第六百八十八話 翠玉の瞳に映る空(その十七)
そのクジラが、遙か南方の海へと出向いたのは、ほんの気まぐれであった。
聖獣――その中でも上位種である彼にとって、水の冷たさなど意味を成さず、従って流氷の浮かぶ北の果てであっても、問題なく生存は出来たのである。
ただし、彼はのんきであった。
何も考えず。深い意味もなく。
ふらりぶらりと気の向くままに巨体を流されて、いつの間にやら暖かな海の傍に居た。
小型の船が転覆しているのを見つけたのは、そんな時だ。
他の聖獣であれば、矮小で強欲な生物の生き死になど、気にもとめない。
さっさと通り過ぎるか、気付かずにいるか。
だが、彼はそうではなかった。
「ありゃありゃ~、大変だねぇ~」
と、ゆるい有様で心配をし、海水を操作して、溺れている一家族を救ったのである。
荒れた海をいとも容易く鎮めるという、大魔術でも到達できぬ境地を前にして、その家族は心底驚いた。
どこかの妹様のような独特の感性でも持たない限り、誰が見ても『間抜け面』をしているクジラを、神々しいと思ってしまったのである。
「この地は、神の住まう場所だ!」
その家族は、そう信じた。
もしもゆるクジラ本人にそう云えば、
「ううん~……。ここ、初めて来たとこ~」
とでも答えただろうが、通常の者に聖獣と会話など出来はしない。
旅の果てに新たなる住処を探していたその家族は、この場所こそが神に祝福された土地なのだと考え、住み着くことにした。
ゆるクジラは最初、気の向くままに流れて、そのままどこかへ行くつもりであった。
だが、その家族はあまりにも弱く。危なっかしく。
このまま離れたら死んでしまいそうなので、気楽に世話を焼くことにした。
本来ならば荒れる海は、その海獣の力で穏やかになり。
大船すら破壊するような海の凶悪モンスターたちは、逆にゆるクジラのエサとなった。
凪いだ海には魔獣から逃れた魚たちが大挙して集い、豊かな恵みを与えた。
本来、危険であったその海域・地域は、本当に楽園になってしまったのである。
人々はその地に集い、いつしか集落が出来上がる。
何も考えずに海を漂っているだけのクジラは、神として崇められることになったのであった。
彼の古い知り合いであるエルフ族の高祖と再会したのは、そんなときだ。
「……七大海王のひとり、『漂流海王』が、ひとつの海域に留まっている? それも、神として?」
「別に、『王様』じゃないよ~? 神様でもないよ~?」
そう云いながら、のんきなクジラは状況を説明した。
『破滅』は、無表情のままに頷いた。
「……状況は理解した。海流に流されるのではなく、状況に流されるようになった、と」
「そうかな~? そうかも~?」
ぷかぷかと腹を見せて浮かんでいるクジラは、深く考えずに答えた。
神代に海王と呼ばれ、現代に聖獣と崇められるようになったそのクジラは、のんびりとした様子で『破滅』に云う。
自分の立場など、『海の生き物』で充分だと。それ以上でも、それ以下でもないのだと。
何の力も持たないから、あの集落の者たちには、何もしてはやれないのだと。
「だからさ~、エイベル~。もしも憶えていたらで良いけど~……。それとなく、あの子たちのことを、気にとめといて欲しいな~……?」
「……私は、人間は好きではない」
「そう~? ちまちましてて、面白いじゃん~? まあ、無理にとは云わないよ~……?」
本当に心から、ゆるクジラはそう云った。
『破滅』は答えた。
「……私に、あの人間たちを助けるつもりはない。けれど、シルルルスには、多少の借りがある。だからもし、あの人間たちが、自らの力で『価値』を示せるのであれば。或いは、理不尽に抗うのであれば。その時は、考慮くらいならばしても良い」
その言葉を、ゆるクジラは憶えているのであろうか。
いずれにせよ、数百年も前に。
『切っ掛け』だけは、残ったのであった。
※※※
シルリアンピロードに現れた、正体不明の敵対者集団。
その中のひとり。『単眼の兜』の男が、街の門の真ん前へと到達した。
既に門兵のうちの五人が瞬く間に、白装の男によって切り裂かれている。
聖騎士は、街の門に攻撃を加えだした。
どうやら、力づくで破壊をするつもりらしい。
「こ、こいつ、単独で正門をブッ壊すつもりか!?」
男――ベリアンにとって、『悪の街の正門』など、存在自体が許し難いのである。
『味方の集団が通りやすくなる』という合理的な理由ではなく、彼自身の揺るがぬ正義感によって、その門は破壊されねばならなかったのだ。
「ちくしょう、この野郎!」
守衛のひとりが、槍を突き込む。
けれども白い鎧は、鋭い鉄を通さない。
構わず門扉に攻撃を加えているベリアンは、時たま思い出したかのように。
或いは小バエでも追い払うかのように、自身の傍に居る街の兵士を切り捨てた。
「クソッ! 神殿戦士はまだかッ!? あの男の戦闘能力は異常だ! 一般の兵隊じゃ、刃が立たん!」
「他の門からも、敵襲を知らせる報告が上がっている! これは、全ての出入り口から攻められていると考えるべきだ。こちらに優先して神殿戦士が駆けつけてくれる保証はないぞ!?」
この襲撃者――ベリアンは聖騎士であり、就任には教会騎士の中でも相当な実力を必要とされるが、シルリアンピロードでも、似たような事情は存在する。
それが、ケーンの所属する『神殿戦士』だ。
街の住人が義務として持ち回りでやっている番兵や、正式な神殿の兵士であっても、『一般』とされるそれらとは違う。
選りすぐりの戦力保持者。
それが、シルルルス教の神殿戦士なのである。
目の前で猖獗を極める教会の聖騎士に対抗するには、最早シルルルス教の誇る神殿戦士の到着を待たねばならなかった。
彼ら一般兵には、街を守るという義務がある。
今ここで単眼の怪人に突撃し敗死すれば、誰が市民を守るというのか。
聖騎士の相手は無理だとしても、その後方に控える教会の騎士たちは、せめて抑えなければならないのだから。
「聖騎士には、無理に手を出すな! 門扉は、ある程度は保つ! それよりも、後方の敵集団を警戒! 現状は、無駄死に避け、来るべき戦いに備えよ!」
遅まきながら、部隊長はそう叫んだ。
それに対し、ベリアンは呟く。
「ほう。邪教徒どもは、我らが騎士たちとの対戦を所望するのですか。――よろしい。その希望を叶えて差し上げましょう。神の軍の手に掛かるなど、悪徳の都に住む者には、過ぎたる栄誉ではありますが」
彼は、後方に合図を送った。
同時に、待機していた教会騎士たちが進軍を開始する。
神に対する篤い信仰心を持ち、ベリアンを信頼する彼らにとって、『門が開いてから突撃する』というのは、絶対ではないのである。
寧ろ少しでも早く、唯一の神に弓引く愚か者どもに引導を渡したいとすら思っている。
何のことはない。
教会騎士たちは程度の差こそあれ、聖騎士ベリアンのご同類なのであった。
意気揚々と、教会騎士たちは歩を進める。
街の守り手たちは、早くも全面対決を強いられることを悟らざるを得なかった。
※※※
「さて……。んじゃあ、行ってきますかね。――おやっさん。坊をたのんますぜ?」
「ああ、任せろ。――死ぬなよ、ケーン」
「もちろんですよ。俺ぁ、坊の花嫁姿を見て、腹を抱えて笑ってやるって決めているんでね。こんなところで、死んでいる暇はないわけでねぇ」
神殿戦士の男は、携行している手荷物から取り出した軽鎧を身につけている。各所の急所のみを覆う簡素なものではあるが、この男がここまで武装を固めるのは、珍しいことと云えた。
「ケーン……」
幼い少女は不安そうに、常に傍に居てくれていた男を見上げた。
神殿戦士は、女の子の頭を撫でる。
「本当は、お前さんを神殿に戻すか、避難所まで誘導してから戦地に向かうのがスジなんだがなぁ。四方の門、その全てからの攻撃とあっては、いち早く駆けつけねぇとマズいだろうからな。悪いが、ここで待っていてくれや。幸い、おやっさんは腕っ節が強いから、ここも安心ちゃァ安心だ。――だが、くれぐれも外には出るなよ?」
「う、うん……」
「坊もさっきみたく、あっちの島にいたほうが安全だったかもな?」
「…………」
少女の表情が揺らぐ。
それはきっと、少し前まで共にいた、太平楽な家族を案じてのことなのだろう。
ケーンは、力強く笑った。
「あいつらなら、大丈夫だろうよ。あの島に隠れていれば、そうそう見つかることはないだろうし、何よりハイエルフの護衛がふたりもいたんだからな。坊は、自分の安全だけを考えてりゃそれで良いのさ」
んじゃあ、ちょっくら行ってくるぜ。
そう云い残して、男は疾駆して行った。
「ケーン、どうか無事でいて……」
少女は、云いしれぬ不安を抱えたまま、ちいさく震えることしか出来なかったのである。




