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妹のいる生活  作者: むい
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第六百九十話 翠玉の瞳に映る空(その十九)


 怒号。喧噪。悲鳴。絶叫。


 外部から聞こえる悲劇の渦の中にあって、ちいさな巫女姫は工房の中で震えていた。

 そんな彼女を、師のヘルロフが抱きしめている。


「ルビィ。ジッとしてろよ……。そうすりゃ、ケーンが全部片付けてくれる……」


「う、うん……」


「絶対に、外に出るんじゃないぞ……」


「わ、わかってる……」


 云われるまでもないことだった。


 見慣れた街。

 歩き慣れた『外』が、今は恐怖の対象なのだ。

 出れば命を失う危険のある場所へ、わざわざ出ていこうとは思わない。


 彼女は堅く目を閉じ、救いを求めた。


(ケーン……! 聖獣様……っ)


 胸中で、呟くことしかできやしない。


 そんな無力さが、情けなくて歯がゆかった。


 それでも、何かに縋ることしか出来ない。


(王子様……っ)


 亡き母に何度も聞かせて貰った、翠玉の王子様。

 ピンチの時に駆けつけてくれる、優しく頼もしいヒーロー。


 けれど現実には、そんな人はいなくって。


(『彼』は、無事なのかな……?)


 打ち棄てられた廃船のような気配をした、不思議な少年。

 騒々しくも、温かいあの家族は大丈夫なのだろうかと不安になった。


(きっと大丈夫だ……。怖い人たちも、あの島までは行かないだろうから……)


 自分も、あそこに残っていれば良かっただろうか?


 いや、それは出来ないことだ。

 酷いことをしてしまった。

 彼らのお母さんを、一方的に突き飛ばしてしまったのだから。


 色んな考えが、グルグルと回る。

 早く平穏が戻ってきて欲しいと願いながら。


 しかし現実は、彼女の『願い』とは全くの正反対であった。


 それはごく単純に、教会騎士たちの戦闘能力が高いことによる。


 神殿戦士という街の防護措置――或いは抑止力が働いていない場所では、惨劇だけが繰り広げられた。そしてその範囲は、刻一刻と広がりを見せていたのだ。


 だから、彼女らの傍で悲劇が起きるということも、偶然ではなかったわけである。


「助けて……ッ! 誰か、助けてぇ……ッ!」


 それは、女性の悲鳴だった。


 思わず木窓を開けて覗き込んだ先には、赤子を抱えて懸命に駆ける街の住人がいたのである。


 彼女は、追われていた。


 抜剣した教会騎士が、彼女を執拗に狙っていたのである。


 町人と思しき男性が彼女を助けようとして飛び出し、そのまま横凪ぎに斬られた。


 教会騎士は、血を噴き出して倒れ伏した男性にとどめを刺さない。目もくれない。

 女性と赤ん坊を追いかけることに集中しているようである。


(なんて酷いことを……っ!)


 恐怖はあった。

 だが、それ以上に怒りが勝った。

 騎士の姿は、少女には、途方もない悪魔に見えたのであった。


 無論、それは主観的なものに過ぎない。

 あの教会騎士には、教会騎士なりの理屈がある。

 即ち指揮官ベリアンと同じく、『女、子どもだからこそ、率先して救ってやらねばならない』という、信仰に準拠した理由が。


 しかしいずれの訳があっても、女性と、そして彼女の抱える赤ん坊の命は、間もなく尽きることになるであろう。

 母子に武力はなく、護ってくれる者もいないのだから。


「あぁ……っ!」


 女性は、転んだ。

 それでも腕の中の我が子を守ったのは、母としての本能だったのかもしれない。


 教会の騎士は、そんな親子に残虐さの欠片もない――寧ろ慈悲に満ちた瞳を向けている。


「幸運に思え。汝らは、ただ今を持って救済される」


「ひ……ッ」


 騎士は剣を振り上げ、振り下ろそうとし――。


 そこに、カツン、という音が響いた。

 それは、騎士の兜に、小石がぶつかった音。


「…………」


 教会の男は、姿勢を止めたままで、瞳だけで側面を見る。


 そこには、少年のような格好をした少女が、ちいさく震えながら小石を握りしめていたのだ。


「ふむ……」


 男は頷く。

 少女が聖務の邪魔に現れたのは、幼さと愚かしさ故の、無知によるものであろう。


 それは、仕方のないことだ。


 悪いのは、この少女を騙した邪教徒たちであり、身を挺して見ず知らずの母子を救おうとしたその精神性は、寧ろ賞賛されるべきであろう。


 なればこそ、この子を一刻も早く救済してあげねばならぬ。


 騎士はそう思い定め、倒れて動けない親子よりも先に、その少女を主の御許へと送ってやることに決めた。


 明確な『意志』を感じ、少女は身を竦める。


 飛び出し、石を投げつけたのは、怒りにまかせた咄嗟の行動だったのだ。

 自分が標的(・・)にされてしまえば、恐怖以外の感情を持つことが出来なかった。


 腰の力が抜け、へなへなと座り込む。


(あ、ああぁ……。わ、私、ここで死んじゃうんだ……っ)


 大きな瞳から、涙がこぼれた。


「ルビィ!」


 しかしそこに、彼女の師。

 陶工のヘルロフが駆け出してきた。

 その手には、護身用の鉄の棒が握られている。


 ヘルロフは愛弟子を守るかのようにして、騎士の前へと立ちはだかった。


「…………」


 一方、騎士のほう。

 教会の忠実なる信者は、必死に駆けつけた老いた男を醒めた目で見つめている。


 ――そうか。この男が、いたいけな少女を邪教へと惑わせたのか。


 彼は、そう考える。

 女の子の命を守るために飛び出してきた老人は、既に忌むべき障害物(・・・)として認識されていた。


(くっ、そ……。こいつはマズいぜ……)


 老人は、一目で目の前にいる騎士に、己が及ばないことが分かった。

 挑めば死に。

 そして逃げようとしても、死ぬであろう。

 だが、ルビィだけは……っ。


「走れッ!」


 ヘルロフは、それだけを命じた。


 たとえ自分が敵わないとしても、時間だけは稼がねばならない。

 逃げた先に安全など無いとしても、今この瞬間の、『確実な死』だけは、弟子から遠ざけたかったのだ。


(イヤだッ!)


 少女は、そう叫びたかった。


 自分のために即座に命を投げ出すことを選んだ、この優しい師を見捨てたくはなかったのだ。


 きっと、それは愚かな選択なのだろう。

 残ったところで、そこにあるのは確実なる死の足音だけで。


 少しでも生きようと望むなら。

 師の想いを無駄にしないなら、駆け出すべきだったのだ。


 けれども、彼女はそれをすることが出来なかった。


 幼さであろう。

 愚かしさであろう。

 けれども師を捨て石にして逃亡をすることを、『正しい』なんて思いたくはなかったのだった。


 教会の騎士が、老人に迫る。


 両者の戦力差は圧倒的で。


 必死の抵抗をしたところで、ヘルロフが死ぬのが早いか遅いかくらいの違いしかなかったのだ。


「少女よ。すぐに救済してやろう。そこな邪教徒を疾く殺し、主の(うてな)へと送ってやる」


 そこにあったのは、『善意』だった。


 決して認められぬ、相容れぬ『善意』。


 シルルルスの巫女姫は、師と死しか見えていなかった。


 ヘルロフにしても、それは同じで。

 どれ程可能性が低かろうと、ルビィだけは逃がしてやらねば死んでも死にきれないと歯ぎしりをした。


 以上の理由で、この三者の中で最も冷静であったのは、この教会の騎士であったことだろう。


 だから、彼だけが気付いた。奇妙な空気に。


 朽ちた聖堂のような気配が、側面からやって来る。


 そいつが異常だと、騎士としてのカンが告げた。


「何者かッ!?」


 勢いよく振り返ったことで、ふたりも気付く。


「あ、あ……」


 ルビィは、思わず見とれた。


 風にたなびく、黄金(きん)色の髪。

 宝石よりも美しい、翠玉の瞳を持った少年に。


 そこに現れたのは紛れもない。


 あの島で出会った、『王子様』であったのだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 打ち棄てられた船とか、地域特有のアルの表し方が絶妙ですね! 今回はアルト達の誰も事情知らないし、面倒な状況ですよねー。 頑張れ 王 子 様
[一言] 更新ありがとうございます。 王子様登場です。 また、幼女迷宮を増やすのですねw 罪な人だ。
[良い点] あ、アルトきゅんが主人公っぽい登場の仕方をしている! [一言] 全然関係ないですが、旅先の名古屋で、久方ぶりにスガキヤという東海地方で有名なラーメンチェーンに入り、そこで懐かしのスプーンフ…
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