第九十二話 不可視の侵入者
理由。
理由、理由、理由、理由。
人が何事かを成す時、そこには多くの場合、理由があるはずだ。
もちろん、気まぐれや無意味な行動・行為があるのは俺も知っている。
だが、『理由』から出発する目的も、明確に存在する。
俺がこの世界で命をかけようと思えるのは、ふたりの血の繋がった家族と、ひとりの血の繋がらない家族。その三人のためだけだ。
その三人だけが俺の特別で、その三人のためなら、地獄に堕ちたって構わない。
でも、もうひとつ。
もうひとつ、目標が出来た。
云うまでもなく、たった今、目の前で天に昇ったあの子。
その、手向けだ。
家族に対しては『守護』を。
そして、失われた雪精のためには、『報い』を。
騒動の原因となった女を捜し出して、仇を討ってやろうと、そう決めた。
しかし、今はまだ、ダメだ。
俺は弱くて、知識がなくて、経験もない。出来ないことが、多すぎる。
それでは、家族を危険にさらす。
だから、急がない。
しっかりと強くなって、ゆとりある状態でやってやろう。
けれど、違えてはいけないことがある。
第一に優先すべきは、家族だと云うことだ。
天秤にかける場合は、迷わず家族を選ばなくてはだめだ。
これだけは、絶対。
報復のためにフィーを危ない目に遭わせることだけは、死んでもしない。
死んでもしないと云えば、雪精の仇であってもなくても、『差し違えても倒す』だとかの考えも、抱いてはいけない。
我が身可愛さというのも、もちろんあるが、俺に何かがあれば、フィーをひとりにしてしまう。
そうなれば、笑顔の似合うあの子は、ずっと泣き続けるだろう。
そんな思いをさせてはならない。
俺の人生は、あの子を幸せにしてあげる為にあるのだから。
仇討ちであっても、前向きに行こう。そちらの方が、俺らしいだろう。
そう誓い、そう考え、消えた雪精を見送ってやると、可愛いエルフの先生が、俺の頭を撫でてくれた。
「……ん。いい顔になった」
まるでこちらの心底でも読んだかのような、優しい無表情。
このお人も何気に、俺のことをよく見ていると思う。
些細な変化や、機微に敏いと感じることが多い。
「にーた……」
最愛の妹様が、静かに身体をすり寄せてくる。
いつもの甘える感じとは少し違うので、俺を慰めてくれているのかもしれない。優しい娘だ。
お返しに綺麗な銀髪を撫でてやると、フィーは嬉しそうに眼を細めた。
(それにしても……)
冷静さを取り戻せた俺は、周囲を見渡す余裕が出てくる。
半ば生物化していた薄気味悪いホール内は、目に見えて正常に戻りつつある。
まだ一部は気色が悪いが、それが癒されるのは、時間の問題であろう。
これも、あの雪精のおかげだ。
魔石の汚染を取り除き、正常化すると云うことは、熱線の放出もなくなると云うことだろう。
エニネーヴェの命も救えたのだし、ここへ来た目的は、これで果たされたと云うことなのだろうか?
「…………」
俺が確認するようにお師匠様を見ると、エルフの先生は俺とフィーを壁際に移動させ、目の前の地面にコアへの干渉で使ったロッドを突き刺した。
「エイベル?」
「……私が良いと云うまで、そこから動いては、いけない」
云い終わると同時に、ロッドを中心とした魔壁が展開される。
一瞬で作り上げられたそれは、しかし念の入った頑健な防壁であった。
瞬間的に発生したのは彼女の技量が図抜けているからで、決して手抜きではない。
他方、雪精の騎士はホールの入り口前に氷壁を作り出し、出入り口を塞いでいた。
この場には、他に出入りできる場所はない。
つまり、この空間は密閉されたことになる。
「何故、こんなことを……?」
俺が首を傾げると、妹様はぴょんと飛び跳ねて首に抱きつき、耳打ちをしてくる。
「にーた。あそこに、だれかいる」
「えぇッ!?」
思わず、声をあげてしまった。
フィーが示した場所には何もない。
寒々とした壁があるだけだ。
マイエンジェルは小声で続ける。
「にーたが、りりしいおかおになったあたりで、とーめーなひとがはいってきた」
「……!」
俺は身をこわばらせた。
フィーはこういう場合、くだらない冗談を云わないし、俺はこの娘を信じている。
だから疑わない。きっと、事実だ。
「見える……、いや、分かるのか、フィー」
「うん。ふぃー、たましい、わかる」
ああ、そうか。
この娘には、それがあるんだったな。
魂命術とは、魂に干渉する術であって、本来は魂を見るものではない――らしい。
しかし魂命術を覚えて以来、フィーはそれが出来るようになったようだ。
ズバ抜けた適性が、それを可能にしているのだと、エイベルは俺に教えてくれた。
そして防壁を作り出した以上、うちの先生も、その『不審者』に気付いていることになる。
あちらは魔力感知の結果だろうか?
探知魔術と云う線もあるが。
(それにしても、透明な人とは……)
俺には何も見えない。
しかし、妹様やエイベルの行動が間違っているとも思えないので、実際に何かが『いる』はずだ。
じゃあ、何が『いる』のか?
可能性から察するに、『敵』だろう。
でなければ、エイベルが警戒するはずがない。
どんな手段で透明化しているのかは知らないが、まさか単なる見物や、尾行が趣味の暇人と云う訳もあるまい。
考えるに、蜥人たちの監視役であったのではないだろうか。
フィーは「入ってきた」と云った。
ならば、ある程度の距離を取って監視していたのだろうな。
そして、シェレグが出入り口を塞いだと云うことは……。
俺はマイシスターをしっかりと抱きしめた。
魔壁がある以上、ここはホール内においては、一番安全であるに違いない。
だが、それはそれとして、身体が妹を庇ってしまう。
「ふぁあああ! に、にーたああああ! ふぃー、ふぃーにーたに、だっこされてる! ふぃー、にーたすき! もっとぎゅーってして?」
不審者が間近にやって来ていると云うのに、この娘は俺にだっこされたことが嬉しいのか、とろけるような笑顔を浮かべた。
危機感がないと云うよりも、吹っ飛んでしまうんだろうな。
一瞬、抱きしめない方が良いのかなとも思ったが、何があるか分からない。
自分の身を盾に出来る状態にしておいた方が良いだろうと結論付けた。
だから抱擁は続行する。
(端から見れば、さぞや緊張感のない兄妹に見えることだろうよ)
フィーを守ることに関しては、大まじめなんだがな。
そんな俺たちを他所に、エイベルは透明の存在に、厳かに告げた。
「……警告する。ただちに韜晦をやめて、姿を現すよう。さもなければ、攻撃する」
ホール内に響く、無機質だが綺麗な声。
それに反応するかのように、何も見えない空間が、かすかに撓んだように見えた。




