第六百九十八話 翠玉の瞳に映る空(その二十七)
突き崩せない。
打ち倒せない。
斬り伏せられない。
聖騎士の戸惑いは、どんどんと大きくなった。
自分は目の前の邪教徒に圧倒的に勝る。
それは事実だ。
だが現実はどうだ?
自分の攻撃、その全てがすり抜けられていく。
技量で劣る相手に、ここまで捌かれるということはあり得ない。
理屈としておかしい。現象として不可解だ。
『覆面』は自分の攻撃を躱すことに手一杯で、他の何も出来ていない。出現したスライムが攻撃をしてくる様子もない。どうやら、指示を出すことすら出来ていないようだ。
(なのに、何故なのです……っ!)
ベリアンは、苛立ちを憶えた。
目の前の愚者が、神の摂理に逆らう悪逆の徒に思えた。
しかし、問題はそれだけではない。
「…………っ」
懸命に自分の攻撃を躱す目の前の邪教徒は、必死の悲鳴を上げなくなってきているのだ。
ギリギリで捌いていた動きは、少しずつなめらかに。決死の形相は、冷静な視線へと。
攻撃を繰り返すごとに、ベリアンの斬撃は邪教徒の命から遠ざかっているように見えた。
(間違いありません、この背教者は、『学習』している……っ!)
おそるべき早さで、学んでいくのだ。
己との間合い、攻撃の範囲、斬撃の速度、技を組み立てるときの、思考パターンまで。
(何なのですか、こいつは……ッ!?)
許せなかった。
あってはならないことであった。
存在として認められない。
あり方として許容できない。
一刻も早く、駆除したかった。
――聖騎士は知らない。
『覆面』の師。
あの静かなるエルフの少女は、自らの弟子に『敵を倒す』よりも、『生きて欲しい』と願っていたことを。
『覆面』が教え込まれたのは、どこまで行っても、『生き延びること』。
たとえ格上を相手取ったとしても、逃げて逃げて、生存できるようにと。
彼の魔術と剣の師は、自らの愛弟子を『生存特化』に育てていた。
そしてその方針は、槍の師にも厳命されている。
この少年、アルト・クレーンプットは、そうなるように訓練されていたのだ。
(ただ、逃げ惑っているだけ――そう考えるのは、明確な間違いですね……ッ!)
歴戦の強者であるからこそ、ベリアンは現在の状況をそう考えた。
しとめきれない。ただ、それだけ。
それだけでも、脅威。
それだから、脅威。
そう認識できることこそが、この聖騎士の強みであったことであろう。
正解であった。
ベリアンの認識は、この上ない程に正解であった。
時間を稼ぐという単純な戦法は、援軍がいる場合に限って、最大限の効果を発揮する。
もとよりこの『覆面』に、正々堂々たる戦いなどという観念はない。
強い者がいれば自分は逃げて任せるし、数を頼みに制圧できるならば、容赦なくそのカードを切る男であるのだ。
時を与えれば、この場に現れるのは、聖騎士以上の槍の使い手。
或いは、その槍術士をして、自らを上回ると云わしめる霊獣の使役者か。
または――。
ぞくり、という悪寒がした。
それは優れた戦士であるベリアンが嗅ぎ取った、遙か遠くにて発生した『死』の気配。
防壁の外にいた、控えの騎士たちの命。
その全てが途絶えたことを、感覚で知った。
刹那の後に天空に描かれる、光のクジラ。
ベリアンは、この世ならざる最強の戦力者の気配を、確かに感じ取ったのだ。
「何が――いるのです……っ!? 何が起きているのです……ッ!?」
今この地に、絶対たる『破滅』の化身が存在している。
時を掛ければ、それは必ずやってくる。
ベリアンは、恐ろしかった。
死ぬことが、ではない。
唯一無二にして完全なる正義である、主の御意志を叶えることが出来なくなるという、その不忠の未来が恐ろしかったのだ。
「主の御威光を阻むこと、まかりならぬッ!」
「まかり通るに、決まってるだろッ!」
剣閃は鋭さを増し、『覆面』に冷や汗が滲む。だが、彼はそう云い返した。
でなければ、子どもの命が失われる。
抗う理由は、それだけで充分すぎる程だった。
反撃が始まる。
逃げ惑う合間合間に、水弾が飛んでくる。
ベリアンは、ぬかりなく、けれど確実に躱す。
聖骸白甲に通常の攻撃は効かない。
だが、この悪辣無道な存在が、『通常』などという攻撃をしてくるものかよと、当たりを付けた。
彼は開戦の当初から『覆面』の放つ水は、毒か呪いと決めつけている。
実際、アルトが狙っているのは、相も変わらず『窒息』なのだから、それは正解ではあるのだが。
(問題は、そこではありませんね……)
拙いながらも、反撃が始まっていること。
目の前の邪教徒の『学習』は、もうその段階まで到達している。
聖騎士は、そこに危機感を抱いた。
既にこの地には、強大な『何か』がいるのだ。
その『何か』は、或いは禁忌領域にも匹敵する戦力者なのかもしれぬ。この場で時間を蕩尽するわけにはいかなかった。
加えて、今、目の前で対峙しているのは、隙を与えてはいけない別の『何か』だ。
最早、これ以上の時を掛ける愚は避けるべし!
ベリアンは、決断を下した。
彼は、後方に跳躍する。
接近戦にこそ活路を見いだしていたはずの彼が、自分から距離を取ったのだ。
「光栄に思いなさい、邪悪なる背教者よ。今から貴方に――」
口上の最中であるが、アルト・クレーンプットはこれ幸いとスライムを嗾け、水弾を発射している。好機に『待ってやる』といった思いやりは、彼には無い。敵に変身ヒーローがいれば、変身中に躊躇無く攻撃する男であったのだ。
他方、ベリアンは怒らない。
この聖騎士には『邪教徒は卑劣である』という確固たる偏見が存在しているため、こういった反応も織り込み済みなのである。
偉大なる主を直截に侮辱しているわけではないから、コスい些事になど目くじらを立てる必要もない。
自分はただひたすらに、神の正義を執行すればよい――。
「偉大なる天上の主も照覧あれッ! この身は大いなる正義の忠実たる僕なれば、ここに奇跡の断片を武威として輝かせんッ! 主の眷属たる星の聖獣よッ! 尊き御方に従順たらんと欲するならば、その骸に今ひとたびの息吹を横溢させよッ! 我はいと聖なる御稜威によりてその身を覆い、天に反逆せし、まつろわぬ邪を討つ者である……ッ!」
聖騎士の纏う聖骸白甲が、光を放ち始める。
かの装甲は、頑強であるだけにあらず。
聖骸であるが故に、聖獣の力を有するのだ。
『覆面』は、肩を竦める。
「あぁっと……。そいつは聖骸白甲だもんなァ……。そういうインチキが出来る類の遺物なわけだよな」
聖骸解放――。
一時的に聖獣の力の一部を顕現させる、白甲を纏える者だけに許された、聖騎士の秘蹟。
人の身のまま力を得る場合と、聖獣の姿に転身する場合の二種があることを、『覆面』は知っている。
「人間の身体でそんなことをすれば、副作用も大きかろうに、ようやるねぇ……」
まばゆい光は、『覆面』に云い返す。
「愚昧ッ! 短慮にして、不信心ッ! 不惜身命は喜びであるッ! 義務であるッ! 命などというものは、主の正義に比べれば、塵芥ほどの価値も無しッ! 惜しみ、怖れるのは、偉大なる天上の御方の正義を実行できないという不忠に対してのみ抱くものッ! 私と貴方とでは、志が違うことを理解しなさいッ!」
「するわけないじゃん。俺、ただの庶民だし」
誰に聞こえるわけでもない言葉を、『覆面』は呟いた。
アルト・クレーンプットの放つ攻撃は、『変身中』の光に悉く跳ね返され、一気に吞み込んでやれと嗾けたスライムは、聖骸の力によって消滅した。
「愚かしい……ッ! 主の恩恵の前には、そのような攻撃など、蚊ほども効かぬ……ッ! 通じるわけがないのです……ッ!」
「いや、それ主の恩恵じゃなくて、聖骸の力だろうに」
「貴方如きが、まるでこの力を知っているかのような口を利くなど、笑止千万ッ!」
その言葉に、『覆面』はそっと呟く。
「――うちの先生の授業で習ったよ。ありがたいことに、教材付きでね」
教会の聖騎士と偽りの星騎士。
その戦いは、最終局面へと移行する。




