第九十一話 ありがとう
「やー、ありがとう!」
戻って来た雪精の幼体に、俺は感謝の言葉を述べた。
しかし、すぐに違和感を覚える。
俺がおやつにと作った氷の塊は、八割以上、残っていたのだ。
(食いしん坊のこいつが、珍しいな……?)
大喜びで食べきって、もっともっととせがんでくると思ったが、飛びついてすら来ない。
見ると、ちいさな雪精は、氷の上で潰れていた。
あのまんまるの身体が、半分しぼんだ風船のように。
雪の色にも、艶がなかった。
動くことすら困難なのか、ほんのわずか、震えるだけで。
「ミ……」
耳に届いた泣き声は本当にちいさくて。
俺は危うく、聞き逃すところだった。
「お、おい! ずいぶん弱ってるじゃないか!」
俺は幼体に駆け寄って冷風をかけてやる。
けれど俺の魔力は空回りをするばかり。
一切、食べていないのは明らかだった。
「エイベル! シェレグ! こいつの……ッ! こいつの様子が……ッ!」
俺が慌てて振り返っても、ふたりの表情に変化はなかった。
まるで、何が起きているのかを、知っていたみたいに。
「エイベル!」
もう一度名前を呼ぶと、エルフの少女は無表情のままで呟いた。
「……その雪精は、命数を使い切った」
「――は?」
命数?
意味が分からなかった。
産まれたばかりのこいつが。
あんなに元気いっぱいだったこいつが、どうして寿命などと云うことばと結びつくのか。
「その者はな、魔石に命を捧げたのよ」
淡々とシェレグが云う。
魔石?
魔石って、地下のコアのことか?
俺の脳裏に、巨大化して浄化を始めた雪精の姿が思い浮かんだ。
「あれは一種の奇跡だ。汚染された魔石を元に戻すなど、本来は不可能だ。その者は、それを成した。己という、対価を支払ってな」
「――ッ!」
目の前が真っ暗になった。
だが、俺がエイベルの魔力を使っても無理だったことを、確かにやっていた。
そのことに、対価が必要だったなんて、俺は気付きもしなかった。
「こいつは……それを知ってたのか……?」
かすれた声で尋ねると、雪精の騎士は、しっかりと頷いた。
「当然であろう。その方も見たはずだ。穴の奥へ向かう時の、誇らしげな姿を。迷いのない鳴き声を。その者は、己の運命を分かっていて、事を成したのだ」
「そんな……」
あの姿は。
あの声は。
こうなることを、分かって……?
「…………」
俺は幼い雪精を見た。
命の尽きた幼体は、それでも俺に近寄ろうとしているようだった。
「ああああ……! ごめん、ごめんな……! 俺、お前に、何も気付いてやれなかった……!」
「ミ……」
声に反応するように、崩れかけの雪精は、かすかに鳴いた。
その声に責めるような気配はない。
寧ろ、俺を気遣っていてくれているような感じだ。
「……アル」
エイベルが俺の身体に手を添えた。
「……謝るのではなく、褒めてあげて」
「…………」
俺は雪精に指で触れてみた。
既に、冷たくも何ともない。
魔力を通じて内面を覗いてみると、もう何もかもがボロボロだった。
こいつの核は壊れていないのに、消えた電球のように、生命の灯火が感じられない。
半分溶解していたエニネーヴェのコアの方が、まだ健康的とすら思える有様だった。
俺の魔術適性は、魔力の根源に干渉するものであって、生命を蘇らせるものではない。
壊れている魔力体なら治せもするが、失われた生命は、もうこの世に戻せない。
「よく……頑張ってくれたな」
「ミ……」
雪精は、俺の指に身体を擦り付けた。
それだけで、ちいさな身体は崩れ始めた。
「ああ、そうか。そういうことか。ようやく得心したぞ。その幼体は――少年。その方のことが、好きだったのだな」
好き……?
俺に懐いていたのは、餌が欲しいからじゃなく、もっと純粋な気持ちだったのか?
そして、雪精の身体は完全に失われた。
消えて行く刹那、魔力で繋がっていたからか、幼体の感情が流れ込んできた。
――ありがとう。
俺の胸には、確かにその言葉が響いた。
「何で礼を云うんだよ……」
それは俺のセリフだろう?
魔石を汚染から守ってくれたのは、お前じゃないか。
俺は助けてあげることも出来なかったし、その気持ちに気付いてあげることすら。
「……多分、楽しかった」
エイベルが、俺の頭を撫でる。
「……あの雪精は、アルといて、楽しかったのだと思う。そして、幸せだった」
「…………」
「……だから、アルもちゃんと送ってあげて?」
エイベルは、俺に、俺自身が云うべき大切な言葉を示してくれた。
それは、彼女なりの優しさなのだろう。
魔石の補修作業を始める時、彼女は俺に云った。
浄化は出来る? と。
もしも俺に独力で魔石を戻せる力があれば、きっとあの子は、消えずに済んだ。
けれど、エイベルも、そしてあの雪精も。
俺を責めることは、ついになかった。
だから、もう「ごめん」と云ってはいけないのだろう。
もっと別の大切な言葉で送ってあげなくてはならない。
贈るのは、同じ言葉。
最後に伝わったのと、同じ言葉だ。
「ありがとう」
きみに会えて、良かったよ。




