旅立ちは春風とともに
そこには大きな桜の木があった。
いくつもの出会いと別れを見送ってきた。
そのために咲いていた。
だが、今はもう出会いも別れもここからなくなって久しい。
ここはもう誰もいなくなってしまったから。
おそらく、次が最後の開花となるだろう、その桜の木は自分の終わりが近いことを理解していた。
そして、誰を見送るわけでもなくひっそりと最期を迎えるとしても、最後までそこで咲くことを良しとしていた。
彼らがやってきたのはそんな場所だった。
「なんと、ここに誰かがやってくるのは、いったいいつぶりでしょうか。旅の方、少し私と話をしていただけませんか?」
桜の木はイヌくんとドブネズミくんに語り掛けた。
「初めまして。僕はイヌです。僕の頭の上にいるのはドブネズミくんです。あの、とってもきれいな花びらですね! 遠くからでも良く見えてました。」
「ありがとうございます。イヌくん。ところで、二人はどのような旅をされているのでしょうか?」
「僕は、自分が生きるということはどういう事なのか、それを探している途中です。」
「それは、素晴らしい旅ですね。旅立たれてどのくらいたつのでしょうか?」
「実はつい最近といいますか、ついさっきといいますか・・・」
桜の木はそれを聞くと、少し間を開けてこう言った。
「よろしければなのですが、その素晴らしい旅の旅立ちを私に見送らせていただけないでしょうか。」
その申し出に、イヌくんはびっくりしたが、すぐに笑顔になった。
「いいんですか、すごくうれしいです。ありがとうございます。」
「好意を素直に受け取れるのは大変良いことだ。受け取る側もきちんと受け取る責任が生まれる。君はそれを自然体でできるんだな。」
と、イヌくんの顔の上で横になっていたドブネズミくんが喋りだした。
「このような体勢で失礼。申し訳ないが、体が小さい分消耗が大きくてね。少し疲れてしまっていたんだ。僕らの旅立ちへの見送りの申し出に感謝します。」
そして、姿勢を正し続ける。
「見たところ、もうすぐ満開と思いますが、それを待ってということでよろしいでしょうか?」
桜の木もドブネズミくんにこたえる。
「その通りです。満開の私の花びらをもってあなた方の旅立ちの祝福とさせていただけばと思っています。ご推察の通り、明日には満開にいたしますのでまたお越しいただけますでしょうか?」
「もちろん。ですが、明日という事であれば我々はどこかで休みを取らねばなりません。どこかに良い場所があればお伺いしたいのですが。」
イヌくんとドブネズミくんは、桜の木から雨風がしのげる場所を教えてもらい今日はそこで過ごすことに決まった。
歩き続けていたイヌくんは、体を休めるとすぐに寝てしまう。
ドブネズミくんはイヌくんが眠ったことを確認し、自分の体の状態について確かめる。
『これ』が良くなることはない。
それは決まっている。
問題はいつ終わりが来てしまうかということだ。
「最後の最後で、こんな関わり合いを誰かと持つことになるとはね。」
いい場所だと思った。
自分の終わりはここでいいかなと思っていた。
イヌくんが来なかったら本当にあのタイミングで終わりが来ていたように思う。
そんな時に、途方もなく悲しみに暮れた顔をしてやってきた彼が「生まれ変わったら何になりたいか」などと聞くんだ。
笑っちゃうじゃないか、とドブネズミくんは思った。
そんなだから柄にもなく、おせっかいをしたくなってしまったんだな。
いや違う、それは半分くらいの理由ではあるが、もう一つ。
自分だって何かを探したくなったんだろう。
二人が目を覚ますと、外は明るくなっていたが少し肌寒い。
夜に冷たい風でも吹いたのだろうか。
「イヌくん、少し外を見てみよう。」
ドブネズミくんを頭の上に乗せ、イヌくんは昨日約束した桜の木に会いに行くため、昨日の道をたどった。
肌寒い理由はすぐに分かった。
雨が降ったのだ、それも強い雨が。
「ドブネズミくん。」
「どうしたんだい、イヌくん。」
「昨日の場所に行くの少し急ごうと思う。スピードを上げても大丈夫かな?」
「急いでも、あまり意味はないよ。」
「そうだと思う、でも、僕は見送ってもらうと約束をしたから。ちゃんと見送られる義務と責任がある。君は昨日そう言っただろ?」
ドブネズミくんはしっかりと、イヌくんの頭のてっぺんにしがみつく。
サービスだよ、そうドブネズミくんは前置きして「全力で飛ばしていくといい。」と言った。
「申し訳ありません。せっかく来ていただいたというのに。」
力なくそう言う桜の木には、昨日までの美しい花びらがなくなっていた。
雨により、せっかく咲いた花が散ってしまったのだ。
「あなた方の大事な旅立ちをお祝いさせていただくはずが、このような形となってしまい、どうお詫びすればよいのか…」
「いいえ」
イヌくんは桜の木に近づきながら言う。
「どんな形であっても、あなたが僕らを見送ってくれると言ってくれたこと、嬉しいと思っています。とても、ありがたかったです。」
「そうおっしゃっていただけて、私の方こそ感謝いたします。私が最後に見送る旅立ちがあなた方でよかった。」
「はい。ちゃんと見送ってもらいます。」
その言葉で桜の木は満足することができた。
「ありがとう。私は、私の役割を最後まで全うさせてもらうことができました。」
もちろん、満開の花びらで二人を見送れなかったことは桜の木にとって心残りだ。
それでも、自分の役割を最後まで務めさせてもらえるということが、彼を満足させた。
「花びらを舞わせ、お見送りすることはかないませんが、どうかあなた方の探し物が見つかりますように。」
「ありがとうございます。」
「精いっぱいの見送り、感謝します。」
そのとき、優しく暖かい風が、春の風が吹く。
それはふわっとしていて、とても爽やかで、気持ちの良い風だった。
そして、その風は散ってしまった花びらを美しく舞い上げる。
桜の花びらは、イヌくんたちの進む道を示すようにそこへ流れていった。
それは間違いなく、満開となった桜の桜吹雪。
「行こう、イヌくん」ドブネズミくんは旅立ちを促す。
イヌくんは、桜の木に言った。
「満開の桜、受け取りました。行ってきます。」
「行ってらっしゃい。どうか良い旅を。」
振り返らず、イヌくんは春風の中を桜の花びらとともに駆け抜けていく。
「そっか、あの人の人生は、命の意味は、役割を果たすことだったんだ・・・」
「そうだね、そしてそれを表す言葉がある。」
ドブネズミくんは、サービスだよと前置きしてその言葉を教えた。
「自分が納得できる役割を全うして生きること、それを誇りと呼ぶのさ。」
こうして一つの季節が終わった。
そして次の季節が始まる。