第六百八十九話 翠玉の瞳に映る空(その十八)
恩。
恩というものに報いるために、人は命をかけることがある。
常に斜に構え、どこか飄々とした男――ケーンにとっても、『恩』というのは重要であった。
「大した腕だな。どうだね、私の商隊の警備隊長に就任しないか? 給料も弾もう。長期の移動や緊急の護衛の時以外は、気ままな生活も保証しようじゃないか!」
「ケーンとか云ったか。それ程の力量があるならば、冒険者でもやっていけるだろうに、何で辺鄙な街にいついているんだ? 自由に暮らせて金も稼げる冒険者のほうが、アンタ向きだろうに」
「我らの傭兵団に加わるつもりはないか? お前の技量ならば、報酬は望みのままだぞ?」
自由に生きていけるのは、確かに魅力的だ。
気ままな生活も、自分の性に合うのだろう。
『この地』に生まれなければきっと、お気楽冒険者になっていただろうなと、男は笑った。
「――断るのかね? こんな破格の待遇を? それ程までに、あの教団に義理立てしているのか? そんなにも良いものなのかね、シルルルス教というものは」
そうでもないさと。
心の底から、ケーンは苦笑した。
聖獣に対する尊崇心は確かにあった。
だが、教団という『組織』に仕えることは、己の性格には合致していないと分かっていた。
それでも。
それでもなお。
彼にはこの地から離れられない理由があった。
「おらよォッ!」
銛の一撃が、騎士を貫く。
瞬時の内に、三人も。
聖騎士ではないとはいえ、それでも充分な戦力を持ってシルリアンピロードを蹂躙していた手練れの教会騎士を、その男は瞬く間に屠ってみせた。
「ケーンか! 助かるっ!」
「礼はいらん! 喋る元気があるならば、女、子どもを避難させな! 法衣を着込んだ無法者どもの駆除は、俺がやる!」
これも分業だ、と、彼は思った。
誰かを守るよりも、前へ出て戦うほうが性に合っている。
だが、その神殿戦士の任務は、『巫女姫を守ること』。
つくづくかみ合っていないと思う。
思うのだが――。
――ケーン。
あの意地っ張りで、けれども根は優しい少女を守ることは、彼の誇りであったのだ。
(坊、心配そうな顔をしていたな……)
すぐにでもそれを、元の笑顔に戻してやろう。
それが、『恩返し』のひとつなのだから。
※※※
「外道どもがっ。こいつら、メチャクチャやりやがって……っ!」
街に押し入った教会の騎士たちは、手当たり次第に人々を殺傷しているようである。
「出入り口を固められているっ!」という悲鳴。
動く者は執拗に攻撃してくること。
そして何より、堂々と教会騎士としての姿を晒していることからも、連中の狙いが『皆殺し』であることがうかがわれた。
しかしそれでも、現在までは犠牲者の数は少ないとは云えるであろう。
それは教会騎士たちの人数がそこまで多くないことと、神殿の戦士や兵士たちが、奮戦をしていることによる。
だが、神殿の勢力よりも、教会の騎士たちのほうが大体において戦闘能力は上であった。
このままでは遠からず街や人々を守る戦力は壊滅し、あとは無力な民草が屍を晒すことになるであろう。
(首魁だな……。とっとと、敵の首魁を討つ……)
混乱の極致にあって、ケーンが出した結論は早かった。
敵勢力の指揮官。
それを斃すことによって包囲網に穴を開け、そこから人々を脱出させる。
わざわざ相手の用意した『袋叩き』に付き合ってやる必要は無い。
敵騎士の配置や動きから、彼は即座に『倒すべき敵』のいる方向性に当たりを付ける。
この手の洞察力にも、ケーンは優れていた。
銛を手にした神殿戦士は今にも駆け出さんとする様子で、同僚に振り返る。
「俺は、敵の頭を潰してくる! こっちは任せた!」
劣勢だった味方に、それくらいの期待はしても良いはずであった。
※※※
ケーンは駆ける。
駆けるにつれて、猛烈にイヤな予感がした。
敵騎士たちの首魁がいると思しき方向には、避難所があるのである。
避難所はいくつかに分散して設置されているが、この先にあるのは最も秘匿率の高い場所であり、従って最も弱い、女性や子どもを優先的に保護するための施設であったのだ。
(まさか奴ら、第六避難所の場所を知っているのか……!?)
当たらないで欲しい予想というものは、得てして当たってしまうものだ――ということを、彼は知っている。
ある種の覚悟を決めて、足を速めた。
知られているにしても、せめて間に合ってくれと。
その願いが通じたのか。
或いは、彼の俊足が結果を出したのか。
銛の神殿戦士は、教会の騎士たちを発見することが出来たのである。
彼らは、真っ直ぐに第六避難所のほうを目指していた。
矢張り、場所は知られていたのだろう。
だが、まだ到達してはいない。
ならばやれることは、ひとつだけだ。
ケーンは音もなく加速し、跳躍した。
三人の騎士のうちのひとりめがけて、背後から銛の一撃を見舞ったのである。
武技というよりも暗殺の技術に近いそれは、もしもこの場に隠密ハイエルフのイェットがいれば、「ひ、人族にしては、な、なかなかですね……」とでもいうかのような速度と精緻さを備えた絶好の奇襲であったのだ。
(殺った……っ!)
そう思った瞬間。
標的の隣――真ん中を歩いていた男が白いマントを翻し、長剣を背負うようにして前を見たままに、銛の一撃を防いでいたのである。
標的にされた騎士ともうひとりの男は、そこでやっと、ケーンの襲撃を知ったようであった。
彼らは慌てて身構え始める。
ただひとり、襲撃を防いだ男だけが、落ち着き払っている。
(単眼の兜! これは、聖骸白甲か……ッ! 聖騎士ッ! 教会の最精鋭じゃねェか……ッ!)
左右の男ふたりが体勢を整える前に、神殿戦士は後方へと大きく跳躍していた。
これが単純な殺し合いならば、彼は一も二もなく俊足にものをいわせて駆け出して姿を眩まし、別の機会を待ったことだろう。
教会騎士は単独でも侮りがたい。
それに加えて絶対に戦いたくない相手――聖騎士がいるのである。
普通ならば、逃げの一手あるのみだ。
けれども、それは出来なかった。
ここでこいつらを行かせるということは、避難所を見捨てると云うことになるのだから――。
ケーンは、踏みとどまった。
何人かの親しい人々の顔が思い浮かび、それからちいさく首を振った。
単眼の兜を被った男が、美麗な声を響かせる。
「……ふむ。悪しき存在に仕えているだけあって、やることが悪辣ですね。よもや、不意打ちとは」
「鏡は見たことはあるか? 悪辣ってのは今この街で、お前らがやっていることだ」
ケーンの返しに、フルフェイスの兜を被った男は神妙に頷いた。
「成程。悪逆である上に、無知無道の輩というわけですか。――元より邪教徒との間に、意思の疎通が出来るとは思ってはおりませんでしたがね」
愚者に対する諦めを持って肩を竦める男に、ケーンは舌打ちしたい気持ちになった。
意思の疎通が出来ないというセリフは、こっちが云いたいぜと胸中で呟く。
だが、口にするのは別の言葉だ。
「お前は、教会の聖騎士だな?」
「いかにも。そう云うそちらは、神殿戦士とか名乗る背教者の一味で間違いありませんね?」
「聖騎士ってことは、お前がこの襲撃の首謀者か」
「邪教徒の駆逐は主の御意志。私如きが『主体』などとは、畏れ多いことですよ」
当たりだ、と、ケーンは思った。
今のかみ合っていない会話の中で、この聖騎士こそが敵の首魁であると知れた。
ならば、この男だけはなんとしても討ち取らねばならぬ。
(だが、勝てるのか、この男に……?)
先程の不意打ちは、自身の考えられる最良の一手であった。
それを後ろ向きで――しかも他者を正確に庇う技量の持ち主に、自分の技が及ぶだろうかと考える。
(しかも、相手は三人……)
戦力の上のでの不利のみならず、数でも不利。
それでも逃げられない。
そんな逡巡が、ケーンを踏みとどまらせる。
一方で単眼の兜の男――ベリアンは、ふう、と、ため息のように息を吐く。
「掛かっては来ないのですね? 所詮はただのならず者。不意打ち以外にやれることも無いということですか。堂々と正面から戦う気概も無いとは。……まあ、相手は野良犬。この私自らが手を下す必要すらありませんね」
聖騎士は、二名の部下に云う。
「貴方たちで、この邪教徒を処分しなさい。私は一足先にこの奥の避難所へと赴き、聖務を遂行致しますので」
「――は! お任せ下さい、聖騎士ベリアン!」
「神の名において、この不届き者を必ずや始末してご覧に入れます!」
避難所!
矢張りこいつらは、そこを知っているのだ!
「手前ェッ! 避難所へ行って、何をするつもりだッ!?」
思わず叫んだケーンに対し、単眼の兜の男は、呆れたように首を傾げたようだった。
「頭が悪いだけでなく、耳までもが悪いのですか。私は、こう云ったのですよ。――聖務を遂行する、と」
聖騎士の聖務。
それは即ち、『異教徒の殲滅』に他ならない。
明確に皆殺しを宣言する男に、シルルルス教の戦士は叫んだ。
「女、子どもを、手にかけるつもりか……っ!」
「当然の話です。女性や子どもであるからこそ、優先して主の御許へと送らねばなりません」
「ふざけんなッ! 守ってやるべきガキどもを殺せと命じる神など、ただの邪神じゃねェかッ!」
ケーンは叫んだ。
――瞬間。
「――ッ!?」
金属に金属の叩き付けられる音がする。
それは、ベリアンの長剣を、ケーンの銛が止めた音。
聖騎士の男は神殿戦士の叫びを聞いた瞬間に踏み込み、斬りつけていたのである。
並の者であれば、気付くことすら出来ずに両断されていたことであろう。
だからこの不意の一撃を防いでのけたケーンの技量も、矢張り相当なものであったのだ。
だが、シルルルス教の戦士は、手に残る重い衝撃を感じたまま、その不可解さに困惑した。
(こいつ、いきなりキレやがった……っ!?)
先程までの綽々たる余裕など無く、顔の見えないフルフェイスの下に強烈な怒気があることを、その場にいる誰もが気付いた。
「――我が主をッ! 主の慈悲と救いをッ! 一切理解出来ぬ蒙昧の愚者ッ! 最早、生かすに値せぬッ! ただ死ねッ! むごたらしく死ねッ! 魂まで穢れた背教者よッ!」
シルルルスの戦士と教会の聖騎士。
彼らの間には、山の頂上と麓以上の隔たりがあったのだ。
ケーンは、女、子どもを殺そうというベリアンの思想が理解出来なかった。
そんなものは、ただの殺戮でしかないと固く信じている。
だが、ベリアンにはベリアンの理屈がある。
シルルルス教は、紛う事なき『邪教』である。
で、あるならば、それを信仰する者どもは、皆が罪人である。
そして罪とは、重ねた回数と時間により、深く重く淀んでいく。
だから、子どもからなのだ。
まだ罪を重ねた回数と時間の少ない子どもから優先して邪教からの『解放』をしてあげねばならぬ。
親や周囲の悪辣な大人に騙されただけの、精神と魂の穢れる前の子どもであれば、主は天上にてお救い下さるのだ。
なればこそ、最優先に『救出』せねばならない。
この街の中央部である『塔』に攻め入り、悪党どもの教主を殺すより先に、子どもを救ってやらねばならないのだ。
なのにこの邪教徒は、絶対善の神を愚弄し、己の浅はかさで聖務を妨害する。
最早救えぬ程の阿呆!
許すことの出来ぬ怨敵!
ベリアンが『キレた』ことには、以上の理由があった。
結局の所、ケーンもベリアンも、互いを理解することが出来なかったし、そのつもりも無かったのである。
かくして、シルリアンピロードの街最強の男と、教会の誇る聖騎士との殺し合いが始まったのであった。




