第六百七十七話 翠玉の瞳に映る空(その六)
エイベルの指摘通りに、しばらくすると接近者たちが見えてきた。
あれは小舟――だろうか?
それにしては、やけに速度が出ているが。
「あの舟、魔石を動力に使っておりますね。魔導歴に見られたような明確な駆動機関を備えているものではなく、単純に魔石からの魔力放出を推力に変えているというだけのシンプルなものではありますが」
フェネルさんが遠くを覗き込みながら、そう解説してくれる。
沿岸諸国や海洋国家、或いは水の都なんかだと、ああいった『エセモーター』を備えた舟も造られるのだという。
しかし、大型の船に取り付けることは、ほぼ無いのだという。
理由は簡単で、巨船を動かす程の魔石の必要数や諸経費が膨大すぎて、現実的ではないからだ。
それで小舟に据え付ける形になるのだが、魔石は自然の産物。
形状も出力も魔力の波形も一定しない。
だから当然のこととして、安全かつ確実な指向性を持たせることが出来ずに、『速度は出るがフラフラと危なっかしい』形になることが多いのだとも。
なので、『魔石舟』を運用する場合は、上手な漕ぎ手が必須となる。
実際、水主の腕が未熟であるが故に、悲惨な水難事故や海難事故が、あちこちの国で起きているのだという。
尤も『人災』となると、漕ぎ手だけが原因になるとも限らない。
フラフラするということは、それ以外の乗り手――乗客が自儘に振る舞うと、簡単に重心を崩すということでもある。
過去には、あるお貴族様の夫婦が、船頭が止めるのも聞かずにはしゃぎ回り転覆事故を起こし、しかもその責任を舟側に押しつけたという事例もあるのだとか。
ホント、身分社会ってのはままならないねぇ。
で、今こちらに向かっている舟だ。
あちらに、蛇行する様子は一切見られない。
つまりあの舵取りは、余程に良い腕をしているのだろう。
そして帯同者も余計なことはしていないということなのだろうが――。
「乗っているのは、子ども……ですね」
そう呟くのは、護衛役のヤンティーネだ。
彼女はエイベルが接近者の到来を告げてから今まで、ただの一瞬も気を抜いていない。
それは乗舟者が子どもとわかっても、だ。
この真面目一徹さは家族を守って貰いたい身としては、頼もしい限りだ。
「……あの舟は、まっすぐこちらを目指している。島に来るのは間違いないと思う。――私は一旦、隠れておく」
エイベルはそう云って、砂浜から下がった。
余計なトラブルを嫌ったのか、単に人と会いたくないのか。
いずれにせよ、すぐ傍にはいてくれるはずだから、万が一戦闘になっても、助けてくれはするだろうが。
ややあって、舟は砂浜へと辿り着いた。
降りてきたのは、大人の男と子どもがひとり。
(男の子……だよな?)
美形だし、まつげが長いし、ちょっとボーイッシュな女の子に見えなくもないが、服装は完全に少年のそれだ。
性別不詳というと、幼いながらにして剣の達人であるイケメンちゃんことノエル・コーレインを思い出すが、あの子よりはあやふやではない、と思う。たぶん。
俺は降りてきた子どものほうに目が行ったが、ヤンティーネは違ったらしい。
そしてそれは、子ども大好きなはずのフェネルさんも同じなようだ。
彼女らは、船頭も務めていた男の服装を見て警戒の色を強めている。
どういうことかと小声で尋ねてみると、男の服装は、この地の宗教・シルルルス教の法衣なのだという。
法衣というとゆったりとした服装を思い浮かべるし、事実『泥事件』のときに見かけた教会ゆかりの連中もそういう格好だったけれども、ここは海の傍。
そして南方故に温かいので、パッと見では『爽やかな色の甚平』くらいにしか思えず、民族衣装か何かだと云われたら、信じていたかもしれない。
男の手には、櫂に変わって銛が握られている。
海の人間だけあって、武器は長得物のようだ。
持ち慣れている感じもするし、普通に相応の戦闘能力があると解釈しておくべきだろう。
ただ、彼からは敵意のようなものは感じない。
眉を顰めてはいるが、なんというか、『呆れ』に近い感情を向けているような気がする。
一方で、少年? のほうは、俺たちを睨み付けるかのような様子を見せている。
(ありゃ……?)
――と思ったら、何故か俺を見て、一瞬だけ目を見開いた。
そして、慌てて目を逸らす。
(何だァ……?)
不審に思っていると、妹様がボフッと抱きついてきた。
「ぶーっ!」
何でマイエンジェルまで不機嫌よ?
俺の疑問はしかし、気を取り直したかのような少年の声にかき消された。
「お前たち、何者だっ!? シルルルス様の島に勝手に入り込んで何をしているっ!?」
そういや、この島が無人なのは、あのゆるクジラのテリトリーだと思われているからだったか。
彼らからすれば俺たちは、『聖地に勝手に入り込んだ迷惑者』という感じなのだろうか?
銛を持った三十代くらいの男が、ため息を吐きながら頭を掻く。
「大方アンタら、よく知らんで勝手に島に渡ったんだろう……? たまにいるんだよな、そういう観光客も。云っとくけど、ここは立ち入り禁止区域だから」
成程。
この男性が呆れた様子をこちらに向けていたのは、やっぱりそういう理由なのか。
だが少年が、銛を持っている甚平さんに食って掛かった。
「こいつらは不審者だッ! 聖地を侵す不心得者だッ! ただちに引っ立てるべきだ!」
「いやいや坊、こいつらの顔を見ろよ。揃いも揃って、太平楽そのものじゃないか。ヤバい集団とかそういうのじゃなく、考えの足りないお気楽家族かなんかだろうよ」
お気楽家族という言葉を、あながち否定出来ない……。
けれども、少年は止まらない。
パッと見、法衣は着ていないようだが、それでも熱心な信者か何かなんだろうか?
「聖獣様は、噴気をあげていた! アレはきっと、こいつらにイタズラされて困っていたんだ! こいつらは聖獣様がおとなしいのをいいことに、好き放題やっていたに違いないんだ!」
ヤバいなァ、それも否定出来ないんだよねぇ。
うちの家族、あのゆるクジラにやりたい放題だったし。
でもまあ、あの海獣自体は、そんな戯れを気にした様子もなかったが。
甚平さんはヒートアップする美形の少年に困ったように肩を竦めたが、間の悪いことに、うちの家族たちは『正直者』揃いだった。
「ふぃーたち、シルルルスにイタズラなんてしてないっ! 一緒に遊んで貰ってただけ!」
「そうよぅ! あの子、とっても優しい良い子よ!? ついでにうちの子たちも、とっても良い子なんだからっ!」
「あぶ……っ!」
すると、甚平さんと男の子の表情が変わった。
少年は『ほら見たことか』という表情と怒りが綯い交ぜになったかのような顔をし、銛の人は更に呆れたようにして、大きく息を吐きながら、こちらを見た。
「え、何? アンタら、本当にイタズラしちゃったの?」
「してないっ!」
クレーンプット家女性陣は、ステレオで否定する。
母さんたちにとっては、本当に戯れていただけという認識だろうからね。
そこを『イタズラ』と断定されてしまうのは、憤懣やるかたないのだろう。
ただ、あのゆるクジラを聖獣として崇める人々には、どう映るのか。
たとえばエイベルは他人にタメ口や呼び捨てをされても一向に気にしないが、ハイエルフたちは『偉大なる高祖様』に対する無礼を許容しないだろうしね。
この辺の匙加減は、本当に難しいところだ。
「ケーン! こいつらを捕まえて!」
男の子は、甚平さんの袖を引っ張る。
この人、ケーンさんっていうのね。市民かな?
しかし、甚平さんは首を振る。
「いやな、坊。現行犯じゃないし、『疑惑』だけで観光客をいきなり引っ立てるってのもな……。それにホレ、実際にあの聖獣様は、ゆる~い感じだから、何も気にしていないかもしれん」
あ。こっちでもそういう認識なのね、あのゆるクジラ。
だが、少年は怒りに燃えながらこちらを指さした。
「あいつら、勝手に島に入り込んでる! これは重大な犯罪行為だッ!」
「それも不文律だしなぁ……。明示していない以上、外部から来た人間を問答無用で捕まえるわけにもいくまいよ」
このケーンって人は、割と視野の広いタイプであるらしい。
無駄に血の気が多いとか、特定の宗教に凝り固まって排撃してくるといった様子がないみたいだ。
精神的なバランス感覚に優れているのだろう。
「つーわけでさ。悪いけどアンタら、この島から退去してくんない? 安全で景観の良い場所なら、街の近くにもあるから、そっちに回って貰えると助かるんだわ。なんなら、案内もするし」
この人の提案は穏当なんだろうけれども、個人的には承伏しかねる。
だって余人のいないこの場所じゃないと、エイベルは絶対に出てきてくれないし。
白ワンピ姿、見ることが出来なくなっちゃうし。
いや、もちろん、波風たてずに家族の安全が一番なんだけどね?
でも、それと同じくらい、俺にとってはマイティーチャーの夏姿を、楽しみにしていたわけでして。
困ったなと思いながら、敵愾心を滾らせている少年を見つめた。
この子さえなんとか出来れば、ここに居座ることも出来そうな気がするんだよねぇ……。
「――っ!」
俺の視線を受けた男の子は、何故だか顔を赤くして目を逸らした。
妹様のほっぺが、ぷくぷくと膨らんだ。




