第六百九十七話 翠玉の瞳に映る空(その二十六)
ベリアンは、達人である。
個によりて群を討つことの出来る、強力な戦力者だ。
これまでも、幾多の難敵、まつろわぬ軍勢を、単騎で屠ってきた。
そんな彼だから分かる。
目の前の子どものような『何か』は、取るに足らない腕前だ。自分のほうが、圧倒的に勝っている。
それは、この聖騎士個人の誤った見立てではなく、客観的な事実であった。
――しかし、だ。
優れた技量を持つ『達人』だからこそ、聖騎士ベリアンは、目の前の邪教徒が、ただ者ではないと見抜いた。
「う、うわわ……っ!?」
今も必死になって、己の斬撃を躱す異教徒。
回避行動に全神経を集中させているのだろう。手にしている飾り気のない剣を、振るう様子は全くない。
(『格下』……。強さ的には、圧倒的『格下』ですが……)
けれども、己の経験が告げている。
決して、油断すること無かれと。
懸命に逃げ惑うだけの弱小者とは違う、一種異様な『何か』を感じる。
時を与えて良い存在ではなく、すぐにでも殺さねばならぬ類にいるものだと。
(まさか本当に、『星騎士』だとでも、いうのですか……?)
自分の知識にはない体捌きは、確かに侮って良いものではなく。
更に妙なのは、『格下』であるのにも関わらず、未だに手傷すら負わせることが出来ていないという、奇妙な現実にあった。
(先程始末した、銛を使う神殿戦士よりも数段劣った使い手であるというのに、どうして追い込めないのです……!?)
もしや目の前の異教徒は、第六感でも持っているとでも云うのだろうか。
しかし、その割には立ち回りが泥臭い。
僅かに残る神代の伝承とは、かけ離れているような気がした。
刹那。
「――――ッ!?」
ベリアンは、急遽飛び退く。
目の前の子どものような存在と戦闘しながらも、周囲がよく見えている証左であった。
果たして、彼のいた場所に、何かが飛びかかっていた。
「スライム――ッ!? この邪教徒は、テイマーですか!?」
そこにいた者。
それは、半透明な水の塊。
寒天かゼラチンのように、ふるふると震えている。
アルト・クレーンプットは、肩で息をしながら、胸中で呟く。
(粘水……。躱すのに必死で、練り上げるのに時間が掛かった……)
一方でベリアンも、こう考えた。
(この背徳の街がこのような魔物を飼っているなど、一度として噂にすらなかった。そも戦力になりえるのであれば、もっと早くに投入していたはず。となると矢張り、このスライムは目の前の邪悪な存在が呼び寄せたもの――と、判断すべきですか)
矢張り、侮って良い存在ではなかった。
従魔と一体になったテイマーの力は、想像を絶するものがある。
(この妙なスライムの動きは鈍い。斬るのは容易い――と、直情的に考えてはいけませんね……)
彼は幾多の経験から、『触れてはいけない』類の魔物がいることを知っている。
それはたとえば猛毒の保有者であったり、強力な腐食性の酸をまとう者であったりだ。
ベリアンの使う剣は紛れもない業物であるが、無欠ではない。
安易に斬りかかって良いというものではなかった。
(これは、万が一にも考えておかねばなりませんね……。『聖骸』の力を、解放する可能性を……!)
彼は剣を構え直し――直後に自分の判断が正しかったことを知った。
(水弾……ッ!)
放たれたのは、無数の水球。
まるでベリアンが躱すことを想定し、その場所まで分かっていたかという程の、絶妙な攻撃だった。
しかし。
「避けられる、かァ……」
『覆面』は、さして残念そうでもない舌打ちをする。
たぶん通じないだろうなという予測は、立っていたのである。
「妙な体捌きだけでなく、魔術にも長けているのですか……っ」
寧ろ、そちらが本分ではないか、と、聖騎士は看破してのけた。
『覆面』は云う。
「……その鎧、丈夫なんでしょう? たかだか水の塊くらい、喰らっても問題ないでしょうに」
「口を慎みなさい、穢れた邪教徒よ。この鎧は、主の御威光の発露。で、あるならば、効く効かないを抜きに、触れさせることすらしようとしないのは、当然のこと」
どちらも、まともな応対などしない。
ベリアンはあの水を、『毒液』と見た。
或いは、水状の『呪い』か。
彼は聖骸白甲に絶大な信頼を寄せており、従って我が身が傷つけられると思ってもいないが、『隙間』を狙う輩はどこにでもいると考えている。そういうものは、一律に悪辣なものだ。
喰らわないに、しくはない。
(尤も、この白き鎧には、毒や呪いを即座に治癒する浄化の効能もありますがね……)
単眼の兜の男は、『覆面』を睨み付ける。
一方、視線を向けられたほう。
彼は、こう考えていた。
(粘水弾で顔を覆って、丈夫さ関係無しに窒息させてやろうと思ってたのにな……。まあ、このレベルの技量の相手に、簡単に当たるはずもないか……)
それでも、息を整える時間が出来た。それだけでも、御の字とすべきだ。
『覆面』は、自らの戦闘スタイルは、『距離を取ること』にあると規定している。
自分は凡人である。
力業で他者を上回ることはない。
故に、常に考え続けること。
思考を巡らせ、正解に辿り着くこと。
『距離』というのは、そのための時間を作ってくれる。
魔術にしろ槍にしろ、全てはそのために選択されたものなのだ。
「……行けっ」
粘水のスライムをけしかける。
「行け」などと云ってはいるが、実際は必死こいた『手動』である。
ベリアンは、それを躱す。
悉く躱す。
だが、警戒はしているらしい。動作が大きかった。
向かってくるスライムが、毒か呪いの集合体と考えたが故の仕儀であった。
スライムを避けると、狙い澄ましたかのように水弾が飛んでくる。
躱すたびに、こちらの避け方を『学習』しているかのようであった。狙いがどんどんと、精密化していく。
実に老獪で、厭らしい戦い方であった。
聖騎士は目の前のちいさな人影が、こういった悪辣な戦法を好む人柄であると即座に了解した。
(矢張り、時間を与えて良いタイプの敵ではなかったようですね……)
攻勢に転じるべし!
さもなくば、更に悪質な攻撃を仕掛けて来るであろう!
そう判断した。
聖騎士は剣を持った両腕を垂らし、それから弾丸のように突進した。
『覆面』は慌ててスライムをけしかけるが――。
「フンッ!」
ベリアンは石畳に剣を突き刺し路面の一部を吹き飛ばし、スライムにブチ当てた。
その衝撃で、スライムが押し返される。
『覆面』は焦った。
(ぐぅ……ッ! 粘水を操作しやすいように設計したから、魔壁にするときよりも『押されること』に弱くなってるか……!)
スライム自体が破壊されることはなかったが、直線的に向かってくる単眼の兜の男の進路を遮ることが出来なくなった。
(マズいぞッ! また目の前で斬られまくったら、躱すのに手一杯で何も出来なくなる……っ!)
力量に、大きな差があることを、両者は知っている。
つまり接近戦こそが、この戦闘のキモとなるのだ。
だから『覆面』は、大きく後方へと跳躍する。
たとえそれが、その場凌ぎの時間稼ぎでしかなくとも。
「矢張り貴方は、接近戦こそが最も不得手であるようですねッ! 近付けば、私の勝ちだ……ッ!」
それは正解だ。
だが、認めない。
そんなことを、するつもりがない。
この攻防で、『覆面』は知った。
目の前の聖騎士が、自分より遙かに上の使い手であることを。
だが同時に、己の槍の師のほうが、上手であることも。
(こいつは、ヤンティーネに及ばない)
だから、云うのだ。
ならば、云うのだ。
「お前程度に、負けてなんかやるものか!」




