1話 決別の朝
「おお! これはまたいい鴨だ!」
王宮の裏口。使用人の出入り口であり、商人たちの荷車が止まる場所。そこから弾んだ声が聞こえる。今日は国を挙げての大事な儀が執り行われる。浮かれ気分で大声を出したのは王宮料理長。
この国では嫁ぎ先に鳥を送るのが習わしとなっていてそれが今しがた届いたのだ。王妃となるエリザベートの実家クワン公爵家より。
「血抜きまでしてあるぞ。さすが公爵家だな」
高級な鴨肉が下処理までされている。無論鮮度もいい。料理人ならこれをみて浮かれない者はいないであろうほどの品だ。これを今夜の晩餐の目玉にしようと料理人たちは丁寧に運び込み早速支度にかかった。
一方でクワン公爵家もまた婚儀の支度に追われていた。
「ロザンヌ、ひと思いにやってちょうだい」
最後まで渋っていた侍女ロザンヌはエリザベートのその声に、決心したように大きく息を吸い、あろうことか主の唇にナイフで傷をつけた。
「つらい事をやらせてごめんなさい」
「いえ。お嬢様が謝る事ではございません」
傷つけた方のロザンヌが目に涙を浮かべ静かな怒りを滲ませる。
そしてその後は何事もなかったように淡々と支度を進める。
最後に鮮やかな紅を乗せるとちょうど出立の時間となった。
これから始まるエリザベートの復讐への出立。
澄み渡るような青空とは言い難いが、それでもお天道様が少しでも顔を見せてくれるのならば、新たな人生の門出には申し分ないと言っても差し支えない天気だろう。
尤も、これからの人生は、お天道様の下を堂々と歩ける人生とはならない。
だからと言って、隠れてこそこそやるつもりもない。
自分の人生が、天に照らされないのであれば、自分で照らして進むだけだ。
これが神の試練だと言うならば、乗り切るまでだ。
「ロザンヌ、明日決行することにしたわ」
「承知致しました」
昨夜王宮から戻るとエリザベートはロザンヌに、ある計画の決行を伝えた。本当はもう少し様子を見てから判断するはずだった。だがエリザベートの心に楔が打ち込まれた。これ以上ないほどの屈辱に耐え続けた果てに軽んじられたのだ。
まさか二年前の、あれ以上の屈辱があるとは思わなかった。
怒りとやるせなさの中、エリザベートは、自分がどれほどちょろい女で、流されやすい女であるかを知ることができた。そしてそれらを捨てる覚悟もできた。
「二年で王家をぶっ潰してやるわ!」
同時に、この計略を躊躇なく完遂できることに喜びも覚えた。
────ゴーン
礼拝堂の鐘の音が厳かに鳴り響く。
そこへ観衆の声が湧き上がる。
今日は国を挙げての成婚の儀だ。
二年前より決まっていたこの日は祝日となっていた。
国王が最愛の女性を迎える日。
二年前からの約束である公爵令嬢エリザベート・クワンとの公の婚儀は、国王リンデルが誰よりも待ちわびていたのだ。
教会の扉が開き、父を伴ったエリザベートがリンデルへと一歩また一歩と歩を進める。
白磁を思わせるような肌に、整った口元に引かれた紅。流れるようなブロンドは今日はベールに覆われており、髪と同じ金色の瞳は真っすぐに夫となる者へと向いている。牧師の前に立つリンデルが、ベールの上からでもわかるその美しさに舞い上がる。
そして舞い上がったままのリンデルをよそに義は進む。
その意識が隣のエリザベートだけに向けられたままでも、誓いの言葉が上の空でも、滞りなく終わると思われた婚儀だが、しかし終盤で異変が起きた。
誓いの口づけが今まさに終わった瞬間、エリザベートの口元から深紅の雫が流れたのだ。
参列者から息を呑む声にならない声が漏れる。誰もが最悪を思い描く。牧師が即座に王妃に駆け寄る。だが王妃はそれを制し思いの外しっかり頷いた。そして、止血するかのように唇をきつく結んだ。
「え、エリザベート、その、すまない」
「いえ、情熱の現れですわ。ふふふ」
二人の声は小さかったが、息を止め、耳を澄ましていた参列者にはしっかりと聞こえた。そして一同は深い息を吐いて思った。紳士的だと思われた口づけは実は情熱的なものだったのだろうか。そうなのかもしれない。花嫁が入場してからというもの、その姿に見とれた国王は上の空だったし、さっきの抱擁だってかなり力が入っていた。そのせいで純白のドレスに皺ができている。
婚儀で流血など見たこともないし、あってはならないだろうが、毒などではなく、本当に良かったと参列者一同、深く胸をなでおろした。
花嫁への愛が大きいが為起こったことだとなれば微笑ましく取れると言うものだ。
それが王と王妃ならば尚更。
「この国は二人の強い絆によって栄えて行くだろう! そう思わせるような情熱的な婚儀だった」
一足先に礼拝堂を出た先代国王は、王宮のバルコニーからその様子を民に伝えた。
しかしその情熱が悲劇をもたらした。
翌朝。ちりん、と国王の寝室から控えめなベルが鳴ったのを確認したロザンヌと侍女長は、扉を控えめにノックした。
ロザンヌは王妃エリザベートの着替えを手に、侍女長は国王リンデルの着替えを手に、初夜の御印の確認のため、だいぶ前から扉横に待機していた。返事を聞き取るのがやっとのエリザベートの声に、二人は顔を見合わせて微笑んだ。声が小さいのはただ単に恥ずかしいのだろうと。
しかし、暗がりだと思いゆっくり開けた扉の向こうには、なぜか既に日が入っており、突如違う世界に突き落とされたような───悍ましい光景が目に飛び込んできた。