第六百九十四話 翠玉の瞳に映る空(その二十三)
狩りが好きだ。
幼い頃から、獣を狩るのが好きだった。
至聖神教会・南大陸支部に在籍する大司教、リシウスに呼ばれた男。ドルトは、生粋のハンターであった。
人は生身では獣に勝てない。
強い武器か、魔術がなければ、歯が立たない。
その『上位者』である獣どもを超克する。
だから、狩人なのだ。
それは、人が困難を乗り越えた証だから。
強い弓を。
より強い弓を。
ドルトは、求め続けた。
資金は全て、そのために使う。
彼は文字通り、『獣に勝てれば、それでいい』。
そのためならば、命も要らぬ。
事実、彼の身体は、つぎはぎだらけだった。
獣との死闘が、そうさせたのだ。
初めは、弱い獣を。
しかし次第に、より強い獣を。
ただの野生動物ではなく、強者を求めた彼は、だからやがて、魔獣や妖獣と呼ばれるモンスターすら狩るようになった。
左肩の一部。
或いは右脇腹。
右手小指。
左足の指二本。
それらは、既に無い。
食いちぎられたり、壊死した結果だ。
それでも構わない。
まだ狩れるなら。
欠損があっても戦えるならば、それで充分だった。
ドルトの望みは、強い獣を狩ること。ただ、それだけ。
それは陸だけでなく、海でも同じだ。
彼は弓の名手ではあったが、ナイフや銛を片手に、シャチやサメを倒したこともある。
強い獣ならば、何とでも戦った。
そんな彼は、自分の『終着点』。
最高の得物を探すことにした。
いつの間にやら、全身に激痛が走るようになったのだ。
そして狩り以外で初めて大金を投じて雇った医師・ジャクスローという男に、
「貴方の身体はボロボロだ。このままでは、数年でベッドの上から動けなくなるでしょう」
そう云われた。
腕の良い男だった。
少なくとも、今までドルトが出会った刀圭家の中で、最高だった。
その男が云うのだ。
この身は、最早滅び行くだけだろう。
死ぬのは怖くない。
だが、『たくさんの獣を倒しただけ』というのでは、自分の人生に満足が出来ない。
誰もが認めるような。
誰もが驚くような。
そんな獣を討伐したい。
それが、ドルトの望みとなった。
「――ドルトくんと云ったか。キミは、強力な獣さえ倒せれば、命などいらないというのだね?」
得物を求め、南大陸に赴いた彼に、至聖神教会の大司教、リシウスは微笑んだ。
そうして、彼の手には、一本の矢がある。
それは、特別製の術式を彫り込んだ布で幾重にも巻き付け、その上で魔力封印の箱に入れてなお、瘴気を放つ漆黒の矢。
生身の人間がそのまま素手で掴めば、即座に腕が腐り落ちる程の、禍々しい魔力を秘めた、呪いの矢であった。
大司教は云う。
「我ら教会は、世のため人のために、こういった危険な武具の管理も買って出ている。これは、そんなもののひとつだ。――もしもキミの、『目標に命をかける』という言葉がウソでないと云うのならば、この『矢』を貸し与えても構わない」
ドルトに、迷いはなかった。
即座に了解した。
彼は持ち前の嗅覚で、目の前の老いた僧侶が『善』などというものから程遠い存在と気付いたが、そんなことはどうでも良い。
ただ、獣を。
強い獣を狩ることさえ出来れば。
(そうだ。俺の命は、そのためだけのものだ……)
彼は『封印の箱』を担ぎ、その場を後にする。
その姿を、老いた神官が見送っている。
「……異教徒どもの街を滅ぼすのも、あの呪具の効き目を試すのも、全てはひとえに、ファピアノ枢機卿のために……」
『矢』の効果は、本物である。
野の獣どころか、魔獣・妖獣の類であっても、あれで射られればひとたまりもあるまい。
何しろ単純な威力でも、鉄製の城門すら粉砕する程の威力を有する。
加えて、生き物が巨大な重力のように押しつぶされ、ひしゃげてしまうだけの呪いを纏っているのだ。
破壊と死滅に特化した、逸品であることには間違いがない。
「――が、それでも」
あの聖獣の命にまでは届かないだろうというのが、彼の敬愛する枢機卿の見立てである。
だから問題は、『どの程度の効果を発揮するか?』。その一点を見極めたいのだ。
(神代より生きる生物……。それも、大崩壊でも死ななかった怪物ともなれば、あの御方が警戒するのも、当然の話よな……)
あの男は、そのための捨て駒だ。
せいぜい有用なデータを提出してくれよと、老いた神官は笑った。
それはまるで、祖父が孫を見守るかのような、柔和で優しい笑みだった。
そういう笑顔の出来る男で、彼はあったのだ。
※※※
とある島――。
リュシカ・クレーンプットや、その愛娘のノワールが隠れている場所とは違う島に、ドルトは立っている。
「…………」
彼は、打ち震えていた。
遠方の砂浜近くに見える海獣の、その姿に。
(何と云う生命エネルギー! 何と云う雄大さだッ! これこそ、俺が命をかけて狩るに相応しい得物ッ!)
天性の狩人であったドルトは、そのゆるクジラを見ても、外見の『間抜けさ』などに惑わされることがない。
ただひたすらに、これまで斃してきた獣たちとの差に驚くばかりである。
彼は歓喜の笑みを浮かべ、躊躇無く箱の封印を解いた。
手に持った『矢』は、その瞬間にドルトの肉体を崩壊させて行く。
激痛にさいなまれながら、それでも彼は、『これでいい』と笑った。
これ程の呪具であればこそ、あの力と生命の権化。巨大なる海獣を、始末することが出来るだろうと。
(ああ、こいつは本当に凄い……っ! 壊し、殺すことに特化した器物だ。伝説にしか存在しないエルフの高祖に、『破滅』とやらがいるそうだが、俺にとっては、まさにこれこそが……!)
血液が沸騰する。
灼熱した赤い液体は血管を破裂させ、外部に血と肉を飛び散らせた。
ドルトは、その中で哄笑した。
夢が叶う、という希望の前には、全てが等しく無価値なのだ。己の命ですら、例外なく。
――知らぬ、ということは、幸いである。
彼が『おとぎ話』だと決めつけたエルフの高祖――彼女の使う破壊の魔術は、そんな段階ですらない。
そして、なおタチの悪いことに、彼が仕掛けようとしている相手――あのゆるクジラは、悪辣非情な存在であった。
それはゆるクジラの性格ではなく、どこまでも『強い』という意味で。
ひたすら脳天気で、ただプカプカと浮かんでいるだけであるが故に、『無力』を思い知らされたときの徒労は、凄まじいものがあるのだ。
少しだけ、昔話をしよう。
幻精歴と呼ばれた、力持つ幻獣が、世界の主役であった頃の話だ。
その頃の北大陸の海には、二頭の海の覇者がいた。
北海の勢力を二分し、その覇権を賭けての一騎打ち。
大半の竜すら上回るその二頭の実力者は、ついに雌雄を決しようとしていた。
両者は巨体。
強靱な肉体と強力な再生能力を持つが故に、その戦いは二ヶ月にも及んだ。
その戦闘の余波は凄まじく、僅かでも知性のある生き物であれば、危機を感じ、皆逃げ出した程だ。
しかし、その死闘もついに決着を迎えようとしていた。
二頭の覇者は、最後にして最大最強の一撃を繰り出そうと試みた。
全てにケリが付く、極限の状況!
……まぁるい巨体が、どんぶらこ、どんぶらこと流されてきたのは、そんな折りだ。
「…………」
「…………」
海の王者たる二大巨頭は、同時に目を逸らした。
見たくなかった。
そいつの姿を、見たくなかったのだ。
一切の苦労がないかのような、脳天気な顔。
『間抜け』以外の形容のみつからぬ、呆とした表情。
生涯最高の敵手と定めた相手との悔い無き死闘の最中に、何でそんなものを見なければならない!?
気が抜ける。
戦いが茶番に塗り変わる。
全てが――台無しになる。
だからイヤなんだ。
こいつを見るのは。
そいつは、腹を見せて浮かんでいた。
もの凄く、邪魔だった。
もしもこの場に並の者が出しゃばってくれば、二頭の覇者は怒りにまかせ、即座に排除に及んだことだろう。
至高の戦いを、穢されるわけにはいかないのだから。
だが、両者は攻撃しなかった。
だって、無駄だから。
どうせ自分たちの攻撃なんて、こいつには通じない。
何の効果も及ぼせない。
しゃくに障るが、それが現実であった。
巨体は、いつまでもそこに浮かんでいる。
風任せ、波任せなので、放っておけば、ずっと居座る。
以前見かけた二百年くらい前も、どこぞの入り江で枯れ葉か枯れ枝のように陸地に引っかかり、半年くらい、そのままだったはずだ。
「…………」
「…………」
二頭は、同時に頷いた。
そして協力し合い、波を起こしてそいつを押し出した。
そいつも、特に抵抗をしない。されるがままである。
やがて別の海流に乗ったのか、見苦しい巨体が、どんぶらこどんぶらこと遠ざかって行く。
「…………っ」
「…………っ」
二頭は視線で、ガッチリと握手した。
……と、いうことが、過去にはあった。
歴史書にも載らない、迷惑な事件であった。
さて。
呪いの矢だ。
その威力は、リシウスの申告通り、分厚い鉄の門すら易々と破壊する程である。
逆に云えば、それだけでしかない。
数多の海獣・幻獣を倒し従えた、神代海域の覇者二頭の極限攻撃になど、及ぶべくも無い。
そんなものに。
そんなものに命をかけることに、意味など無かったのだ。
全魔力と生命を込めたドルト最高の一射は、ゆるクジラの柔らかボディの前に、ぽよんと跳ね返され、ぽてんと砂浜に転がった。
周囲を押しつぶす程の呪いは、ゆるクジラの身体にぶつかった瞬間に全パワーを消耗させられ消滅し、ただの矢となって、無力に落っこちている。
「――――あ?」
という、怒りと呆れ混じりの声を上げたのは、狩人のドルト。
その視線の先には、恐ろしい程の間抜け面があった。
(何? 何~? 何か用なの~……?)
という感じで、男を見つめている。
残念ながら彼の攻撃は、クレーンプット・シスターズが大喜びでバシバシ叩くのと、大差ない影響しか与えなかったのである。
……その矢は、射撃手の全てを破壊し、奪うはず、であった。
だが、ゆるクジラの前にその力を失い、しかも撃ったほうもあまりの理不尽さに気が抜けて、昏倒をしてしまった。
結果として、ドルトは死ななかったのである。
それが良いことなのか悪いことなのかは、さておいて。
意識を失う間際、彼は呟いた。
「……やってられるか!」
それは遙かな時を超え、幻精歴で覇権を争った二頭の覇者と、全く同じ呟きであったことであろう。
街の上空に、光のクジラが描かれる、ほんの少し前の話である。
凄くどうでも良い設定。
白海深王・ガルギメス。
七大海王のうちの一体。体長70センチくらいのダイオウグソクムシ。
『命の季節』の最初期より存在し、三度の大崩壊でも死ぬことの無かった頑健無比な身体と、聖獣シルルルスに匹敵する強大な戦闘能力を誇る…………はずだが、日がな一日、海底でぼ~っとしているだけである。
自分から動くことはあまりなく、時たまカイコウオオソコエビたちに混じって、落ち葉をはむはむしているだけの存在。
なので他の海の生き物たちには、微塵も脅威と思われていない。
海王の一角と知っている者のほうが稀という、のんびり屋。
……他に、タコの海王とカメの海王が、同種の怠け者である。




