第七百一話 翠玉の瞳に映る空(その三十)
「まったく、酷い目に遭った……」
クレーンプット一家で、仲良く海に来ただけ――正確には、エイベルのワンピ姿を拝みに来ただけ――なのに、とんでもないトラブルに巻き込まれたものだ……。
いや、まあ、結果として多くの命が助かったのだから、そこに関してどうこう云うつもりはないんだけどもね?
今、俺は母さんたちのいた島へと戻ってきている。もちろん、エルフ族の面々も一緒だ。
そうして戻ってきた途端に、マイマザーから雷を落とされた。
「もう、アルちゃんっ! 危ないことをしちゃダメだって、いつも云っているでしょうっ!」
槍の先生にも、こう怒られる始末。
「アルト様、危機に近付かないことが最良の選択であると、何度云えば分かるのですかっ。いい加減、少しは自重して下さい……っ!」
いつも優しいフェネルさんにも、ダメ出しを喰らう。
「幼い子どもが危険を冒す必要など、砂の欠片ひとつぶ程の理由もないんです! トラブルの対処は我々大人に任せて、素直に控えていて下さい! ヘンリエッテ副会長に知られたら、温厚なあの人でもきっと怒りますよっ!?」
けちょんけちょんである。
まあ、仮にフィーやマリモちゃんが危険を冒したら俺も叱るだろうし、実際に命の危険のある戦いだったのだから、甘んじて受け入れるしかないのだが。
俺は、結果として危ないことをしなかった家族に視線をやる。
妹様は、今この瞬間も、「んゅゅ……!」と唸りながら、粘土に挑んでいた。
プリティフェイスを百面相させて、クレーンプット家の子どもたち全員に渡されたはずの粘土をひとりで全て使って、超大作を目指しているのだ。
「みゅぅぅ……っ! 難しいの……!」
色々と、苦戦をしているようだ。
それでも俺が大人の皆さんに一通り怒られて、ついでにマリモちゃんにおやつの魔力をあげていると、ようやっとマイシスター渾身の作品はこねあがった。
「出来たーーーーっ! 出来たのーーーーっ! にーた、見て見てっ!? ふぃー、とっても格好良くて勇ましい粘土細工を、完成させたの! だっこ!」
ああ、うん。
だっこの前に、手を洗おうね?
水色ちゃんに貰った、こねられる湖水と違って、油でベトベトになるやつだからね、それ。
素直におててをキレイキレイしたマイエンジェルは、俺にだっこされてご満悦。
あまりにも集中していたおかげか、海ひとまたぎ向こうで大騒動が起きていたことに、気付いてもいないようだ。
「ふへへ……っ! 今日のふぃー、がんばった……っ!」
むふーっと、荒い鼻息を噴き出す。
フィーが長時間かけてこねあげたものは――。
「誰がどう見ても、聖獣様、ですね……」
フェネルさんが、マリモちゃんをだっこしながら覗き込む。
そこにあるのは、びっくりするくらいの間抜け面。
ようは、あのゆるクジラであった。
粘土いじりの才能を有する妹様が丹精込めてこねあげただけあって、驚く程の再現度であるのだが……。
でもね、フィー。
この粘土像だとダイナミックに海面から跳ねている感じだけど、あいつ、ゆる~く海に浮かんでるだけじゃん、死骸みたいに。実像と動きが違うじゃん?
今も海の向こうの方で、お腹を出して波に揺られている姿を見ると、こちらも脱力してしまう。
「シルルルス、とっても格好良い! 寒い海で見かけた、あのオレンジのと同じくらいに格好良い! ふぃー、そう思う! ふぃー、にーた好き!」
ああ、例のダイカイギュウか……。うちの長女様は、ああいう造形が大好きだよね。
ちなみにアレは、去年の九月のことだ。もう一年経つのね、時間が過ぎるのは、早いなァ……。
「にーた! ふぃーと一緒に、お砂で一緒にお城作る! それ、きっと楽しい!」
「あきゃっ!」
その言葉に食い付いたのは、末妹様である。
マリモちゃんも今や、我が家の砂場ではしゃぎ回ることが日常となっているのだ。反応しないわけがなかった。
ノワールは、フェネルさんの服の袖を引っ張って、砂遊びがしたいと猛アピール。
子ども大好きな従魔士さんが、この『おねだり』に屈しない訳なんかなくて。
「ノワール様っ! ではでは、このフェネルめと砂浜で遊びましょうっ!」
「あきゅきゅっ!」
「はいはーいっ! お母さんもぉ! お母さんもいれてぇっ?」
元気よく手を挙げ、ついでにマリモちゃんの強奪を図るマイマザー。
しかしフェネルさんはヒラリと身を躱す。寸毫程も、譲る気がないようであった。
そこに、我らが妹様も名乗りを上げる。
「砂浜で遊ぶ、それ、ふぃーが最初に云ったこと! ふぃー、にーたと一緒に、おっきなお城作るっ! ティーネちゃんにも、手伝って貰うっ!」
「いえ、私は、皆様の警護で――」
「ティーネちゃん……。ふぃーと遊んでくれないの……?」
「う……っ」
上目遣いを向けられて、槍術士、陥落。
ではこのまま、皆で仲良く砂浜へと向かうと思いきや――。
大人組が、一斉に俺を見る。
「じゃあ、アルちゃん。しっかりね?」
代表して、母さんがそう云った。
そう。
俺はこれから、ただひとりで偉大なる高祖様に謁見するのである。
この場にいない、始まりのエルフ様に。
ワンピース姿――。
彼女はそれを、俺にだけ見せてくれるのだという。
「……ほ、他の人がいると、恥ずかしいから、だめ……っ」
とんがり帽子を目深に被りながら、表情を見せずに彼女はそう云った。
これは、大変貴重なことである。
だってお風呂ひとつとっても、『のけ者』にされるのって、男の俺だけだったから。
丈が短く、うっすら透けるという理由で、着るのを散々渋っていた白のワンピースを、俺にだけ。
「にーた! 早くふぃーと、お砂で一緒に遊ぶっ!」
服に取りすがってぴょんぴょこと飛び跳ねるマイエンジェルを、母さんが抱きしめた。
「はーい、フィーちゃん! まずは、お母さんと一緒に、何か作りましょうか?」
「んゅ……? おかーさんと……? でも、ふぃー、にーたに遊んで貰いたい……」
「だからよぅ! ふぃーちゃんが先にお砂で凄いのを作ってみせれば、アルちゃんもやる気を出すし、きっと褒めてくれるわよぅ!」
「みゅみゅ……っ!? ふぃーが褒めて貰える……っ!? にーたに、なでなでして貰える……っ!?」
「ええ、もちろんよぅ! ね、アルちゃん?」
二十四歳、三児の母から、パチッとウィンクが飛んでくる。
俺はそれに、頷いた。
「ああ。フィー渾身の砂の芸術を、俺も見たいな。ちょっとだけ離れてるから、その間に凄いの作っていてくれると嬉しいな」
「――っ! やるっ! ふぃー、やるの! それでにーたに、いっぱい褒めて貰う! キスして貰う! ――行こ、おかーさん、ティーネちゃんっ!」
左右の手で母親とハイエルフを引っ張って、砂浜に駆けていく妹様。
その後ろを、ノワールをだっこしたフェネルさんが追いかけていく。
去り際に彼女は、
「高祖様を、お願いしますね、アルト様っ♪」
いたずらっぽく笑って、歩いて行った。
「…………さて。行くか」
皆が遊んでいる砂浜。
その横っちょに、まるで仕切りのように、大きな岩が並んでいる。
マイティーチャーは、その向こう側にいるのだ。
※※※
「エイベル~。来たよ~……?」
わいわいという声をすぐ背後に、俺は『仕切りの向こう側』へとやって来た。
フィーたちが砂に挑んでいるエリアは見通しも良く、また障害物も少ないが、こちら側にはいくつか大きな岩が転がっているようだ。
エイベルは、そこにいた。
……正確に云うと、隠れてた。
「……………………」
岩陰から、麦わら帽子だけが覗いている。
この期に及んで、恥ずかしくなって物陰に潜んでいるようだ。
「……………………あ、アル……」
「うん」
お師匠様のプリティボイスは、最初から泣きが入っている。
だがもちろん、このアルト・クレーンプット。容赦なぞするつもりはない。
と云っても、急かすようなマネはしないが。
エイベルは約束を守れる子だ。
俺はここで、ジッと待てばのホトトギス。
「…………」
「…………」
プリティーチャーは、無言。
俺も、無言だ。
背後からはビーチ客たちの歓声が、BGMとして流れている。皆、実に楽しそうだ。
「…………」
「…………」
そんな中で、俺は待つ。
ジッと待つ。
ひたすらに待つ。
何分待ったかは分からないが、岩陰で震える麦わら帽子を見つめ続けた。
そうしてやがて、『そのとき』が訪れる。
「…………う、うぅ……」
のっそりと。
母さんが丹精込めて編み上げた麦わら帽子が、物陰から出てきたのだ。
「……………………っ」
片手で麦わら帽子をしっかりと押さえ、もう片手で白いワンピースを握りしめている。
(綺麗だ……)
と、心から思えた。
同時に、いかに彼女がスタイル抜群かがわかる。
確かに、背丈はちんまい。
顔だって、美人タイプではあっても、間違いなく童顔だ。
胸だって、ぺたんこである。
だがそれでも、本物の十二~三歳にはない、『女らしさ』がそこにはあった。
真っ白な肌をした細い足は、とても長く。
折れそうな程に華奢な腰のくびれは、豊かでないはずの上下の身体を否応なしに際だたせている。
少女の可憐さと女性の色香を、彼女は確かに持っていたのである。
「……………………っ」
エイベルは、恥ずかしさで泣きそうになっている。
クレーンプット家の他の女性陣と違って、『この出で立ちで夏を満喫する』といった行動は取れないのであろう。
これが、うちの先生の脆さなのだと思う。
でも、それも含めて、とっても良いと思うのだ。
触れれば壊れそうで。
選択肢をミスれば、即座に逃げ出してしまいそうでも。
それでも俺に、『この姿』を見せてくれると決断してくれたことを、心の底から嬉しく思う。
「――似合ってる。素敵だよ、とってもね」
嘘は口にしない。
過剰に褒めることもしない。
この人は、そんなものは見抜いてしまうだろうし、何より俺自身が、そんな失礼をしたくない。
だから、ありのままに。
心に浮かんだその言葉を、彼女に贈りたいと思ったのだ。
「…………ぅ、ん」
エイベルは、顔を真っ赤にしたままに頷いた。
一度も、俺に目を合わせようとはしない。
それでも背後のBGMよりもちいさな声で、
「…………ぁり、がと、ぅ……」
と、呟いた。
「……アル。後ろを向いて……?」
「うん?」
これ以上は、見るなとの仰せ。
残念だとは思うが、無理をさせる気もない。
そうしてクルリと背を向けると、砂浜を踏みしめる音がした。
俺の背中に、エイベルが寄り添っていたのだ。
「……は、恥ずかしいから、もう見せない……」
「うん」
「……で、でも、リュシカが作ってくれて、アルが褒めてくれたこの服装は……き、嫌い、じゃない……」
「母さんに聞かせてあげたら、きっと喜んでくれるね」
「……………………だめ」
キュッと。
服をつままれる。
「……リュシカは、間違いなく調子に乗る。……『第二弾』なんて作られたら、わ、私が困る……」
俺は大歓迎なんですけどねぇ?
「……だ、だから、このまま」
「……………………」
「……このままで、アルとふたりで、お話をしたい……」
――ああ、やっぱり。俺は、この人が……。
(あの子には、悪いことをしちゃったな……)
この島に戻る前。
この街の統治者の娘であるあの子に、俺は声を掛けられている。
(でも、後悔は何ひとつもない)
今、ここにある時間が、何よりも愛しいと思えているから。
「いいよ、エイベル。ふたりで、思いっきり楽しい話をしよう。バカバカしくて、価値なんか無くて。それでも今日を思い出したときに、自然と笑顔になれるような、そんな話を」
遠い海には、ぷかぷかと浮かぶまぁるいお腹。
岩の向こうからは、嬉しそうにはしゃぐ、大切な家族たちの声。
この風景の中にいられるというだけで、きっとこの場所に来た意味はあった。
大事な人とともに、青い空と、海のはざまに。




