第八十六話 雪景色
それは、我ら『雪』の見た景色――。
高貴なる方が、園に幼い兄妹を連れてきた。
我とレァーダは、そのことに驚き、顔を見合わせたのを覚えている。
園は危地にあった。
突如として冷風の代わりに熱線が吹き出るようになり、このままでは大地そのものが溶けて消えゆくやもしれぬとなれば、動揺するのも無理からぬことであろう。
我らに出来る範囲での調査では、原因不明。
そして、解決のための方策も不明瞭であった。
出来ることと云えば、伝手を通して、外部に救援を求めることくらい。
未曾有の窮地なれば、精霊王様直属の高位精霊が動くやもと考えたが、来訪されたのは、我らが王よりも、ずっと尊き御方であった。
古の精霊王様との約定により招聘に成功したのだと、総族長は語った。
圧倒的高位者。
そして絶対的強者であるそのエルフの高祖は、一目で騒動の原因を看破され、我らに告げられた。
しかし、世の中には『分かっていても、どうにも出来ぬ』と云う物事があるのも事実だ。
大陸を成す核に良くないものが取り憑いたと云われても、対処のしようがない。
まさか大地そのものを切り裂いて核へ至るわけにも行かぬし、そもそも、そんなことは不可能だ。
悲嘆に暮れる我らに、その尊き御方は、こう云われた。
「……一応の当てはある。私の弟子なら、対処できると思う」
稀世の賢人たる高祖様がそう仰られたのだ。
我らが大いに安堵したのは、云うまでもない。
しかし、何人を連れてくるのか。
同族のハイエルフか。はたまた、精霊の誰かかもしれぬ。
あの方の生きた時は長い。交友関係、師弟関係を知るのは不可能だろう。
しかし、何者であろうと、賢者の類であるに違いない。それだけは確定的であろう。
尊き御方が自ら弟子にしたものなのだ。
数百年――或いは、千年を超える時を渡り、研鑽を積んだ猛者かもしれぬ。
だが、やって来たのは、人間の幼子であった。
最初、我らはその子供を何かの理由で同行させただけで、『弟子』は別にいるのだと思った。
しかし高貴なる方の云う『当て』と云うのは、この幼子であるようだった。
見た目は幼いが、実際は歳経ている――そう云う存在がいるのは間違いない。
現に、尊き御方自身も、ちいさく見えるがその実、我らなどより遙かに年上だ。
だが、幼子は兄の方が五歳。妹の方が二歳だと云う。105歳や1005歳ではない。ただの五歳と二歳だ。我らが困惑したのは、当然であろう。
しかも、その種族は人間だった。
ヒト――最も弱く、最も強い種族。
個々の戦闘能力は決して高くない。
なれど、かの種族は、凄まじい繁殖能力を有していた。
それを背景に、群れを成すことに長けていた。
そして、全種族の中で№1の欲望の強さは、澱んだ知恵の泉となって、ありとあらゆるものを探求する。
彼らの発展は、繁殖力によるものではない。
全ては、その欲得故に。
だが、目の前にいるのは、たったふたりの子供だ。
群れを成すことの出来る人数ではないし、何より、幼い。
ちいささとは、即ち弱さだ。
この兄妹にどれ程の才覚があるのかは知らぬが、幼児であれば、その力は花開く前の蕾でしかないことは、よく分かる。
これで一体、何が出来るというのか。
まず我の目に付いたのは、兄妹仲の良さだった。
強さだとか賢さだとかではなく、ごく穏当な、互いに向ける親愛の情。
そのことが一番目立っていた。
園の危機は危機として、仲の悪い人間関係など、見ていて楽しいものではない。
だから互いに尊重し合う兄妹と云うものは、種族を越えて好ましいと思う。
少年は、僅かな段差があれば幼女を支え、冷たい風が吹けば、さりげなく庇っていた。
行動の1から10までもが幼女を気遣い、大切に扱っていた。
彼はそれを、無言で実行する。
我ら騎士が訓練の末にあらゆる状況から対象を守ろうとするのとは逆で、訓練によらず、ただ感情のままに、当たり前であるかのように、幼女に優しさを振り向ける。
妹の方も、それが分かっているのだろう。
彼に気遣われるたびに、彼の優しさを与えられる毎に、感動に打ち震え、兄に抱きついた。
滑稽にして不可解なのは、兄の方だ。
妹が抱きつくたびに、突然抱きつかれた、甘えられたかの様な反応をする。
彼は自分が妹を大切にするのが当たり前で、従って『見返り』が来るとは思ってもいないのだろう。
だから、妹の喜びが分かっていないようだった。
尊き御方。そして仲良し兄妹とは、総族長の屋敷へ行く前に別れた。
我ら騎士たちは先発して氷穴へと向かう。
道中の警戒をしておかねばならぬし、何よりも、移動速度が違う。
高貴なる方の有する古の魔道具は、まるで伝説の名馬・絶影の如く速い。
先行する我らに追いつくのは容易であろう。
或いは、後発しても追い抜くことすら。
園の危機とは別に――否、関連はするが、総族長の孫娘は、明日をも知れぬ身である。
核を失い、最早治療不可能の事態。
あたら幼き命が失われる様を目にするのは、ツラいことだ。
任務ともあれば『それ』を見ることも厭わぬ。
しかし、そうでないならば、助からぬ子供は見たくない。
これは、我の心の脆弱さのひとつであろうな。
かの少女は幼いながらも、お優しい方であった。本当に惜しいと思う。
園が救われたとしても、エニネーヴェ様のお命は、もう助かることはない――のだ。
なればこそ、他の被害者が出る前に、危地を脱しねばならぬ。はねのけねばならぬ。
我らが氷穴に到着して、程なく高貴なる方もやって来る。
『目に見える範囲』での警戒だけは済んでいる。
『それ以上』の索敵は、尊き方でなければ、不可能だ。
故に、ひとつ重要な取り決めを事前にしておいた。
高貴なる方は、此度の騒動を人為的なものと判断されていた。
我ら騎士も、『戦うもの』と『偵察するもの』に別れることがあるように、『敵』がいたと仮定する場合、『実働役』の他に、『監視役』がいる可能性を、高貴なる御方は示唆されていた。
我ら精霊に気取られぬものであるならば、相応の装備か強力な隠匿の魔術が使えることになる。
そういうものが『いる』か『いない』かを、伝えて下さると、エルフの高祖は仰った。
いない場合は、『いなかった』で終わりだ。
問題は『いた』場合だ。
率直に『いる』と仰ることはなく、『見つけた』の別表現をするのだと、尊き方は告げられた。
そして蜥人との戦いの最中に、こう云われた。
「……ん。周囲の解析は済んだ。私の魔力感知をかいくぐるものを想定したけれど、そう云うものはいないと判断する」
いなかった、ではない。
魔力感知をかいくぐるものを想定したけれど、そう云うものはいない、と仰られた。
つまり、隠れているものが『いる』のだと。
戦闘の最中だと云うのに、我は周囲を見渡すところであった。どうにかそれをこらえた。
直後に高貴なる方自らが戦場に立たれたので、『隠者』は余程遠くにいるか、近場にいても、即時対応可能な距離か場所だと判断されたのだろう。
姿を隠匿する術を持つものを、我は探すことは出来ぬ。
故に恥ずかしながら、『それ』の対処は、尊き御方にお任せする以外に無い。
我に出来ることは、共に氷穴に進む幼き兄妹を守ることのみ。
それにしても、驚くべきことばかりだ。
招聘されたる御方が凄まじいのは分かっていたつもりだが、あの蜥人の戦士をいとも容易く葬られるとは。
何かの魔術を使ったようだが、それが何かは分からなかった。
だが、高祖が強いこと自体は知っていた。
なので、真に驚くべきは、少年の方だ。
不思議な兄妹だった。
戦場にあっても、怯えた様子がまるでない。
状況を理解していないのではない。理解した上で、寸毫程も臆していない。
不可解だ。異常と云っても良い。
人間の子供とは、とても思えなかった。
彼は、蜥人の術者が作り出した巨大なゴーレムを、手で触れるだけで粉砕してのけた。
何をどうやったのか? 我には見当も付かぬ。
或いは、高貴なる方が蜥人の戦士を倒したのと同じ魔術が使えるのやもしれぬ。
だとすれば、あれは紛れもない天才であろう。
魔術の大家たる高祖直々に、その奥義を授けられているに違いない。
その推測は、やがて確信に変わった。
それは、腕だ。
氷穴内部に生えだした、異常な腕。
か細い腕一本ですら、我は短時間阻むことに消耗を強いられた。
さもありなん。
腕の源は、大陸を成す程の魔力。
押さえ込むなど、出来るはずもなし。
あの御方は事も無げに数百もの腕を封じているが、規格が違う。参考にはならぬ。
しかし、この幼き少年は、『末端』の腕ではなく、その『中心部』に挑むのだと云う。
あり得ぬ。不可能だ。
腕でさえこれなのだ。
中心部になど、手が出せるわけがないではないか。
そもそも、何をどうやったら、核を救えるというのか。
我は対処の主体は高貴なる方で、少年は何事かのサポートを成すのだと思っていた。
しかし実態は逆で、エルフの高祖が腕を押しとどめる間に、核に干渉するのだと云う。
大陸に比す魔力に、人の幼子が抗しうるのか。
訝しいが、高貴なる方は『それ』が可能だからこそ、この子供を連れてきたのだろう。
ならば、我はそれを信じるより他にない。
『隠者』を警戒し、幼き兄妹を守ることに専念しよう。
尊き御方は当たり前のように。
幼き妹は崇敬の念を込めて。
そして、当の男児は、気負った様子もなく、突き刺したロッドに手を触れた。
ホールが揺れる。
弱っている。
明らかに、この怪生物たちに打撃を与えている。
彼はそのまま――つまり核に干渉を続けたまま、高貴なる方が砕いた腕の回収を始めた。
魔力を核に還すのだと云う。
それは、大魔術の連発。或いは連続使用に他ならない。
意味が分からぬ。
まさかこの少年、エルフの高祖を上回る魔力量を保持するとでも、云うのだろうか?
しかし、だとするならば、全てのつじつまが合う。
矢張り、とてつもない天才だったのだろう。
尊き御方と同じく、我の尺度で測ろうとすること自体が誤りだったようだ。
想像以上の大才。
その一言で済む話だったのだ。
エルフの高祖と並び立てる程の、奇跡の担い手だったのだと。
しかし、その少年ですらが、顔を歪めた。
何かが起こっている。
いや、何かが起こるのだと分かった。
ホールがこれまでにない程、大きく揺れた。
それは、ある終焉の始まりであった。




