第六百九十三話 翠玉の瞳に映る空(その二十二)
出立前。
聖騎士ベリアンが部下の教会騎士たちに命じた指令は、実にシンプルだった。
即ち、この街に生きる者ども全てを皆殺しにせよ。
これは『悪を討つ』という絶対にして重要な理由もあるが、同時に目撃者や逃亡者を出さないためでもあった。
偉大なる主の善なる御心を、万が一にも『残忍な悪行』などと吹聴されたら、たまったものではない。
そのようなことは、あってはならない。
だから、鏖殺なのだ。
神の教えに背く邪教徒どもは許せないし、その善行を故意か誤解か歪められ拡散され、主の御名に傷が付くことも断じて認められない。
それを弁えているからこそ、聖務に励む教会騎士たちは、ベリアンの指示を徹底した。
逃げ惑う者も命乞いする者も隔てなく、容赦なく斬り捨てた。
良心は痛まない。
なぜならば、これは絶対善。
徹底しない方が、寧ろ『悪』なのだから。
――彼らは知らない。
ならば、『同じように考える者』もいるという、その現実を。
ツバの広いとんがり帽子に、青いローブを着た少女の前に、二名のハイエルフが跪いている。
腰に細身の長剣を提げた『始まりのエルフ』は、そのふたりにただ一言、こう云ったのだ。
「……殄戮する」
殄戮――つまりは、殺し尽くすの意。
甘い声は無機質に淡々と、そう告げた。
二名のハイエルフに、否はない。
打てば響くように、高祖へと同調する。
「御意っ!」
「御心のままに」
かくて、三名。
わずか三名のエルフによる、教会勢力への攻勢が始まる。
※※※
「た、たすけて……っ!」
叫びを上げて、逃げ惑う人がいる。
そんな相手を追い回す鎧の男は、薄笑いを浮かべていた。
「『助けて』だと? 違うだろうがぁ……っ、こういう時は、『ありがとうございます』だ! 唯一にして絶対の善たる主の御許へ行けるのだからなァ……ッ!?」
男は、高揚している。
自らが正義の側にいるという自負が、そうさせているのだ。
対して、逃げるほうには、絶望しかない。
救いなど、どこにもなかった。
そして、刺し貫かれた。
逃げるほう――ではなく、教会騎士の男の胸部が。
「あひぇ……?」
男は、薄笑いを浮かべたままに振り返る。
意味が分からなかった。
何故自分の胸から、槍が生えているのか。
それは黒く。
闇のように黒く。
漆黒の霧で出来たかのような、人のカタチ――。
全てが黒く韜晦され、男を刺し貫いた、槍までもが黒い。
靄のような黒色をくゆらせながら、『そいつ』は云った。
「――どうした、こういうときは、『ありがとうございます』だろう?」
「いひぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!?」
男は、痛みと驚愕で叫び声を上げた。
黒霧の人影は、無感動に槍を振るって、串刺しになっていた男を壁面へと叩き付けた。
人影は、逃げ惑っていた人物を見た。
その人物は、ちいさく悲鳴を上げた。
それは、無理からぬことだ。
だからか、黒い人影は余計な口を開かなかった。
ただ一言、絞り出すかのように、
「……クジラの加護だ」
とだけ呟き、姿を消す。
命を救われ、立ち尽くしていた人物は、
「聖獣様の……?」
と、呆然としながら呟いた。
※※※
第四避難所――。
大規模な避難所のひとつであり、特に女性と子どもが多く避難する、第六避難所に次ぐ拠点である。
なので、両陣営とも、この場に戦力を割いている。
そこでは神殿戦士が懸命に、教会騎士たちの進入を阻んでいた。
しかし、戦力差はいかんともしがたい。
防衛側は、徐々に劣勢に陥りつつあった。
一方、教会騎士たちは、勝利が近付いたことを確信し、ますます攻勢を強める。
『それ』が現れたのは、そんなときだ。
漆黒の霧を纏った人影が、真っ直ぐにやって来る。
「何者か……ッ!?」
というのは、双方共通の認識であったろう。
黒霧の人影は質問に答えず、腕を振り払った。
瞬間。
鋭利な颶風が迸り、教会騎士の首がズルリと落ちた。
「風の魔術ッ! こいつは邪教徒……ッ! 邪教徒の側だ……ッ!」
教会騎士たちは散開し、黒い人影を半包囲する。
避難所を守るシルルルスの神殿戦士よりも、一撃で同胞の首を落としてのけた闖入者のほうが、圧倒的に脅威であると認識したのだ。
それと同時に、黒い人影の中から、黒い何かが飛び出した。
それは、掌にのる程にちいさく。
けれどもすぐに、二メートルを超える巨躯へと変貌する。
誰の目にも、黒い霧をたゆたわせた、漆黒のリスのように見えた。
「まやかしかッ!? それとも、邪術の類かッ!?」
人影は答えない。
返事とばかりに、黒い獣が突っ込んできた。
「ぬぅぅ……っ! 構ェェェいッ!」
教会騎士の、ひとりが叫ぶ。
その声に呼応するように隊列を変形し、騎士たちは密集して剣を獣へと向けた。
このまま推移すれば、剣山のような刃が獣に突き刺さるであろう。
しかし次の瞬間、彼らは見た。
まるでガラスのように、剣が粉砕される様子を。
獣の柔らかな毛皮は、それ程までの強度を誇っていたのである。
そして驚くよりも早く。
振り下ろされた腕としっぽが、男たちを吹き飛ばした。
彼らの纏う鎧は聖騎士の着る聖骸白甲程でないにせよ、相当に頑強である。
それらが瞬時にへこみ、ひしゃげ、鎧としての用を為さなくなった。
――尤も、彼らは超高速で壁に叩き付けられている。
仮に獣の攻撃に耐える強度があったとしても、『中の人』は無事では済まなかっただろうが――。
「…………ッ!」
「……うそ、だろ……?」
シルルルスの戦士たちは、驚愕している。
教会騎士たちは、雑兵ではない。
恐るべき戦力を持った、手練れ揃いのはずだ。
それを、いとも容易く屠り去るとは……!
黒い人影は、彼らを振り返る。
戦士たちは、身を竦めた。
確かにこの黒い人影と獣は、教会騎士たちを斃した。
だがそれは、自分たちの仲間であることとイコールではない。
仲間割れや第三勢力の敵かもしれない。
そいつは、呆然としながら武器を構える彼らに云った。
「幼い子どもを守るための奮戦、大儀です。もしも幼子を見捨てるようなマネをしていれば、貴方たちを助けることはありませんでした。私の責務は、鼠賊の殲滅ですので」
云うだけ云って、立ち去ろうとする。
しかしその途中で、黒い影は振り返ったようだった。
「……これは、聖獣様の加護です。そういう設定になっております。――引き続き、命をかけて子どもたちを守るように」
そうして今度は、本当に歩き去った。
黒い獣を、従えたままに。
※※※
街の外――壊された門のほど近くに、異変が起きる。
黒いちいさな人影が、『彼ら』の前にやって来たのだ。
彼ら――教会騎士たちは、自分たちのいる方に向かって来るちいさな人影を、降伏の使者とは考えなかった。
異相。
あまりにも異相であったから。
まるで『闇』を直接纏ったかのような姿は、彼らには悪しき者に映った。
教会騎士たちは、即座に隊伍を組む。
隊を組める……つまり彼らは、シルリアンピロードに攻め込んだ部隊の中で、最大の人数を有している。
それは、街からの逃亡者を確実に殲滅するために。
或いは、大を成した神殿戦士たちが向かってきた折に、正面から打ち破るために。
そのために彼らは、街の人間の逐電を許さず、かつ戦いやすい地形に人数を割いて待機しているのだ。
これは彼らの頭目たる、聖騎士ベリアンの指示による。
つまり彼らの首魁は騎士としての単独戦闘能力だけでなく、一定以上の戦術眼を持った、指揮官としての資質も有していることを示している。
それは、万が一ケーンの試み――教会勢力のトップを道連れにする――が成功していたとしても、脱出が困難であったことを物語る。
そのことをもしもケーンが知れば、頭を掻いて、ぼやきのひとつでも入れたことであろう。
騎士たちは、黒い霧に包まれたちいさな相手を、すぐさま敵と定めた。
このような存在など、彼らの『教え』には無いのだから。
目の前の現れた者は、闇の邪精か、それとも凶悪な魔物か。
いずれにせよ、『悪』に属する存在であることには違いあるまい。
尤も、そんな彼らの心の動きを目の前の『人影』が聞けば、不快に思うかもしれない。
この『闇』は、彼女の大切な家族のひとり――黒髪の幼女がかけてくれたもの。戦いに赴く三人に、周囲からエルフだと気付かれぬよう、姿を隠す闇の魔術を使ってくれたのだから。
幼い精霊は、大好きな母親を守るために、今もあの島に留まっている。
そんないたいけな幼女が、仲良しなエルフたちのために、懸命にかけてくれた術式なのだ。『悪』などと断じられれば、エルフたちの気分を害することになるだろう。
尤も、機嫌の善し悪しは、最早関係のない段階ではある。
この人影――『破滅』は、既に教会騎士たちを排除すると決めてしまっている。
この決定を覆すには、単純に、彼女を上回る戦闘能力を行使する以外に無い。
そして、そんなことを出来る者など――。
「全員、構えェッ!」
指揮官代理が、号令を下す。
彼らも彼らで、『降伏を許す』という選択肢はない。命乞いなどで、絶対的正義は揺るがない。
だが、『速やかな死』を望むなら、話は別だ。
「そこな人影よ! 人語を解する知力はあるか!?」
「…………」
ちいさな闇は答えない。
その必要を、認めない。
「知性がないか。或いは礼を知らぬ無法者かッ! いずれにせよ、応じないというのであれば、それでも良い! 我らは速やかに、貴様を駆除するものである! ――聖騎士は云うに及ばず、その従騎士であっても隊を成せば一国も堕とすという我らの力、自らの死を持って知るが良いッ!」
教会騎士の集団は、一国にも匹敵する――。それは確かに誇張ではあった。
だが、その言葉を聞く者の多くが、それを信じた。
彼らの武力は、そう信じられるくらいには突出していたのである。
なればこそ、南北にある数多の国が、至聖神の教会を憚ったのだ。
しかし、だ。
一国。
たかが、一国。
その程度の戦力で、この世界最強の――神代より生き続け、戦い続け勝ち続けた不敗の存在に挑むなど。
『破滅』を知る者が聞けば、愚かしいという言葉以外、出なかったであろう。
「かかれェいッ!」
指揮官代理は、勇ましく号令をかけた。
それは、正義の実現のために。
けれども実態は、死の行進でしかなく。
駆け出した騎士は、三十騎。
精鋭の三十騎。
わずか一個小隊程度の人数であっても、『人の世』では、十二分に脅威となる戦力。
けれどそこにいるのは、『神代』においてすら、最強と呼ばれた者。
「……※※※」
紡がれたのは、ちいさな言葉。
ごくごく短い、神代の単語である。
古代精霊語でもなく、幻想真言でもない。
神代聖句と呼ばれる、始まりのエルフ本来の言語。
街の外には、教会騎士たち以外の何ものもいない。
だから彼女は使える。
確実に命を刈り取る、神域の魔術を。
『滅する』と決めた以上、『破滅』は手を抜かない。
たとえ騎士たちの中に、人を超えるような戦力者――たとえば彼女の大切な家族にいるような、『根源魔力干渉者』や『魂命術適性者』や、『世界改変の能力者』がいようとも、確殺出来る魔術を放ったのだ。
彼女の人生は、意外な強敵。唯一無二の異能。未知の魔術の使い手との戦いの連続であった。
だから始末を付けると決めた以上、『紛れ』は許さない。
確実に勝負を決する。
――明滅は、刹那にすら満たなかった。
黒い霧をたゆたわせるちいさな人影の前には、静寂だけが広がっている。
まるで風景はそのままに、人間だけが消失したかのように。
彼らは、自らの『死』を認識出来たであろうか。
魂すら消滅し、アルト・クレーンプットやノエル・コーレインのような、『次』すらない。
完璧なる終わり。
確定した『破滅』。
そのエルフと敵対するということは、文字通りに全てを失うのだ。
静寂の中、彼女は街の上空に光の魔術でクジラの絵を描く。
それは王都の空でやったように。
或いは、セロの街でそうしたように。
何者が自分たちを救うのかと、明確に示すために。
彼女が大事な弟子から学んだ、ひとつの手法なのであった。
「……アル」
エルフの高祖は、この場にいない教え子の身を案じていた。




