第七百二十話 ダブル(その九)
名将言行録に収録されている豊臣秀吉の説話に、こうある。
太閤曰く。
「蒲生氏郷(信長麾下の猛将)率いる一万の軍勢と、信長様の率いる五千の軍勢がもしも戦うとしたら、どちらにつくか? 自分は、信長様に付く。というのは、蒲生勢から幹部クラスの首をいつつも取れば、その中には突撃大好きな氏郷の首は、必ず入っている。一方、織田軍は四千九百討ち取られようと信長様は逃げに逃げて、残りの百名の中に必ずいる。戦は結局、生き残ったほうの勝ちだからな」
秀吉が本当にこんなことを云ったかどうかという信憑性は、このさい、どうでも良い。
重要なのは、命をかけた戦には、相反するふたつの常識があると云うこと。
つまり――。
・大将たる者、みだりに先頭に立つべきではない。
・大将たる者、率先して陣頭に立って戦うべし。
この、両面だ。
実際の戦での大将の振る舞い方の有用性は、ここでは論じない。
大事なのは、全く逆の性質が、常識として成立しうるという、その一点だ。
王族の婚姻というのにもそれがあって、たとえば一方は子どもを残すためのもの。
もう一方は、子孫の誕生を度外視して、特定の勢力との結びつきを求めるためのものだ。
後者が分かりにくいかもしれないが、平たく云うと『関係強化のための結婚』ということで、日本で云えば、徳川家康が秀吉の妹――当時、彼女は四十四歳だ――と結婚させられたというものが、これに近いだろうか?
洋の東西を問わず。
そして地球世界であれ異世界であれ、政治的必要性があるならば、老齢同士の結婚や、老人と妙齢の女性の婚姻というものは、成立されるのである。
ましてや、この世界には『同性婚』がある。
結びつきの一環として、同性婚が選択されることもあり得る、ということだ。
もちろん、そこは人間のすること。
ただ単に趣味嗜好による同性婚が行われたこともあるし、それに関する悲喜劇も、歴史の中では度々巻き起こってはいるが、ここでは詳述は避ける。本題ではないからね。
――シーラ・ホーリーフェデル・エル・フレースヴェルクという少女は、『価値の塊』だ。
俺個人は彼女の値打ちは、その朗らかで優しい人格にあると思っているが、世間では大国の王の娘であり、王位継承権を有し、魔術の大才であり、学問に秀で、月の女神の加護を受け、そして何より美しい――という、能力や地位や外見に起因すると判断されるところが大であろう。
ならば、とにかく彼女が欲しい。引き込みたい。
たとえ子どもが、出来なかったとしても――。
そう考える者たちが出てくるのは、当然の成り行きであった。
だから、ケンプトンが歳の近い姫をめあわせようとしても、不思議は一向にないのである。
ただしそれは、あちらの国の理屈だ。
シーラ第四王女に巨大な価値があるならば、それをみすみす『手放す』という選択肢は、ムーンレインにはないだろう。
彼女は、この国にとっての切り札だ。
その学識は将来的に有為であろうし、婚約させるにしても、既にステファニー第二王女の結婚が決まっている国と重複させる必要性は薄いと考えるはずだ。
だから目の前の高慢王女は、『候補』としか口に出来ないのであろう。色よい明確な返事は、貰えていないはずだ。
だが一方でムーンレインは、明確な拒絶もしていないのだろう。
たとえばもしも、第二王女に何かがあれば、村娘ちゃんの存在は、貴重な同盟国であるケンプトンとの婚姻政策の有効なカードになる。
可能性を示唆するに留める、というのが、ムーンレインの方向性であると思われる。
それら諸々を勘案すると、村娘ちゃんの婚約者が決まるのは、まだまだ先になる気がする。
彼女というカードは、切る必要がない。
各国に見せるだけで、充分以上の効果を発揮するはずだから。
ジョーカーは使うよりも、『持っている』と認識させておく方が、場合によっては有効だ。
(だが問題は、目の前の暴言製造器が、各々の立場や国のバランスをどう理解し、なにを考えているかだ)
口は悪いが、明晰なしゃべり方はしている。
だから地頭は決して悪くはないと思われる。
だが、それはそのまま、彼女が村娘ちゃん程に冷静で政治力学を理解しているとは云いきれるものでもない。
ベアトリーチェ王女の発言は、俺のような政治素人から見ても、凄く危うい。
関係国に亀裂を与えたとしても、何らおかしくはない程だ。
まさかこの暴言すらが、『より良い関係へと発展させるための布石』であるとは、とても考えづらい。
ならば何も考えてないか、もっと別の――たとえば彼女個人の願望や目的があると考える方が自然ではないか。
国の関係が危うくなると云うのも、ひとつには『そこまで考えていない程の愚かである』というパターンと、『このくらいならば、まだ何とかなるるくらいに、両国の結びつきは盤石である』場合のどちらか、という可能性があるか。
いずれにせよ、俺にはそこを見極めるだけの判断材料がない。
第一、今考えるべきは、国家間の力関係とかいう、俺個人の手に余る大きな話なんかではなくて、自己保身と、友人である村娘ちゃんをどう庇ってあげられるか、そのふたつだけで良いのではないか?
俺は小物で、小心者だ。
分不相応なことは出来ないし、するつもりもない。
身の丈にあった、手の届く範囲だけを左右できれば、それで良いと割り切るより他にない。
だから目の前でドヤ顔を晒しているお姫様に、こう返したのだ。
「左様でございますか。――では」
ニコリと営業スマイルを浮かべて頭を下げ、それからすぐに、皆に振り向き直す。
「……じゃあ、向こうでかくれんぼしようか」
スルーを続行。
村娘ちゃんを、引き離してあげるのだ。
この心優しいお姫様が、後ろの暴言製造器を気に入っているとはとても思えないからね。
政治やら何やらの難しい話は、俺がいないところで好きなだけやれば良い。
俺の受け持ちは、『子どもの範囲』で充分だ。
「にーた、早く行くの! ふぃー、今日も上手に隠れる! それでにーたに、褒めて貰う! キスして貰う!」
一番やる気を出している子が、俺の袖を引っ張った。
「そうね。さっさと行きましょ」
マノンも、俺の腕を取る。
「めーっ! ふぃーのにーたから、離れるのーーーーっ!」
「何であたしが、あたしのアルトから離れないといけないのよ?」
早々にベアトリーチェを度外視しているこのふたりは、実は大物なのではなかろうか。
背後からは、ギリ……という歯を噛み締めるような音がする。
いや、別にアナタをコケにするつもりはないのですよ? そこは誤解をしないでいただきたい。
文学ちゃんと村娘ちゃんも俺たちと一緒になって歩き出すと、再び背後から声が掛かった。
「……待て」
「何よ? まさかアンタ、『一緒に遊びたいんですぅ』とでも、云うつもり? どうしてもって云うのなら、仲間に入れてあげても良いけどね?」
「……ぐっ」
『シカト路線』に乗ってきたマノンが、挑発的な笑顔を見せる。
穏便に行こうね? 穏便にさ。
しかしケンプトンの王女様は、どうしてここまで突っかかって来るのかね? そこが、とっても不思議なのよ。やっぱり何か、目的があるのかしら?
(まあ、何でも良い。俺が登城している間だけでも、嵐が遠ざかっていてくれればさ)
問題の先送り? 大いに結構。
だって解決するの、俺じゃないんだし。
咄嗟の思いつきで実行され、そして、もしかしたら上手くいくかもしれないと思われた『スルー大作戦』はしかし、再度のベアトリーチェ王女からの言葉で転機を迎えることとなる。
「――良いだろう。私も、お前たちにまじって遊んでやろう」
「…………っ」
まさかそんなことを云い出すとは、思いもしなかったわ。
こうなってしまうと、明確に拒絶できる理由がないし。
しかも、この状況から一緒に遊んで和気藹々になるとは考えづらい。
となると矢張り、何か別の『突っかかる方法』を見つけたと云うことなのだろうか。
恐る恐る振り返ると、彼女はある一点を不敵な笑みで見つめていた。
そこには――。
(さっきマノンが吊した、魔的盤……)
お高いんだから、忘れるなよ、とは云えないね。
文学ちゃんが来たりケンプトンのふたりが来たりで、色々あったからね。
暴言製造器は、木の葉の舞う中に見える魔道具を指さした。
「折角だ。アレで遊ぶというのは、どうだ?」
「……アンタ、何企んでるの?」
「云い掛かりはやめて貰おうか。私は魔的盤という遊具を提案したにすぎぬ」
彼女のドヤ顔には、自信の程がアリアリと浮かんでいる。
つまり、魔術の腕に憶えがあるということなのだろう。
「シーラ殿下。折角の機会です。ひとつ私と、あれで勝負をしてみませんか?」
そう云って笑う彼女の表情には、奇妙な『執念』のようなものが浮かんでいるように、俺には思えたのだ。




