【序章】復讐への誓い
──エリザベートがそれを知ったのは婚儀の前日。
その日エリザベートは婚儀の最終打ち合わせをするために、夫となるリンデルを訪ねる約束をしていた。
賓客をもてなすための棟を抜けた所に近衛騎士が並び、そこから先の立ち入りを制限している。通常三人体制の騎士が今は二人しかいない。二人はエリザベートの姿を目の端に映すと、真っすぐ前を向いたまま敬礼する。エリザベートの方をちらりとも見ることはない。
部屋に入る際、必ず一呼吸してノックをするエリザベート。今日も同じように一呼吸置いてからノックをしようとしたその時、中から声が聞こえた。
来客中なのかしら?
予定より早く着いた為、暫く待ってみたが中から人が出てくる様子はない。くぐもった音としてしか聞き取れないが、誰かが会話をしていることは確かだ。
しかし賓客とこの時間に会う予定は組まれていないはず。となると明日の護衛の打ち合わせだろう。そう思いながらエリザベートはノックをした。
あの場に近衛騎士は二人しかいなかったし、もうひとりが中にいてもおかしくない。式典の前に護衛の配置を入念に話し合うのはいつもの事だ。それを理解しているエリザベートは軽い気持ちで返事を待たずに扉を開けた。
もし近衛騎士ではなかったとしても、明日は婚儀だ、余程の粗相でなければだいたいの事は祝儀として許してくれるだろう。そんな打算も働いた。
今日は朝から目まぐるしかった。通常業務に加え、明日の婚儀の確認に既に到着された賓客の出迎え。今すぐにでも休みたいわ。割って入るのは失礼かもしれないけれどこれが今日の予定の最後だ。とにかく早く終わらせて帰りたい。
過度の疲れから慎重さを欠いたのかもしれない。
通常のエリザベートならば、この場合はすんなりと来た道を戻っていたはずだ。
足を入れ室内を見渡すがしかし、明日夫になるはずの男の姿はどこにもない。
確かに声が聞こえた。
そう思い、更に奥の部屋の扉を開けようとしたとき、出てきた騎士と対面した。
見ない顔だ。新人を入れたのだろうか。だからベテランのあのふたりと組んでるのかしら。
「くっ、クワン公爵令嬢。陛下は、その、今は、」
この新人騎士は態度に出すぎね。配置を考えなおした方がいいわ。
そんなどうでもいいことが疲れた頭を過る。
その時奥の部屋から、微かな声が聞こえた。
エリザベートは、一瞬眉を上げる。
この奥は夫の寝室だ。
「こ、これはその、陛下の職務の一環でして」
対面している騎士はどくことはなく、扉向うの声を聞かせたくない様子で、エリザベートをこれより先には進めたくないようだ。
「そう、でもわたくしも約束があってここへ来たの。あなたがどかないのなら、わたくしはずっとここにこうしていればいいのかしら?」
エリザベートの声は冷たく響く。
騎士が退室すると部屋は静まり、男女の仲睦まじい会話が細々と聞こえる。そして、そう時間はかからず睦言へと興じたことがわかった。
体がいうことを聞かない。
切り付けられた心は血を流し熱を帯び、絶望を含んだ怒気が静かに立ち昇った。
同時に、捨てたと思ったものが内にあることに気づき、自分に失望した。
────裏切り。
過去に置いてきた言葉。
疾うに忘れたはずの感情と痛みがぶり返す。
昔話──と言えるほど遠い過去ではない。
二年前のことだ。
王太子であり、エリザベートの婚約者であったデューン。当時、彼との間に愛情と呼べるほど確かなものはなかったが、芽吹き始めたほのかな想いは確かにエリザベートの中にあった。
だがそれは跡形もなく踏みつぶされた。彼と彼の想い人によって。
言ってくれれば力になったのに、なぜあのような公共の場を使い暴力的なやり方をしたのだろう。なぜはなぜのまま、王太子を降りたデューンとは会話をすることもなく、今に至る。──あの日の夜会で冤罪を被せられたエリザベートは今もそのままだ。
あの時、同時に国王と王妃に対しても失望した。
国益ではなく、息子を優先し、保身に走る姿はとてもではないが王族のそれではなく、威厳の欠片もなかった。
自分の信じていたものは一体なんだったのだろう。
そう思った時には、王太子が交代となりリンデルとの婚約が決定していて、もう信じる心は凍っていた。
辛かっただろう。これからはオレが守る。だからなにも心配いらない。一緒にこの国を繁栄させよう。
新しい婚約者にそう言われても、心は揺らいでいない。そう思っていた。
実際、あの王太子の交代劇から二年も経つのに、この国でのエリザベートの評判はよくない。
真実の愛に目覚めた元婚約者であり元王太子のデューンに婚約破棄された令嬢は、その地位欲しさに王妃の座を誰にも譲らなかった。
これが国民に広がるエリザベートの噂だ。
そんな噂、国王となったリンデルがその気になれば掻き消すことなど造作ない。それをしないのだ。口先だけの言葉に心が揺れる訳もない。信頼以前に信用などできやしない。
それなのにいつの間に絆されていたのだろうか。自国で家族以外に思いやってくれるこの人に。
裏切られた、などと思えるほどの絆などないと言うのに。
帰らなければ、そう思いながらも足が上がらない。朝から婚儀の確認に動いていたエリザベートの足はただでさえ重かったというに、まさかの出来事に動揺し、動揺した自身にショックを受け気力が一気に抜けた。
漸く王宮の外に出たエリザベートは裏庭に見つけたベンチに腰掛ける。日の当たらない北向きの殺風景な場所にあるベンチだ。誰がなんの目的で作ったか知らないがこの狭さが今のエリザベートにはちょうどいい。
庭園ならば、リンデルがエリザベートのために造らせた立派なものがあるが、今は、いや、今後そこに足が向くことはないだろう。
当然、夫の部屋もだ。
他の女と使った部屋など住人ごと燃やしたいくらいだ。
その時、どこかで窓の開く音がした。そこから声が漏れる。
「あの女どうだった?」
「お前のお下がりじゃなけりゃ、な」
同時に葉巻の匂いも漂ってくる。
「しかしお前も式の前日によくやるよな」
「そんなつもりはなかったさ。少し予行練習でもと思ったらあの女がその気になりやがってしかたなく相手しただけだ」
「はっ、どうだか──」
顔を見なくともわかる。
この声は元婚約者と現婚約者だ。
「────ああ。まあ、玉座に就くことがそもそも嫌だったんだ。それでも途中までは頑張ったんだぜ。頑張ったんだが限界だった」
「あんなにいい女を投げ出してまでか」
「あいつは確かにいい女だけど、玉座の添え物としか見ることができない女に感情が動かないのは仕方ないだろ。ま、単純に好みじゃなかったってのもあるけどな。その添物がおまえの一番欲しいものだって言うんだから、くれてやった俺への感謝は頼んだぜ、従兄弟殿」
「へいへい、おれはお前の為にお飾りを生涯かけてやってやるよ。まったく上手くやりやがって」
リンデルの高笑いが耳にこだまする。
な、に、……この会話。
座り込んでいたエリザベートは、さらに予期せぬ追い打ちをかけられた。
先ほど切り付けられた心に、とどめだと言わんばかりの鉛がうちこまれる。
それが体を貫く。
鼓動が走る。
ドクドクと、喉の奥からこみ上げてくるものを飲み込もうと口元を強く押さえるエリザベート。
絶叫だったのか、生理的なこみ上げだったのかはわからない。しかしそうしなければ何かが漏れてしまいそうだった。その何かが少しでも漏れ出てしまえばそのままの勢いで泣き叫び、喚き散らしてしまいそうだった。
添え物と扱われていたことが。
そんな理由で王位に立ったことが。
このような者たちの為に血反吐を吐いて王妃教育をした自分が。
滑稽で、情けなくて、悔しくて、口元を強く押さえていなければ叫んでしまいそうだった。
このまま国を出ていきたい。
誰にも知られない国で静かに暮らしたい。
そんなことは夢物語だとわかっていても、今はその夢物語の世界に入らなければ自分を保てなかった。
どうやって帰ったのかは覚えていない。
気づけば湯あみも終えてベッドにいた。
至近距離から放たれた言葉の鉛はその心を殺すのに充分な威力を持っていた。
もうそこにいるのはエリザベートであってエリザベートではない。
仄暗い笑みを浮かべた執行人。
──執行人は執行を言い渡した。