第九話「終焉の覚醒」
眉間に拳を食らい、視界が一瞬黒に染まる。俺はすかさず身を引いて、次の直撃を避けることに尽力した。奴の拳は速い。ぎりぎりと思った瞬間の後には、もう腹を貫くつもりの拳が背中を追い越して届いてくる。
奴が長い戦闘で疲弊しているとは言切れない。何しろ初期からヴァイスとしての殺しに専念してきたやつだ。たった一回のトーナメントで体力を使果たすわけはない。となると、またあの切札を使うしかないのか。
俺は至近距離銃を抜いて、一発見舞った。本来なら熊や牛を狩るための銃弾が、それより小さく薄い人間の肉をえぐり取った。
音政の胸が、血しぶきで赤い。
「武器か……武器か!」
口からも汚物を吐きながら、叫ぶ。
使ってしまった。もう一発しかない。
どんな強い奴が出てきても、その時の切札として使おうと思ったのに。どうやら相当恐怖感という毒が回ってきているらしい。
音政は後ずさりしながら、気合を込めて手から血を噴出し、その凝固から黒い刃を形成する。
鎌でなぎ払い、背後にあった標識を切断。
再び鎌が縮み、元の手に戻る。
音政が左腕を掲げると、その上を黒い岩のような皮膚が覆ってライフルのような銃を形成した。
そして俺に向かって弾を放った。俺はその一発を掴んだ。
同じ速さで投返した。
だが奴の身体に命中させる前に、音政の姿が消える。突如、俺の目の前に瞬間移動する。
だが俺はあっけにはとられなかった。奴の移動と空気の乱れを感じ取って、そのあごを思いきり叩き上げた。
俺の腕に、光の筋が走っていた。もうすぐ俺の秘められた力が危険な領域にまで覚醒している。人間の想像力では及びもつかないヴァイスとしての本能が暴れようとしている。下手をすると、人としての人格を失ってしまうかもしれない。そんな葛藤を嘲笑うように、時間は一刻と過ぎる。
「トーナメント終了まで、あと一時間」
いや、三十分ほどしかないだろう。あと一人が誰か知らないが、俺はこいつを早急に殺さなければならない。春原県など消えてなくなってしまえばよいのだ。俺がそんな街はこの手で破壊してやる。
しかしそんな雑念に囚われたせいか、肩の中を異物が走る。吐血。
「まだ、死なないのか」
音政は腕から長い爪を伸ばしつつ、おびえた声を出した。
無理な動きの連続で、骨と筋肉が耐えきれなさそうに痛む。俺は肩を抑えたくなる衝動に抗い、建物の壁際を這いながら奴の攻撃をうかがう。
「なぜ俺を殺さない? 俺はもうこれ以上人としての快楽を味わうことができない。もう、殺しにも飽きた。血のにおいも……」
まともに会話に付合う気になれない。もはや貴様は俺の師匠などではない。
「本物を見てしまったんだ。本当の人間の悪意にな。『地獄への道は善意で舗装されている』って言葉を知っているか? 俺たちの繁栄を支えているのは、あれだ」
それが何か、考える暇などなかった。
音政を殺すにはあの異形になるしかない。だが俺にはまだ、あれになるだけの力がない。
俺にはただ、素手で力を揮うしか能がない。
音政はあの人食いよりもずっと高い生命力を持っているに違いない。一瞬でも隙を見せれば俺はすぐ餌食になる。いや、異形になることに抵抗があるというべきか。
「つまらない御託はいい。なぜお前は、俺に引導を渡して死んでくれないんだ」
音政は、そう言われると、少し気色ばんだ声で、
「俺は自分で死ぬつもりはない。なぜお前はそうやって……」
腕を掲げた。その直後、腕が柱のように伸びて俺の真上、建物の壁を貫いた。
壁が崩れる直前に、俺はその位置から飛びのいた。疲労したとはいえ、まだ力は衰えていない。
いや、力が制御できていないのだ。
音政は伸びきった腕を振回して、俺が逃切る隙を見せまいとしている。俺は地べたを這いずり回り、それを一生懸命避けながら奴の元にまで近づこうとする。
俺は間直に迫った音政の拳を踏みつぶした。音政はひるむことすらなく、俺が踏んだ腕を切離して、また別の手を生やし、今度は巨大な肉の鎚を形成する。まるで皮膚でできるとはいえないほど、岩のように重々しい凶器。絶たれた腕は一瞬で煙を噴上げ、蒸発した。
音政はまるでそれを、手持ちの金槌程度でしかないように軽く振回している。
俺はわざと鎚の側に近づき、至近距離で叩きつけた瞬間に鎚を抱きしめた。
音政は俺が躱したことにも気づなず、また鎚を振上げた。
俺はちょうど真上で鎚から離れ、背後に回込んだ。
そしてその背後で脚を登らせ、奴の背後に強烈なキックを打ちこんだ。
「弱い……」
音政はごくか細い声で。
敵は、そこから全く吹き飛ばなかった。少なくとも年輪の太い木を折るほどの威力を出したと思っていたのに、奴の鍛え抜かれた筋肉はそれを動物の革をなめした程度の物にとどめてしまったのだ。
その次は、自分の拳を横に薙払う。
俺はついに吹飛ばされた。背後のフェンスにぶつかり、網を大きく歪め、俺の肉体は即興で雑にできたくぼみの中に納まる。
「やはりお前にも殺してもらえないか。せっかく俺が殺しを教えてやったというのに」
音政は勝ち誇るでもなく、ただ純粋に残念そうに嘆いている。
「強さとは何と不幸なことか。自分より弱い奴と対等に殺合えなくなるんだからな」
音政の嘆きで、なぜだか知らないが、俺はますます殺意を煽られた。
この衝撃だけでも、普通の人間ならすでに骨が折れている。にも関わらず音政の独言を聞いてる時点で、俺はもう体からの出血を止め、骨の傷も治していた。
いやそれどころではない。どんな猛者でもこれほど痛い目に遭続ければ戦う意思をなくしてしまうはずだ。痛みだって完全に忘れたわけではない。
だが、俺もヴァイスだ。もう人間としての負の感情が枯渇している。たとえどれほどこの戦いが虚しくても、傷つくのが嫌でも、俺はすでにその嫌悪感が何だったのか憶えていない。
「トーナメント終了まで、残り一時間」
息をつかせぬ死闘の連続で、時間がそんなに立っていたことすら忘れていた。
俺は無理をしてフェンスのくぼみから身を起こし、地面に立つ。
音政は俺が襲いかかってくるのを待っている様子だ。俺は横に歩くと、奴もその反対側へと歩出した。瞳を星のように光らせ、左手の指をナイフみたいにとがらせて出方を窺う。
俺にも同じことができるのだろう。
拳に力をこめて、そこから力が湧くのを急いでイメージする。
する皮膚が切裂かれるような痛みと共に、手のひらから剣がわいてきた。まるで本物の剣のように黒光りする短い剣だ。俺としては、武器を使って戦うのは趣味じゃない。猪や熊を狩る時も常に拳だけでとどめをさしていたのだから。
だが、悪くない。今はあの男の喉笛を切裂くことだけに集中しろ。
音政は顔をゆがめもせず、巨大なサーベルを出現させた。俺とは比べものにならない殺意だ。この殺意があるからこそ痛みに耐えられる。耐えられるどころではない。痛みを卒業してしまったのだ。
ふたたび、あの圧が心の中に忍び寄ってきた。早くこの戦いを終わらせろと。
正体不明の誰かが、俺たちを誘っている。




