絵も上達するだろう、そしたら必ずこのマリア像を描こうとね。でも、そのマリア像が木製だって知ったのは、この後だった。元にもっどってお礼を述べた後、その男の人達が語るの聞いてびっくり。『ほんとに良く焼け残ったよねえ、誰もがもう焼けてしまって、残っとらんと思うていたもんやけん探しもせん遣ったもんね』『ほんとばい、よう木製のもんがあの高熱で焼け残ったって、信じられんばい』『え、木製だったんですか?木の彫像だったんですか、木の』『そう、不思議な事もあるもんばいねえ』と男の人達は教えてくれたの。暫くしてからわたしはそこを後にしたけれど、その奇跡のような話と目は焼け落ちてなかったけれど、優しかった顔立ちを思い出し又泣いたわ。こんな私にその像を見せてくれた信者の男性にも深く感謝したわ、勿論今も」

それから暫くしてから、その像は奇跡のマリア像として騒がれ始め、知る人ぞ知るものとなったが、まだまだ、十分には知られていない。長崎人の、特に浦上の人々の悲惨な歴史故にあまり大っぴらにしたがらないせいもあろうが、母としてはもっともっと、長崎だけでなく広く知って欲しい、マリア像はあの真っ黒い眼差しで平和を大切にして欲しいと母に呼び掛けていたんだから。

多恵さんは黙々として浦上川を塗っていく。母が下手は下手なりに必死になってそのマリアの絵を描き上げる日が早く来るように祈るだけだ。

「どうして私なんだろう?私よりも絵の上手な人は長崎にも一杯いるわ。わたしが気付かないだけなんだろうか?もしそれなら、わたしも気が楽なんだけど・・」とも母は語っていた。

必死に描くと言っても年は取って来るし、狭い階段の上に重いキャンバスを上げ下げするのは年々きつく成る、描くのはみんなの食事の用意を済ませた後のほんの短い間とお店の休業日、それも色んな用事や役員をしているのでつぶれる事も多い。そして今父が倒れてしまって母はこれからどうするのだろうか。

暫くして又、祖父母が顔を見せた。

「あらあ、まだこの世に留まっていたの?」

「あらあ、又会えて嬉しいと言ってくれると思とったのに」祖母が笑いながら言った。

「由美の事が気になって、あの世に帰るに帰れんばい」と祖父。

「でもさあ、あなた方お二人が居てもどうなるもんでもないし」と多恵さんは冷たい返事。

「ほんにあの子は、忙しかとよ、博ちゃんの世話も猫の世話も、それに花の世話も。勿論お店もあの子一人が切り盛りしてるし、今は町内会の班長と何か漢方関係の役員まで引き受けてるらしか。その合間に病院や銀行にも行かんばいけんし。そうそう絵も描いとる・・あの子は絵よりも詩や短歌を書くのが得意じゃなかったっけ」と祖母が言う。

「母はね、猫や花は好きでやってるんだから苦にはならないと思うわ」多恵さんの脳裏に小さい時、自分よりも花が好きだと言う母への思いが蘇る。

「ただ、博はもういい加減大人なんだから、も少し家の事を手伝わなくてはいけないと思うわよ」

「ああ、博ちゃんね、あの子はあの子なりに頑張ってるよ。病院にも行って医者と連絡とってるようだね。只あんたも言ったように、も少し家の事も手伝わんといかんばい」

「父親に似とるとやろ」祖父が付け足す。

「博ちゃんは定一さんよりずーとましばい、ちゃんと動くもん、言われれば」と祖母。

言われれば動くとはまさしくその通りだが、出来損ないのロボットみたいだなと多恵さんは感じて可笑しかった。

「おやあ、ここは長崎の浦上川じゃなかと?あそこから東側を見た所よねえ、あたしの好きな構図になってるとねえ」

「ええ、正しくは北東かな。あの方向が私も一番好き」

「ここからは見えんけどここの直ぐ傍に松山運動場があって、テニスコートも整備されてて、ようテニスしに通ったもんだ、体を壊すまで」祖父が懐かしそうに呟いた。

「でもそれがあんたの病気を酷くしたんじゃなかと?」

「うーんその時は、そうは思わんやったとばい。運動することは良か事やと思とったもん」

祖父は少し反論した。

「あんげん暑か時にさ、それもお昼の一番暑か最中にテニスをして、よう倒れん遣ったもんね」

祖母はその昔をこぼす。

「仕方がないのよ、昔は今みたいに熱中症の事も、日焼けの害についても返り見られなかったんだから」

多恵さんが間を取りなす。

「今はさ、それこそ日焼けも暑さも関係なく好きなだけテニスが出来るぞ、あの世ではさ。今は日本人もテニスが上手くなって、まだみんなが軟球なんてやってた時から、いやそれよりずーと前からテニスやってた俺としちゃ、鼻が高いよ」

「良かったね、おじいちゃん。おじいちゃんはスポーツが得意だったのね」

「ああそうだよ、でもさ、テニスが一番好きだったよ。だからさ、由美がテニスの好きな医学部の学生と付き合いだした時は密かに喜んだもんだ」

「ひぇー、お母さんに、そんなエピソードがあっただなんて知らなかったわ、それでどうなったの?」

「そうだな、どうなったんだろうな。あんまりそいつがテニスに夢中になって、あいつの事構わないから別れたんじゃないか」祖父が寂しそうに言った。

「あ、別れた後も何回かあってたみたいだよ。相手がさ、どこかの金持ちの娘さんと結婚するとかで、それからは会わなかったらしいけどね。でも互いに少しは気が有ったみたいだとあたしは思ってるよ。その相手はじいさんじゃないけど、その川の近くで病院立ててねえ、結構大きな病院だよ。もう多分代は代わってるかも知れんけど、名前は変わっとらんもん。その名前を見る度に、ちょっと変な気持ちになるとよ。でもあの子は化学者になる夢に向かってて、彼氏の事はさっさと夢の向こう側へ投げ捨てたのさ」

と祖母は淡々と話して聞かせたが、少しは未練があるみたいだった。

祖母はもし母とその彼との仲が続いて結婚してたら、由美が長崎を捨てる事もなく、もしかしたら一緒に住んでいたかもしれないと言う切ない願いが、叶っていたかもしれないと思うと、少しだけ悔やんでいたに違いな。

「由美は気の多か子やったけん。夢も好きな男も、どっちもさ」と祖父が笑った。

母は夢が多かった。そうかも知れない、化学者になる夢はついえたけど、まだまだ夢は沢山あると、70をとっくに過ぎた今でも、歯を少し食いしばって前を見つめる母の横顔の中に、多恵さんはひしひしと感じないではいられなかった。

「で、これからどうするの、お二人さん?」

「まあ、も少しあの家とこの家の間をうろうろしてみるよ。それに今、日光や箱根辺りは紅葉が見頃だそうじゃないか?まあその楽しみもあるし、真理の学芸会も見なくちゃならないしなあ」

「えー、学芸会じゃないわよ、真理が台本書いて、演劇部のみんなが演じるのよ、立派な演劇部の発表会なんだから」

祖父の発言に多恵さん、真理ちゃんに成り代わって講義する。

「まあそうだろうけどさ。そう言えば由美も台本書いたり、友達集めて劇をやってたような」

「確か先輩に演劇部に入らないかと誘われたそうだけど、きっぱり断ったとか聞いたよ。あの頃からそろそろ勉強に目覚めたんだねえ、由美は」

そうか、母も演劇に一時的にせよ情熱を傾けていた時もあったんだ。真理ちゃんが仕方なく入らされた演劇部だけど、あんなに台本や演劇に寸暇を惜しんで情熱を注いでいるのは、決していやいやながら出来る事ではない、本当は演劇が心底好きに違いないのだ。

「只今あ」真理ちゃんの元気のいい声が響く。

「わたしね水沢さんと踊るの大分上手くなったよ、みんなも褒めてたし、水沢さんも凄く上手になったって褒めてくれたんだ」

「そう、良かったわねえ。お母さんも真理ちゃんの踊るのを少し見たくなっちゃった」

「でもさ、あくまでもカエルの顔した王子なんだよ。お母さんお願いがあるんだ、そのカエルのお面を描いて欲しいんだ、それも思いっきりグロテスクな顔をしたやつを」

「思いっきりグロテスクなカエルのお面ねえ、可愛いカエルの方が良いんじゃない」

「駄目よ、可愛いカエルなんて、それじゃこの劇は死んでしまうわ。グロテスクだからこの物語は成り立つのよ、そして最後までそのグロテスクなカエルの顔のままなの」

「そうね、それが真実よね、はい結婚を承諾しました、カエルは立派な若者になりましたでは真実に反するわよねえ」

六色沼のずっと向こうに秋の夕日が落ちて行く。山の日暮れは早いと石森氏が言ってたけど、秋の夕餉れはどこも早いのだ。

「おにぎりとコーンクリームスープ、温めるから早く食べて塾に行く支度をしたら」

「はーい」真理ちゃんの返事は何時も元気が良い。

           続く     お楽しみに








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