第七百十七話 ダブル(その六)
ガブリエラ・エフィローソ・エル・ブルームウォルクにとって、読書とは『娯楽』であるにすぎなかった。
つまり同年代の少女たちが、おままごとや人形遊びに興じるのと同じように、本を読むこととは、あくまで自身が楽しむためのものだったのである。
だから読書をしていて、『偉いね』などと云われても、ピンと来ない。
自分は皆と同じように、ただ遊んでいるだけ。
なのにどうして、褒められるのだろう?
ガブリエラには、不思議だった。
もちろん、娯楽と云っても読書は読書だ。
時を経るに『智』は集積され、思考は深化し、繰り返す程に彼女の思惟は磨かれていく。
気付けば彼女は実父に、才気煥発な子であると認識されていたのである。
迷惑な話であった。
最近は『天才』などという、過大な評価を押しつけられてしまっている。
自分は、そうではない。
ただの読書好きであるにすぎない。
もしも周囲に実態が知られたら、怒りと失望を買うのではないか?
そのことが、ガブリエラにはとても恐ろしかった。
本当は、ムーンレインになど、行きたくない。
行って正体がバレるのは、とても困る。
だが、行かねば今すぐにでも自らの無能が露見してしまう。
だから行かねばならなかった。
ブルームウォルクの第二王女が隣国へ出発した背景には、以上の理由がある。
――そして、同盟国へと到着した。
やって来てしまったからには、任務を果たさねばならない。
つまり、シーラ第四王女の気を惹かねばならなかった。
自分にあるのは、本で得た知識だけ。
他には何もない。
だから勢い、それに頼ることになる。
「まあ! ガブリエラ様は、書を好まれるのですかっ」
ムーンレインの王女は、読書が好きだという自分の言葉に、素直に感心してくれていた。
(こ、これなら、もしかしたら……)
ガブリエラの淡い期待は、直後に打ち砕かれた。
周囲――。
今までブルームウォルクの王女の周りにいたのは、『智』をひけらかす者ばかり。
持って回った云い回し。
必要以上のもったい付け。
難解であることを高尚であると勘違いをし、気取った言葉遣いをすることが、知者の証と思い込む。
だが、満ちた月の様な少女は、そのどれとも違った。
彼女は、平明だったのだ。
その言葉は分かりやすく、難しい単語を使わなかった。
だから自分が、滑稽に思えた。酷く惨めだった。
シーラ殿下の気を惹くためにガブリエラの口から紡がれた言の葉は、陳套にしか感じなかった周囲の者たちと、いつの間にか同じになっていた。
語れば語る程に、それを悟らざるを得なかった。
真月の王女は、自分から知識を披露して来ることがない。
だが、ブルームウォルクの姫の学識に、平然と付いてくる。
知ったかぶりをしているのではないとは、すぐに分かった。
彼女は自分の知り得ること、考えつくことを当たり前に理解し、しかも当然のように凌駕していたのだ。
シーラは自らの好きな本の名に、世で噂される難読書や、名著ともてはやされる学術書を挙げることがない。
かわりに、大好きな母君に読んで貰った絵本のことを、心底楽しそうに語っていた。
(ああ――私とは、まるで違う……)
彼女は、知識が道具でしかないと理解している。
殊更、見せびらかすためのものではないのだと、弁えているのだ。
自分を大きく見せること。
賢く見せるための醜悪な手段にしている者たちとは、雲泥の差であった。
ガブリエラは、自分の心が折れる音を聞いた。
それは父や臣下や、他の者たちに失望されることよりも、なお大きい。
敵わない。
及ばない。
それを、ありありと知らされた。
……それから、ガブリエラはシーラに近づけなくなった。
何を口にしたらいいのかが、わからなくなったのだ。
自分の語る言葉の全てが、偽物で軽々しいようで――。
もう、遠巻きに見つめることしか。
更なる変化があったのは、そんなある日。
不可解なことが起きていた。
(少年――? でも、あの顔立ちは、まさか……っ)
シーラ第四王女は、廃棄寸前の古書のような気配を放つ男の子と、楽しげに会話していたのだ。
何日か観察してみての彼女の行状だが、わかったことがある。
かの王女は、あまり男性を側に近づけない。
嫌っているわけではない。
誰とでも、穏やかに話す。
だが、一定以上は踏み込ませることがない。
どうやらそれは、下心あって近付いて来る者たちばかりであったが故に身についた、無意識の護身術のようなものであるようだった。
だからその日、あの叡智の姫が無邪気な子どものように笑っている姿を見て、心底驚いた。
(あの男の子は、一体――!?)
知らない人。
けれども、知識にはある顔。
整っているのに、なんだか始終間の抜けたような、ほんわりとした空気がある。
微塵も、ピリピリとはしていない。
(な、何を話しているんだろう……?)
どんな話題を出せば、あのシーラ王女が楽しそうに笑うのだろうか?
隠れ潜んで様子を覗くガブリエラが、身を乗り出した矢先――。
「あそこにひとり、隠れてるのーっ!」
「あ、あの場所に、お一人、潜んでおられます……っ!」
やたら元気なお日様のような女の子と、自己主張をしないのに、誰よりも静かに光り輝くお月様のような女の子が、同時にこちらを指し示したのだ。
「――ひぅ……っ」
思わず身が竦んで、変な声が出てしまった。
ガブリエラは王族であるにも関わらず、本の虫であったがために、社交的な性格にはなりえなかった。
或いはそれは生来のものだったのかもしれないが、いずれにせよ複数人に一斉に見つめられれば、頭が真っ白になり、フリーズするのは当然といえた。
「ぁ、ぁぅぁ、ぅぅ……っ」
こんなとき、蓄えた知識は役に立たない。
どう云い繕えば良いだろうか。
コソコソと付け回っていたことを軽蔑されるだろうか? それとも不審がられるだろうか?
ブルームウォルクに好意を持って貰いたい相手に、逆に嫌われる結果になりはしないだろうか?
怖い。
どうしよう。
恥ずかしい。
立ち去りたい。
立ち去れない。
釈明せねば。
どうやって?
少しでも友好的に。
でも喋れない。
殿下たちの周りにいる子たちは何者なのか。
ぐるぐるぐるぐる。思考は回る。
或いは、止まっている。
「大丈夫?」
「――ふぇっ!?」
話しかけてきたのは、ちぎれたページの欠片のような雰囲気を持った少年で。
(ど、どど……どうしようぅ~~……っ! は、話しかけられたら話しかけられたで、何も云えないよぅぅ……っ)
メガネの下の、おめめがグルグル。
「みゅぅ……。どうしたの? おなか痛い……? ふぃー、誰か呼んでくるよ……?」
続いて、元気いっぱいな銀髪幼女が話しかけてきて、不安そうにガブリエラの服を引っ張った。
どうやらこの二名は、お人好しの類であるらしい。
そこに、もうひとりの善良な少女が。
「が、ガブリエラ様……っ。驚かせてしまって、申し訳ありません……っ!」
シーラ第四王女であった。
普段、どのような話題を振ろうと穏やかに笑っているだけの彼女が、珍しく動揺している。
そのおかげで、ブルームウォルクの姫君は落ち着きを取り戻す。
「あ、あの……。お、お騒がせしました……。わ、私は大丈夫です……」
赤面し俯くと、目の前にいる三人はホッとした様子で胸をなで下ろした。三者の動作が、全く一緒であった。
「のぞき見してて勝手に驚いただけなんだから、シーラが謝ることでもないでしょうに」
辛辣に、そう呟く美少女もいることはいるが。
「も、もう……っ! マノン……っ! なんてことを……っ!」
お月様の気配を持った女の子が、ぷんぷんと幼なじみに駆け寄っていく。
一方でお日様のような雰囲気の女の子は、ガブリエラが無事だと安心したからか、彼女にはもう目もくれず、廃棄書のような気配を醸し出す男の子に両手を伸ばし、だっこをせがんでいた。
だからブルームウォルクの少女は、ここにあって一人であると認識した。
そう認識したからこそ、ひとりごとを漏らしたのだ。
「……シーラ王女のような天才と、どうやってお話しすれば……」
そんな独り言を、真横にいる少年が聞いている。
彼は、愛妹を抱き上げながら云う。
「普通で良いんだよ。あの子は王女だとか天才だとか、そういう以前に、ただ良い子なんだ。良い子だからこちらの会話にあわせてくれるし、それを心から楽しんでくれる。難しく考える必要なんてないと思うけどね」
「――――」
ガブリエラは、男の子に振り返る。
彼は、ちいさく微笑んでいた。




