第六百九十九話 翠玉の瞳に映る空(その二十八)
そこに現れたモノ。
それは、巨大な狼の姿。
体毛は金と銀と中間だが、『光色』とも呼ぶべき輝きを纏っている。
そこにいるのは、かつて存在した、聖獣の姿だ。
遠目からそれを見ていたロフ少年こと、巫女姫ルビナスは、腰を抜かした。
あんなものに――。
あんなものに、人間が勝てるわけがない……ッ!
それは既に、ヒトという次元を超えているのだ。
山を見上げて、『そのうち、アレよりも自分の身長は高くなるだろう』などと考える者がいないのと同じように。
比べる、という前提自体が、まず間違っていて。
輝ける狼は、目の前にいる『覆面』に、鋭い瞳を向けて吠えた。
《さあ、畏怖しなさいっ。これこそが、偉大なる主の奇跡の断片! 貴方如きでは到底及ばぬ、神聖にして高貴な姿なのです……ッ!》
響き渡るは、明らかに人の声とは違う、空気の振動ではない、別の何か。
空間が震えるかのような、魔力の声。
「ふぅん? 『聖骸解放』して姿が変わっても、ちゃんと自我を保ててるんだ? 思い込み強そうだもんね、アンタ。だからなのかな?」
変貌した姿を見つめながら、『覆面』は云った。
ロフには、意味が分からなかった。
何故、アレを恐ろしいと思えないのだろう?
何故、その身は震えていないのだろうと。
《私がこの姿になったからには、貴方には万にひとつの勝ち目もありませんよッ!》
「その姿にならなくったって、元からアンタのがずっと強かったじゃん」
そう。
勝ち目なんて、最初から。
《ええ、その通りです……。――が! 聖骸の力を解放したのは、これ以上、貴方の如き小バエに、下らぬ蠢動をさせぬためッ! そしてこの地に現れた死の気配を纏う『何か』を、この私が滅ぼすためですッ!》
狼は、吠えた。
絶対の決定だとでも云うかのように。
なお、彼の言葉に『シルルルスの排除』が無いのは、リシウス大司教がお墨付きを与えた男――狩人のドルトが始末を付けると思っているからである。
ベリアンは『主の絶対』を信じているが故に、他宗の崇拝者を軽んじる傾向にある。
それはそのまま、あのゆるクジラの力を見誤るということでもあったのだが。
一方、遙か『格下』でしかないはずの少年に、揺らぎはない。
光色の狼を、覆面の下からマジマジと見つめているようである。
「アレの眷属――。その、縮小量産型のほうだよね、その姿。『大元の狼』のほうじゃないなら、まあ、なんとか」
《なんとか……? その何とかとは、まさかこの身に『勝てる』とでも云うつもりなのですか……!?》
「ん? 何云ってんの? 俺程度が、小型種とはいえ、聖獣に勝てるわけ無いじゃん」
そう。
勝てるわけなんてない。
勝つことなんて、出来やしない。
あの狼には、単純な身体能力だけでなく、強力な遠距離攻撃――カノンまでもを備える。
勝つどころか、逃げ出すことだって不可能だろう。
《ならば、ひれ伏しなさい……ッ! 恐れおののき、頭を垂れなさい……ッ! 偉大なる主に唾するその愚かしさを心の底から懺悔するというのであれば、苦痛少なく逝くことを許可しましょう……ッ》
苦痛『無く』じゃなく、『少なく』なんだなと、アルトは肩を竦めた。
ベリアンは、この邪教徒を許すつもりはない。
だが、偉大なる主のための時間は惜しい。
そこで、きちんと謝れるのであれば、手足を食いちぎった後に殺すくらいの『慈悲』は見せてやろうと思ったのである。
本来ならば、何日にもわたる拷問にでも掛けてやるべき相手なのだ。
それを勘弁してやろうというのだから、聖騎士からすれば破格の待遇を示しているという形になる。
――が。
「生憎、俺はここで死ぬつもりはない。ヨボヨボになるまで生きに生きて、最後は耳の長い人に見送って貰おうと思ってるんでね」
あの人には、残酷なことかなと、彼はちいさく呟いた。
聖騎士は、激怒する。
《主の慈悲に泥を掛けるとは、どこまでも愚かしい……ッ! 死ねッ! 貴様は、今すぐに死になさい……ッ!》
「『即死』なら、苦痛が減ってんじゃん」
アルト・クレーンプットは、複数の術式を用意し、魔力を練り上げていく。
全ては、この獣と戦うために。
(切り札の『天球儀』を使わなかったのは、魔力の消費を抑えるためだ……)
己の魔力量は少ない。
だから出来ることを、最低限の魔力でこなさねばならない。
無駄な出費は、抑えねばならないのだ。
《絶対に勝つことが出来ないと分かっていて、なお蟷螂の斧を振るうのですか……ッ! 愚劣……ッ! 凡愚……ッ! 言葉を知りません……ッ! 死して己の不明を恥続けなさい……ッ》
カノンが煌めく。
それは一瞬にして石畳や建築物を消滅させる、破壊の光。
光は、『覆面』を吞み込もうとして――。
巨大な水蒸気を発生させて、消え去った。
《な……ッ!? 消え……!? 一体、何が……ッ!?》
ベリアンは狼狽する。
何事が起こったのかと。
聖獣の放つカノンを防ぐ手立ては、無いに等しいと彼は信じている。
仮にあの覆面が同じ聖骸白甲を纏っていたとしても、巨大な熱の前に、『鎧の中』はただでは済まないはずだ。
なのに、あのちいさな人影の周辺は、まるまる健在で。
地面に抉れが無いことからも、邪教徒が消滅したとは考えにくかった。
《あの小バエは、どこに消えたのです……ッ!?》
アルト・クレーンプットは――建物の上にいた。
水蒸気を目隠しに、素早くそこまで昇ったのである。
(下手に動かず、加えて『気配遮断』を使っていれば、今ここにいるのは、まあバレないよね……?)
大きく息を吐く。
無傷で回避はしたが、必死だった。
心臓は、今もバクバクと大きな音を立てている。
彼はカノンをどう捌いたのか?
それは、二年前のセロで『ミートくん』のカノンを防いだのと、ほぼ同じ方法だった。
カノンの性質は、気のままの魔力に極めて近い。
だからそれを衝突の寸前で『根源干渉』し、熱に変換、そのエネルギーを粘水で中和したのだ。
違いがあるとすれば、敵の放つカノンの威力がより大きいことと、アルト・クレーンプットの魔術師としての技量が、二年前よりも大きく向上していることだろう。
これによって、より安全にカノンに対処できるようになったのである。
(とは云え、この方法は魔力を大きく消耗する。何発も耐えられるもんじゃァないからね……)
つまり、すぐにでもカタを付けないと、身が保たないということだ。
「何を使うかなんて、もう決まっている」
神代、当たり前のように行使されるのは、『古式魔術』であった。
当時、人の身に魔導の構築は複雑に過ぎ、そのバカげた魔力使用量は、殆どの人間に扱えるものではなかった。
それらは精霊や妖精といった、上位種の使う特別な技術であったのだ。
それを簡略化、省エネ化し、人の手に魔術の恩恵をもたらしたことこそが、魔導歴の功績であったことだろう。
だが、幻獣や霊獣、或いは竜種といった強大な存在と戦う場合、『ヒトの魔術』では火力が足りない。
超越の存在と渡り合うための魔術は、ヒト以上の者が使う、『古式』にならざるを得なかったのだ。
(魔導歴の人々は、『古式』の代替え品として、『魔道具』を発展させた)
それは、『天秤』の高祖に危機感を抱かせるに充分なものであった。
人間の貪欲さは、上位種を超克する寸前にまで辿り着いてはいたのだ。
極めて危険で、危なっかしいものであったとしても。
(今、俺の手に危険な魔道具――いや、魔導兵器はない。そもそもそんなもの、持たせて貰えるはずもない)
だからあるのは、原点回帰。
聖獣に対抗するのは、古式魔術だ。
神代でも通用した、人ならざるものが使うべき、忘れられた術法。
そのひとつを、練り上げる。
《――! そこですかッ》
気配遮断を使っていても、アクションを起こしたことで、ベリアンはすぐに気付いた。
このへんが、彼が図抜けた実力者であることを物語るのであろう。
しかし聖騎士が相対する凡人は、この世界最強の者が手塩に掛けて育てた、ある種の異形。
常に格上と戦うことを想定され、そのための技術と知識を与えられてきた、人の世に不要なはずの戦力者。
《まだ無駄なあがきをするつもりですか! 貴方では、この私に絶対に勝てませんッ!》
――ああ、勝てない。勝てるはずがない。
それは何度も、云ってきた話じゃないか。
だが、アレが本物の聖獣ではないのなら。
聖骸解放という、ひとつの『仕組み』のうちならば。
「俺は確かに、お前に勝てない」
けれど。
けれどな。
「対処できないとは、云ってない――ッ!」




