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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約破棄はあの世で断罪される

作者: 鈴木日万利


「伯爵令嬢クレアを毒殺しようとした罪、例え私の婚約者としても許されぬ。婚約を破棄する!」


 昔々のことです。王侯貴族の子息令嬢が集まる由緒正しい学園の卒業パーティーで、王太子アントニーの威厳ある声が響きました。アントニーが自分の婚約者である公爵令嬢ユリジェーヌに婚約破棄を突きつけたのでした。


 ユリジェーヌは同級生であるクレアを嫌がらせの上に毒殺しようとした疑いがあり、正義感に溢れたアントニーは悪辣(あくらつ)なユリジェーヌをついに断罪したのです。


「アントニーさま……」


 アントニーの傍から可憐な声が聞こえました。学園で最も同情を集めている少女、伯爵令嬢クレアです。

クレアは心配そうにアントニーを見上げて震えていました。クレアのグリーンの瞳が揺れているのを見て、アントニーはクレアを抱く左腕に力を込めます。


 こんなにも弱々しく頼りないクレアを殺そうとしたユリジェーヌを許せない。許してはいけない。


 アントニーは自分にそう言い聞かせると、目の前に立つ公爵令嬢ユリジェーヌを睨みつけました。


 一方の公爵令嬢ユリジェーヌはいつもの氷のような表情を崩していませんでした。アントニーはそれを忌々しく思いました。

 アントニーの言葉にも眉一つ動かさない。心が氷でできているのだろう、と。


「申し開きはないのか?」


 アントニーの問いに、ユリジェーヌは僅かに口角を上げました。普通なら微笑と言えるその表情は、ユリジェーヌがすると相手を侮蔑(ぶべつ)するような酷薄(こくはく)な笑みになります。その笑みと同じように氷のような声でユリジェーヌが答えました。


「ございません。すべて殿下の御心のままに」


 ユリジェーヌはとても慇懃(いんぎん)な態度で頭を下げました。

 言い訳を一切しないユリジェーヌに、アントニーはますます不愉快な思いがしました。声高に騒ぎ立てたアントニーに対する当てつけのように見えたからです。


 それにアントニーは身勝手なことにユリジェーヌのその態度に『裏切られた』と感じました。


 アントニーは、心のどこかでユリジェーヌが毒殺を企てることなどできないと希望を持って考えていました。

 いくら冷酷な心を持って悪魔のような冷たい微笑みしかできなくても、誤解されやすいだけでユリジェーヌはそんな人間ではないと信じていました。


 しかし、ユリジェーヌは反論しなかったのです。そうであれば、これまでの悪行は全て真実だったのでしょう。氷の女王と揶揄(やゆ)されてきたユリジェーヌを庇っていたアントニーは途方もない阿呆だったのです。


「衛兵、ユリジェーヌを連れて行け」


 ユリジェーヌの姿を見ていることが耐えられないアントニーは、衛兵にユリジェーヌを連行させました。


 それが、アントニー国王が見たユリジェーヌの最後の姿でした。




―――



 公爵令嬢ユリジェーヌへの断罪と婚約破棄からすぐに、アントニーとクレアは結婚しました。毒殺未遂という悲劇から奇跡的に大団円(フィナーレ)を迎えたアントニーとクレアの結婚は、王国中から祝福されました。まるで、悪い魔女からお姫さまを救い出した王子の物語のように。


 やがて、婚約破棄騒動から40年が経ちました。

 国王となったアントニーの命の灯火が消えようとしていました。


「国王陛下!お気を確かに」


「お祖父様、目を開けてくださいませ……」


 アントニーのすっかり遠くなった耳に、悲しみの声が届きます。アントニーの子供たちや孫たちの声でした。


 アントニーは臨終の時を迎えていました。ですが、アントニーの心は穏やかでした。

 アントニーが死んだ後のことは侍従長に任せてありました。あらかじめ王太子や宰相、そして侍従長と相談して書いた遺言状に則り、速やかに新しい国王が誕生するだろう、と穏やかに考えていました。


 アントニーの凪のような心の内では、死の恐怖よりも死後の世界の期待に満ちていました。


 死後の世界―すなわち天国に行けば、亡きクレア王妃に再会できる。王妃を亡くしてからの20年間、政務に没頭しながらも、そのことばかりがアントニーの頭の隅にありました。


 クレア王妃とアントニーは恋愛結婚でした。それも、生まれた時からの婚約者である公爵令嬢ユリジェーヌとの婚約を破棄して結ばれた劇的な恋愛結婚でした。


 ユリジェーヌは気位の高い完璧な令嬢でしたが、人気者のクレアに嫉妬してクレアを毒殺しようとしたため、アントニーはユリジェーヌを断罪し、婚約破棄をしました。連れ去られる前の、ユリジェーヌの冷たい微笑みがアントニーの脳裏に浮かびました。


 ああ、どうしてあの憎いユリジェーヌのことを死ぬ直前になって思い出すのだろう。


 貴族に対する殺人未遂は重罪です。本来は死刑か監獄での終身刑が言い渡されるはずのユリジェーヌは慈悲深いクレアによって、辺境の修道院に送られました。

 そして一生を神に捧げました。いや、もしかしたらまだ生きているのかもしれません。どちらにせよアントニーは自分を裏切ったユリジェーヌの生死を決して知ろうとしませんでした。


「父上……!」


 息子である王太子が呼びかける声が聞こえました。ですが、寝台の近くにいるはずの王太子の声は遥か遠くに感じられました。


 クレアに会える時は近い、とアントニーは察しました。20年前に突然亡くなったクレアの学生の頃と変わらず美しい姿を思い出しました。一方のアントニーは20年の間ですっかり老け込んでしまいました。


 必死に引き留める周りの声も耳に届かず、アントニーは天国で若い姿になれるのか、そればかり気にかかりました。


 ついにアントニーは最後の力で息を思い切り吐きました。それから全く動かなくなりました。


 王宮付きの侍医がアントニーの細く枯れた腕を取り、脈を測りました。侍医は静かに首を横に振り、告げました。


「国王陛下が崩御(ほうぎょ)なされました……」




―――



 アントニーの視界は一転して真っ白になりました。不純なものが一切ない白さでした。それと同時に体の感覚が消えて、自分自身の存在が朧気(おぼろげ)になっていきました。


「アントニー様、おはようございます」


 アントニーの耳に若い女性の声が聞こえました。いつか聞いたことのある懐かしい声でした。

アントニーは一番に会いたい人の名を口にしました。


「クレアか……?」


 ですが、アントニーの目の前にいたのはクレアではありませんでした。白銀の髪に見ている方が凍えるようなアイスブルーの瞳。高慢(こうまん)そうな細く高い鼻をした冷たい美貌の令嬢。


 公爵令嬢ユリジェーヌでした。


「ユリジェーヌ、どうしてお前がここに……?

ここは天国ではないのか?」


 ユリジェーヌはその薄い唇を結び、冷たく微笑みました。


「仰る通り、ここは天国ではありません」


「では、」

地獄か、と続けようとしたアントニーの言葉は発せられませんでした。余りにも恐ろしかったからです。

しかし、アントニーの心を読んだかのようにユリジェーヌは答えました。


「いいえ。地獄でもありません。

ここは死後の世界、地獄と天国のはざまです。

死者はみな、ここを通ることになっています」


「ここが死者の世界なのか。なら、ユリジェーヌも死者なのか?」


「いいえ。私は神に仕える者。死者を導く役目のためにここにいます」


 ユリジェーヌはそう言うと、羽をはためかせました。白く大きな羽が背中から生えています。それはどうみても、教会の天井に描かれている天使と同じでした。


 あの殺人未遂を犯したはずのユリジェーヌが天使になるはずがありません。

 命を粗末にする人間が天国で暮らせるはずがありません。

 しかし、ユリジェーヌは御使(みつかい)と同じ羽を持っています。目の前の光景が信じられずにアントニーはユリジェーヌに分かりきっていることを尋ねました。


「ユリジェーヌは、天使なのか?」


「はい。私は死んだ後に天使になりました。今はユリエルと名乗っています。

さあ、もう時間がありません。急ぎましょう」


「急ぐってどこへ?」


 ユリジェーヌ―いや、ユリエルがアントニーの手を取り立ち上がりました。アントニーはここで自分が若いころの姿に変化していることに気が付きました。体が軽く、どこまでも走れそうで、実際にユリエルに促されるままに駆け出していました。


 ユリエルは振り返らず、一拍遅れて冷たい声でアントニーの問いに答えました。


「裁判所です」


 裁判と聞いて、アントニーは底知れない不安を覚えました。何も悪い事はしていないはずなのに。




―――



 ユリエルに連れられてアントニーがやってきた裁判所と呼ばれる場所は、現世の裁判所と似ても似つきませんでした。

 真っ白な何もない空間に巨大な門だけが浮かんでいます。門にはアントニーが見たこともない複雑な模様が描かれていました。


「あれは魂の門です。判決を受けた魂が門をくぐります」


「門はどこに続いているんだ?」


 アントニーが尋ねると、ユリエルは静かに答えました。


「判決によって行先が変わります。天国か、地獄か、もしくは……」


 ユリエルの説明は最後まで終わらず、荘厳(そうごん)な鐘の音によって遮られました。鐘が鳴り終わると、門の前に白い裁判服を着た人物が突如(とつじょ)として現れました。


開廷(かいてい)、開廷!これより魂の裁判を始める」


 中央にいた裁判官が高らかに宣言しました。動揺したアントニーが慌てて右に左に周りを見渡すと、どこから来たのか見当もつかないくらい大勢の人影に囲まれていました。

 白い羽を持った天使が右側に、黒い翼を持った悪魔が左側に忽然と現れて、アントニーを見つめています。ユリエルは物音を立てずアントニーの側を離れて右側の天使たちの傍聴席らしき場所に納まっていました。


「一体どうなっているんだ……」


 アントニーの疑問を他所に、裁判官が前口上を読み上げました。生前はアントニーの意向が無視されることなどなく、細かい独り言でも侍従長達がすかさず拾い上げていました。しかし、ここではアントニーに配慮する者などいません。死後の世界だからです。


「本裁判の裁判官は私、アドラーが担当する。被告人はアントニー。嫌疑(けんぎ)は『怠惰(たいだ)』の罪である」


「なんだって?」


 アントニーは思わず声を発しました。裁判長が読み上げた罪状が信じられなかったからです。アントニーは精力的に国のために働きました。なのに、どうして『怠惰』の罪で裁かれるのでしょうか?


「被告人、発言があるのなら挙手をしなさい」


 アントニーが素直に挙手をすると、発言を許可されました。


「どうして私の罪が『怠惰』なのでしょうか。私は国王として身を粉にして国を治めてきました。『怠惰』な人生を送ってきたとは思いません」


「なるほど。確かに被告人は勤勉に働いてきた。それは理解している。

 だが、この裁判では人生において最も重い過ちを対象とするのだ。そして、その罪状は七つの大罪に区分される。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰の7つだ。


 被告人が犯した最も重い過ちは瑕疵のない婚約者を一方的な証言を信じて断罪し、婚約破棄をしたこと。その罪状は『怠惰』である。

 他に質問は?」


「婚約破棄が過ち……?」


 信じがたい裁判長の言葉に対して、不満とも疑問ともつかない声がアントニーから溢れました。裁判長に鋭く睨まれると、真面目なアントニーは再び挙手をして、許可を得てから発言しました。


「この裁判を終えた後、私はこれからどうなるのでしょうか。妻であるクレアには……会えるのでしょうか」


「裁判で確定した罪に応じて行き先が決定される。

 無罪となれば天国に、重罪であれば地獄に、軽微であれば煉獄に行く。

 だが、被告人の妻、クレアにはもうすぐ会うことになるだろう。本裁判の重要参考人であるから」


 淀みない裁判長の回答をアントニーは頭を最大限に働かせて理解しようとしました。しかし、結局はクレアにすぐに会えるという一点のみが頭に残りました。


「クレアに会えるんですか!?」


 期待感のままにアントニーは声を上げました。しかし、裁判長はアントニーを無視しました。許可された発言ではなかったからです。更に傍聴席から忍び笑いが聞こえてきました。悪魔が座っている左側からでした。


「証人、クレアを召喚する」


 裁判長が呼ぶとアントニーの左斜め前が赤黒くゆがみ、やがて人型を取りました。アントニーにとって愛しい妻が現れた、はずでした。

 

 しかし、アントニーは一瞬それが妻だとは認識できませんでした。


 クレアの姿が生前から、かけ離れていたからです。


 歳を取っても長く豊かだったはずのピンクの髪が短く刈り上げられていました。女性らしい体つきはすっかりしなびて、死ぬ直前のアントニー以上に枯れ木のよう。

 グリーンの目はうつろで、不機嫌な(ねずみ)のように辺りを伺っています。雑巾のように薄汚いぼろの服を身に(まと)い、手足には鎖が繋がれていました。


 明るく、優しく、年を重ねても可愛らしかったクレアの姿とはまるで違います。

 アントニーは今のクレアの姿が、牢獄(ろうごく)に繋がれている重罪人にしか見えませんでした。


「本当にクレアなのか……?」


「被告人、今のは質問ですか?」


「なあ、この女はクレアなのか?クレアならなぜこうなった?どうしてクレアが鎖に繋がれているのだ。これではまるで罪人ではないか」


「挙手はしていないが、質問と認めよう。

 被告人の妻、クレアは重罪人であるために地獄行きとなった。罪状は『嫉妬』余罪として『傲慢、強欲、色欲』がある」


「どうしてクレアが重罪人なんだ!」


「それは『嫉妬』により罪なき人々を死に追いやったからである。そして、被告人はクレアの罪に加担した疑いがある」


「なんだって?!」


 アントニーは混乱しました。生前に断罪したはずのユリジェーヌは神に仕える天使になり、可哀想な被害者のクレアは大罪人として地獄に()ちていたのです。


 現世とはそっくり真逆の立場に入れ替わっています。


 これが魂の裁判の結果であるなら、とんでもない過ちを犯していたのではないかと、猛烈な不安がアントニーを襲いました。


「それでは、証人の証言を始めよう。

証人クレア、前に出て話しなさい」


クレアは不快な鎖の音を立てながら、アントニーの前に立ちました。


「久しぶりね、アントニー。

アナタはアタシが死んでからの20年間も余生を楽しんできたのでしょう。ズルいわよ。アタシの方が長生きする予定だったのに。

でもこれからはずっと一緒だから、ね」


 クレアはネッチョリとベタつくように下卑(げび)た様子で話しかけてきました。現世の優しさや可憐さは微塵(みじん)も残っていません。アントニーは恐ろしくなりました。地獄の厳しさは、こうも人を変えてしまうのでしょうか。アントニーは地獄に堕ちたくないと思いました。


「証人、早く証言を始めなさい」


「わかったわよ」


不貞腐(ふてくさ)れたように裁判長へクレアは答えました。それから意味ありげにアントニーに口の片端だけを上げて笑いました。


「アントニーはバカよ。知りたい事しか知ろうとしないし、聞きたい事しか耳に入らない愚か者。

私の言うことをぜーんぶ信じちゃうんだから。アントニーの愚かさをたっぷり聞かせてあげるわ。


まず、私が伯爵の生き別れの娘というのは、嘘。

同じ孤児院だった本当の伯爵の娘を(だま)して、成り代わったの。伯爵とかいうのもバカね。小娘の言うことを簡単に信じるのだから。これが全ての始まりだった」


「証人、婚約破棄について貴女がしたことを話しなさい」


「もう、うるさいわね。好きに話させてちょうだい。


 伯爵を騙して、伯爵令嬢になったのは良かった。

 だけど、貴族って見た目ほど優雅じゃないのね。アレしてはダメ、コレしてはダメ。何をするにしてもうるさかったし、欲しいものが全部手に入る訳でもなかった。


 何より気に食わないのは、伯爵は貴族の中でも真ん中の位だってこと。貴族になっても頭を下げなきゃならなかった。

 社交界のルールですって、冗談じゃないわ。世界で一番可愛くて賢い私が、生まれによる序列だけで差別されなきゃいけないのよ。まぁ、年老いた男爵からペコペコされるのは悪い気はしなかったわ。


 そんな不満だらけの時に、ユリジェーヌと知り合ったの。ユリジェーヌは公爵令嬢という貴族の最高の地位にいて、おまけに王太子の婚約者で、将来の王妃。こんなに恵まれた人間がいるなんてズルいじゃない。私はただの伯爵令嬢だっていうのに。


 ユリジェーヌは何でも持っているんだから、一つくらい貰ってもいい。そう思って、私はまず最初にユリジェーヌの寮の部屋で一番目立たないブローチを貰ったの。そうしたら、次の日にはユリジェーヌは母親の形見だから返してって言ってきた。だから私は大勢のいる前で泣いたわ。『いくら公爵令嬢様だからって下々の者から宝物を奪うなんてあんまりですわっ』って。

 そうしたら、面白いくらいに周りが味方してくれて、ユリジェーヌは諦めたのよ。


 奪われたくないくらい大事な物を盗まれるような所に置いておく方が悪いのよ。


 その後も、ユリジェーヌの物を次々と貰った。

お気に入りのぬいぐるみ、好きな本、幼い頃から一緒の侍女。


 侍女が私の物になったときは傑作だったわ!

 青い顔をして、『なぜ、なぜ』ってそれしか言わなくなっちゃったもの!

 ふふふ。思い出すだけでスカッとする。


 そして、最後にユリジェーヌから奪ったのがアントニーだった。


 アントニーはビックリするくらい簡単だった。侍女の方が張り合いがあったわよ。心を折られたユリジェーヌが抵抗しなかったから、なおさら簡単だった。


 もうその時にはユリジェーヌの評判は地に落ちていたから、私がちょっと泣けばすぐに信じた。

 ユリジェーヌの目の前で私が泣き出せばアントニーは勝手にユリジェーヌを批判した。

 ユリジェーヌとは長い付き合いだったのにね。ひどい男よねぇ、アントニーは。


 仕上げにユリジェーヌの侍女に毒薬入りの紅茶を持たせて、私に届けさせたの。

 そして、ユリジェーヌの侍女が持ってきたばかりの紅茶をアントニーの目の前で注いで飲んでみせたわ。倒れた私をアントニーは助けてくれたわね。


 そうしたら、まさか、卒業パーティーでユリジェーヌに婚約破棄を言い渡して捕まえるなんて!

 あー、最高に面白かったわ」


 クレアは顔を非対称にくしゃりと曲げて、粗野(そや)残忍(ざんにん)な高笑いを続けています。初めて聞くはずの甲高い声は、今のクレアにしっくりきていました。アントニーは目の前の事実を受け入れられず、足がガクガクと震えました。


「そ、そんな嘘だ。クレアが私を(だま)したというのか……?」


「あらやだ。本当に私の本性に気がついてなかったの?

なんて愚かなアントニー。良いことを教えてあげる。この裁判ではね、真実しか話せないのよ。

ふふふ。嘘を言おうとしても言葉にできないの!

試してあげましょうか。私がアナタに愛の言葉を(ささや)けるか!」


「私を騙したのだな……」


「騙したなんて人聞きの悪い。アナタが勝手に信じたんじゃない。


 アナタは全く疑いもしなかった。私の言うことを全部聞いて、素直に信じて、無実のユリジェーヌを断罪した。


 アナタの自業自得よ。疑うことを怠った。楽な方に身を任せた。その結果、アタシに罪を重ねさせたのよ!


 さあ、裁判長、この疑うことをしなかった愚かな大罪人に地獄行きの判決を!」


 クレアは高らかに笑った。後を追うように悪魔側の傍聴席からゲラゲラと笑い声が聞こえます。

 アントニーは立つ力も抜けて、うずくまってしまいました。


「静粛に、静粛に!証人は席に戻りなさい。

 さて、被告人、証人の証言に異議はあるかね?」


 裁判長に促されたものの、アントニーはうずくまったまま、ぶつぶつと呟くだけでした。


「知らない、知らなかったんだ。

 クレアが涙を流していたから可哀想だと思ったんだ。ユリジェーヌが無実だった、それどころか被害者だったなんて知らなかった……」


「反論は無いようだな。それでは、被告人を弁護する者はおるかね?ーいないな。

 わかった。では、判決を言い渡そう。被告人アントニーは」


「お待ちください!発言の許可をお願いします!」


 流れ作業のように判決を言い渡そうとした裁判長を(さえぎ)る声が右の天使側の傍聴席から聞こえました。


 手を挙げていたのは、ユリエルでした。


「天使ユリエル、発言を許可する」


「ありがとうございます。私、ユリエルは被告人アントニーを弁護します」


「なんと、本件の被害者であるユリエルが弁護すると言うのか」


 裁判長の声に動揺(どうよう)が走りました。傍聴席の天使も悪魔もざわめき、前例がないと口々にしていた。


「はい。私の立場から申し上げますと、被告人には情状(じょうじょう)酌量(しゃくりょう)の余地がございます。


 被告人は証人の言葉を鵜呑(うの)みにしていた訳ではありません。それは、被告人と証人が結婚した後、証人の暴虐(ぼうぎゃく)が最小限に抑えられたことからも明らかです。証人の暴虐は国政に関わらない範囲に限られていました。


 ですから、もし被告人が盲目的に証人の願いを全て実現していたら、散財されて国が傾いていたでしょう。

 しかし、現実は堅実に国を治め、国の財産は増えました。

 したがって、被告人が証人の言葉全てを信じる盲目的な人間とは考えられません。被告人が一方的に婚約破棄を言い渡したのには、理由があります。


 その理由は、私です。私が原因なのです。被告人は当時の婚約者であった私を信じられなかったから、婚約を破棄したのです」


「ハッ、でたよ偽善者(ぎぜんしゃ)

アンタは昔から良い子ちゃんぶって、腹が立つわねぇ。アンタを信じなかったアントニーが悪いに決まってる!」


「証人は静粛(せいしゅく)に。

弁護人ユリエル、追加の発言を許可する」


「ありがとうございます。

 当時の私は、自惚れていました。婚約者なのだから言わなくても信じてもらえると。そのために、アントニー様に(ろく)な弁解もせず、ただ嵐が過ぎ去るのを待っていたのです。

 何も言い返さない私をアントニー様が疑うのは当然でした。


 信頼を先に損ねたのは私です。

 言わなくても信じてもらえると傲慢に考えていた私です。

 アントニー様を罰するなら私も罰してください。アントニー様の地獄行きを再考してくださるのであれば、私は天使ではなくなっても構いません」


「今度は悲劇のヒロインぶるつもり?


 そんな事してもアントニーがアンタを捨てた結果は変わらないんだよ。

 アンタだって本当は分かっているでしょ?


 こんな事したってアントニーがアンタを選ぶことはない。アンタはただ、自分の体面のためにアントニーを助けるフリをしているだけよ。この偽善者!」


「証人!発言は挙手してから行うように!」


 裁判長は再び勝手に話し出したクレアを叱責(しっせき)しましたが、クレアは全く悪びれていませんでした。むしろ、ニヤニヤとした下卑た笑みと蛇のように鋭い視線をユリエルに投げつけていました。


 ユリエルは怯む事なく冷静に挙手し、裁判長の許可を得て発言しました。


「クレアさんの言う通り私の行動は偽善です。

 私はアントニー様が地獄に堕ちる所を見たくないのです。想像するだけで胸が張り裂けそうになります。


 天使は全人類を平等に愛せねばならないのに、私はアントニー様を未だに愛しています。天使として失格です。


 どうか、私を罰してください。

 そして、傲慢な私に失望した結果、婚約破棄をしたアントニー様に情状(じょうじょう)酌量(しゃくりょう)を」


 ユリエルは頭を下げました。綺麗な貴族流のカーテシーでした。

 ユリエルの表情は生前と変わらず冷たいままでしたが、彼女の声は切々とアントニーに訴えかけていました。


 自分は一体何を見ていたのだろうか。


 アントニーはようやく自分の間違いに思い至りました。元婚約者の冷たい微笑みを見て、心まで冷たいと思い込んでいました。しかし、実際は笑うのが苦手で自分を偽れない不器用な令嬢がそこにいました。

 元婚約者の本当の姿に気が付いたのです。


 アントニーはとうとう自分の罪を自覚しました。自分が取るべき次の行動が分かったアントニーは挙手しました。


「被告人、発言を許可する」


「ありがとうございます。

 私は全ての罪を認めます。真に私を愛する者を疑いもせず(おとし)め、クレアの重罪に手を貸したことを認めます。

ですから私は地獄行きを希望します」


「それでこそ、アントニーよ!私たちずっと一緒ね」


 両手両足に鎖が繋がれているとは思えないほどの速さでクレアはアントニーに駆け寄り、抱きつきました。20年ぶりの最愛の妻は、腐った匂いがしました。

 右手に視線をやるとユリエルが泣きそうな顔をしていました。アントニーが初めて見る表情でした。


 すまない、ユリエル。私を忘れて幸せになってくれ。地獄行きこそが私ができる唯一の贖罪(しょくざい)だから。


 アントニーは心の中で謝ると、裁判長に向き合い判決を待ちました。


「被告人の意思はわかった。それでは判決を言い渡す」


 法廷が静まり返りました。アントニーは緊張で喉を鳴らしました。


「被告人アントニーの罪には情状酌量の余地があると認めた。被告人はユリエルと共に煉獄(れんごく)行きとする」


 判決にいち早く反応したのはクレアでした。


「なぁんですって!冗談じゃない。せっかくアントニーを地獄の道連れにしようとしたのに!」


 クレアは大声で(わめ)きましたが、すぐに姿が消えてしまいました。悪魔たちが用無しとなったクレアを引きずり、地獄へと続く穴に落としたからです。しばらくは、穴の奥底からもクレアの喚き声が聞こえてきましたが、やがて穴が塞がれるとそれも消えました。


 クレアの拘束から解放されたアントニーも判決が信じられませんでした。ユリエルを自分の道連れにするつもりはなかったからです。


「撤回してください!この罪は私だけのものだ」


「いいや、ユリエルを道連れにすることが被告人への最大の罰になる。

 ユリエルいや、ユリジェーヌと共に煉獄に行け。煉獄で罪を清められるか、重ねるかは被告人次第だ。

 さあ、魂の門が開く。ここをくぐり抜ければ煉獄に行けるぞ」


 後悔で呆然と立ち尽くすアントニーの側に、ユリジェーヌが近づきます。ユリジェーヌの背中から天使の羽が痛々しくも抜け落ちていました。申し訳なさから、ユリジェーヌと顔が合わせられず、アントニーは下を向きました。


「ユリジェーヌ、すまない。君を巻き込むつもりはなかった」


「違います。私が我儘(わがまま)を言ったんです。謝らないでアントニー様」


「様づけなんて、よしてくれ。私はそんな立派な人物じゃない」


 ユリジェーヌは、『では』と前置きして続けました。思えば、生前のアントニーはユリジェーヌに呼び捨てを許したことがありませんでした。


「アントニー、煉獄ってどんな場所か知ってますか?」


「知るわけない。でも、天国より心地よい場所なんてないだろう。君は天使でいた方が幸せになれたはずだ」


「そうかもしれません。

ですけど、アントニーのいない天国は空虚でした。だから天国に未練はありません。


 むしろアントニーと一緒にいられるなら、きっと煉獄だって天国より楽しいに決まっている、と思います」


 健気な、と表現するには少々重いユリジェーヌの言葉にアントニーは顔を上げました。


「君って、愛が重かったんだね」


「そうですよ。今気がついたんですか?」


「うん。君のことを全然知ろうとしなかったから……。私は酷い婚約者だった。これから少しずつ君のことを教えてくれ」


 ユリジェーヌは、微かに笑いました。アントニーは、ユリジェーヌの不器用な笑みが急に最高に可愛く思えました。

 アントニーからユリジェーヌの手を繋ぎます。ユリジェーヌの手は冷たいけれど、それは心の温度ではありません。死人だからです。


 アントニーとユリジェーヌは2人揃って魂の門をくぐりました。



―――



 門の先は何もありませんでした。ですから、2人は揃ってそのまま足を踏み外して頭から真っ逆さまに落ちました。頭の中が真っ白になり、意識を失いました。


 アントニーが目覚めると、知らない場所でした。

 灰色の天井が見えます。屋内だと言うのに、光が煌々(こうこう)として明るいのでした。ろうそくやランタンの火ではなく、まっすぐで揺らぐことのない強い光でした。


「こあっ」


 アントニーは『ここはどこだっ』と言おうとしましたが、言葉になりませんでした。体を起こすため腕を振り上げると小さな手のひらが見えました。産まれたての赤ん坊の手です。アントニーは赤ん坊に生まれ変わっていました。


 煉獄とは、現世のことだったのです。


 右隣からも声が聞こえました。首を向けると、声の持ち主と目が合いました。アイスブルーの瞳をした女の子。ユリジェーヌでしょうか。


 (わず)かな期待を込めてアントニーは名前を呼んでみます。

ですが、舌は回らず、単語を形作ることはありませんでした。


 それでも通じたのか、彼女からも反応が返ってきました。


 お互いに舌足らずでしたが、間違いなく名前を呼び合っていました。アントニーが手を伸ばすとユリジェーヌも手を伸ばしました。2人を隔てるガラス越しに手と手が繋がりました。


2人は今度こそは決して間違えないでしょう。たぶん。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 反省した者に救いを、反省しない者に罰をというわかりやすい点 しかしこれは勧善懲悪、仏教的で、この作品のモチーフであるキリスト教とは少し外れている様な気もする クレアが割と好きだ 死のうが…
[一言] 無能なゲロカス王子なんざ地獄で悪鬼共に玩弄されてりゃいいのに こんなチンカス以下の下痢便野郎がヒーロー扱いかよ
2021/05/26 12:15 退会済み
管理
[一言] とても素敵な物語をありがとうございました!
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