第七百二話 翠玉の瞳に映る空(終)
「ぐ……?」
うすうすとした視界の中で、神殿戦士ケーンは目を覚ました。
「こ、ここ、は……?」
俺は死んだはずではと上半身を起こし、周囲の景色を見て驚いた。
倒壊した建物がある。
教会騎士に殺害された住人が見える。
僅かなりとも立ち昇っている、か細い黒煙すらも視界の中に。
(あれから、まだ大した時間が経っていないのか……!?)
慌てて立ち上がり、そしてそこで、はじめて胸に痛みを感じた。
「――痛っ!? ……そうだ、俺はあの聖騎士に殺られて――胸を貫かれたはずで……」
足元を見おろせば、少し離れて己のものと思しき血液が、水たまりを作っている。
こんな中で、自分は生きているのか。
何故? どうして? どうやって?
胴体には、清潔な包帯が巻かれていた。
自分が今の今まで寝ていた場所には、清浄な白いシートが敷かれている。
何者かがケーンを助けたのは、明らかだった。
(いや。俺は胸を貫かれたんだぞ……!? 助かるはずが――)
包帯越しに傷口に触れて、戦慄した。
そこには確かに、縫合の痕があるのだ。
つまり『これ』は、純然たる医療技術のみで治していると云うこと。
大量の血液を失い、胸の中央を刺され。
それでも命を拾うなど、聞いたことすらない話であった。
「こ、こんな状況で生きていられるなんて、神の奇跡と云われる方が、まだ信憑性があるぜ……」
だが、これはどこまでも『技術のうち』で。
奇跡などではなく、想像を絶する程の医術者がこの場にいたことを物語っている。
ケーンの脳裏に、フェネルの姿が思い浮かんだ。
(あの、ハイエルフか……?)
太平楽な家族の傍に居た、ふたりのエルフ族。
抜き身の刃のような冷たい気配を持った槍の女は、自分と同じ戦闘職だろう。
ならば、もうひとりの柔らかい雰囲気のほうこそが、刀圭家であったのではないか?
(しかし、いくらエルフ族が薬学に明るいと云っても、ここまで出来るものなのか……?)
今すぐの戦闘は無理でも、自力での移動くらいは、既に可能であろうとすら思われた。
まさに超絶というしかない程の、治療技術であったのだ。
「おとぎ話でしか聞かない、エルフ族最高の医術者ロキュス――。彼女は、その直弟子だったりしたのかもな……」
ヨロヨロとした足取りで、銛を拾う。
悲鳴は既に聞こえない。
負傷者はいないかと、同僚と思しき連中の声が遠くから響いている。
戦闘は、終わっているようだ。
それも、不可解なことに、『こちら側の勝利』で。
「一体、何が起こったんだ……?」
あんな絶望的な状況で。
あんな終末のような世界の中で。
何者かが動き、そして全てを終わらせたのであろう。
(まさか、夢の中で出会った、あの『天使』が……?)
もしもこの場に本人がいれば、「……私は天使などではない」と否定するであろう言葉を吐き、ケーンは暫くの間、その場に立ち尽くしていたのであった。
※※※
シルリアンピロードの教主の愛娘であるルビナスは、街の端にある小高い丘の上にいた。
その場所には先程まで、期限切れの廃材のような雰囲気を持った少年もいたのだ。
今、ルビナスはひとり。
それは打ち棄てられたボロ切れのような気配をした男の子が、既に立ち去っているからでもあった。
「…………」
巫女姫である彼女は、海の彼方をジッと見つめている。
本当ならば今すぐにでも聖地である塔に戻り、父に身の安全を報告すべきだし、共にいてくれた護衛のケーンを探しに行くべきだ。
或いは尊敬する親方であるヘルロフの元に赴いて、救助作業を手伝うべきだったのかもしれない。
けれども、彼女はそこから動かなかった。
否、動けなかったのだ。
「私、失恋、したんだなぁ……」
大きく綺麗な瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
少女は思い出す。
つい先程あった、少年との遣り取りを――。
※※※
ずっと、『翠玉の王子様』に憧れていた。
女の子らしくないとバカにされ。父親とは折り合いを欠き。
そんな自分が逃げ込んだ、ある種の理想。
大好きだった母親が何度も語ってくれた、おとぎ話の王子様に。
そして今日。
王子様に出会った。
お話以上で理想以上の、強く美しく優しい男の子に。
――切っ掛けは、確かに憧れだった。
けれども今日という僅かな時間に、その強さに魅せられた。
あんなふうに、他者を気遣えるような人になりたいと思った。
王子様に似ているからじゃない。
人として素晴らしいと思えたからこそ、自分は焦がれたのだ。
自分は、あんなふうに見ず知らずの人の為に戦えるだろうか。認めてあげられるのだろうか。
(ケーンは云ってたっけ……)
――坊はどうせ、婿を取らねばならない。
なら、釣り合う相手を手に入れろよと。
あの少年には、学があった。礼法があった。風格があった。
言葉遣いと発音は丁寧で綺麗で、その口から紡がれる大陸公用語は、上流階級の者のみが使う流暢さがあった。
おまけに、魔術まで修めている。
相当な身分。
相応な家の出であるに違いない。
ならば、『巫女姫』という肩書きとも釣り合いが取れる。
手を伸ばすことに、何の不足があるだろう。
それに何より、今後の人生で、彼のような人に再び巡り会えるだろうか?
そう思ったからこそ、ルビナスは決断する。
『想い』を伝えて、少しでも親しくなって貰おうと。
だから彼女は、街の大半と海を一望できるその場所に、彼を連れて行った。
――ルビナスは、どこまでも『真っ直ぐ』な少女であった。
真っ直ぐだからこそ、『まずは友だちから』という距離の詰め方をしなかった。
ストレートに、自らの心の内をぶつけることを選択しようと考えたのだ。
確かに、先に『好き』と伝えることは、人によっては有効であろう。
けれども、『彼』には――。
「……………………」
黄金の髪と翠玉の瞳を持った少年は一瞬だけ目を伏せ、それから巫女姫の目を真っ直ぐに捉えてハッキリと云い切った。
「――ごめん。キミの気持ちには、こたえられない」
「…………っ」
なんで、という言葉を、彼女は吞み込む。
訳を問うまでもないと思える程に、静かな緑色の瞳には明確な決意があったから。
だが、理由は少年のほうが率先して口にした。
真っ直ぐに想いをぶつけてきた彼女に、誠実であらんとするかのように。
「……好きな人がいるんだ」
しっかりとした物云いだった。
『憧れ』のようなぼんやりとしたものではなく、確たる意思を、嫌でも感じた。
「……素敵な人、なんだね……?」
震える声で、彼女は質した。精一杯の、強がりだった。
彼はそれに、肯定の意を示す。
「うん。――その人は、誰よりも強いのに、誰よりも弱くて。とっても優しくて、脆くって。いつもひとりでいるのに、寂しがり屋で。困難な道を、ずっと傷つきながら歩いてきた人なんだ」
「…………」
ああ――『好き』が溢れている。
自分は他人に、こんな顔をさせることが出来るのだろうか。
こんな顔で、『好き』を語れるのだろうか。
「――俺は、いつでもうちの家族を支えてくれたあの人の、横に立ちたいと思う。どれだけささやかであっても、あの人を支えてあげたいと願っている。だから、『他の人』には、ごめんと云うよりないんだよ」
『私』だから、断られたんじゃない。
『その人』以外は、断られるんだ……。
それだけは、ハッキリと確信を持って理解出来た。
(その人の傍に立てるといいね……)
好きになった相手に、そう云ってあげたかったけど。
震える喉から出てきたのは、嗚咽だけで。
(ダメ……。顔を伏せちゃダメ……。生まれて初めて、好きになった人だもの……っ。『その姿』を、ちゃんと見ないと――)
ルビナスは、顔を上げる。
「…………っ」
そこで見たものは――。
※※※
その後――。
シルリアンピロードに、いくつかの変化があった。
まず、近くの島で、この世のものとは思えない程に見事な、聖獣シルルルスの粘土細工が発見されたことである。
到底人の手によるものとは思われないくらいのその出来映えの像は、聖職者たちによって慎重に街へと運ばれ、名工ヘルロフの手によって窯で焼き上げられた。
仕上がった海獣の像は金属でもないのに明るく輝き、見る者全ての心を奪ったと云う。
「これは天より使わされたものである!」
教主は高らかにそう宣言し、街の至宝として奉ることとなった。
折しも、天空に光のクジラが描かれ、『闇を纏った戦士』が街を救うという奇跡の後であったことから、住人たちは皆が『神の贈り物』であると信じた。
そうして『聖獣の像』は街の名物となり、新たなる信仰のよりどころとなっていくのである。
※※※
街に攻め入った教会騎士たちは――半数が行方不明となった。
それはまるで、存在そのものが消去でもされたかのように行方が完全に消え去っており、誰がどう探しても、『消滅した』彼らを発見することは出来なかった。
残る大半は、クジラの加護を得たという『闇の騎士』たちにより殺し尽くされ、生存したのは、聖なる鎧の一切を失って発見された、聖騎士を自称する負傷した男ただひとりであったと云う。
ベリアンと名乗ったその端正な男は、自らの信奉する神の正義と教会の正しさを説いたが、当の教会より、「我らが信徒であることを自儘に名乗る、憎むべき背教者である」と、大司教リシウスの名において正式に部外者宣言をされ、『恥知らずにも神の僕を勝手に自称する悪質な盗賊たちの頭目』として教会騎士により捕縛され、間もなく処断されている。
最後の言葉は、
「神はいないのかッ!」
で、あったとされている。
一方、カーソンと云う名の司祭は、シルリアンピロードの医者の手により一命を取り留めた。
「考えるべきことがあった。私は主の教えは絶対であると信じているが、死地より助けてくれた『隣人』もいるのだと思えるようになった。伽藍に戻った後は、共生共存出来る道を模索してみようと思う」
そう告げて、街を辞去した。
シルルルス教としても、ラディカルな路線を走る教会との橋渡しになってくれることをカーソン司祭に期待したが、その後の音沙汰は一切無かった。
ただ、至聖神教会幹部向けの会報の中に、件の司祭と思しき人物がこの後に俄に病を発し、やがて発狂死したと短く記されるに留まっている。
そして、この街の巫女姫は――。
※※※
あれからいくつかの時が過ぎ、ルビナスは少しだけ大人になった。
もともと美しかった彼女の美貌はますます輝きを増し、嘗ては『男女』と罵った連中でさえ、即座に恋に落ちる程であったという。
その美しさと能力と生い立ちの希少さから縁談の話はいくつも来たが、彼女はその全てを断っている。
理由を問うても、目を伏せて笑うばかりだと云われている。
そうして、彼女は塔の窓から天を見上げる。
――ああ、今日の空は、あのときと同じ色だ。
誰に云うでもなく、そっと呟く。
彼女は忘れない。
あの、たった一日を。
あの、不可思議で素敵な出会いを。
ルビナスは天を見上げるたびに、かすかな胸の痛みと共に思い出す。
あれ程雄弁に『好き』を語っていたのに、それでも陰のある寂しい笑顔を浮かべていた『王子様』の姿を。
共にいたいと語っていたのに、共にあれないと苦しんでいるかのような、あの人の姿を。
だから決して忘れない。
何度だって、思い出す。
あの日、泣きながら見たものを。
笑っているのに、泣いているかのようだった、あの人の両の目を。
彼が寂しそうに見上げていた、翠玉の瞳に映る空を――。




