第六百七十五話 翠玉の瞳に映る空(その四)
シルリアンピロード、というのが、その街の名前だった。
海獣シルルルスを聖獣として崇める者たちの聖地であり、そして焼き物の有力な産地としても有名な場所である。
この地からは良質な粘土が産出し、前述の如く窯元としても知られており、従ってシルルルス教の信者でない者――陶磁器を買い付けに来る商人や、粘土の購入に来るドワーフ、そして景観の良さから単純に観光へ来る者たちも多く、勢い、商業地としても一定の需要がある街なのである。
シルルルス教は、特に他の宗教勢力を排除することがない。
『かけもち』に対しても、うるさくは云われない。
尤もこの辺は他宗教にも大いに見られる傾向で、これは精霊や幻獣のような存在が太古より身近にいる環境から来るものと思われる。
たとえば一介の剣士が、普段は戦神を信仰していても、海を渡る際にはシルルルスなり他の海神に祈りを捧げても『専門が違うのだから当然』と許容される感覚に似る。
そもそもからして、南北大陸は『多神教』なのである。
至聖神のみを唯一絶対と信仰し、他の存在を神として崇めることは許さないという考え方をする『教会』のほうが、ラディカルな存在であると看做されているようだ。
尤もこれは『他の宗教者』からの意見であって、教会そのものは大陸最大の宗教勢力なのだから、『多神教』のほうこそ、『移り気なマイノリティ』という考え方もあるのかもしれないが。
いずれにせよこの地は、平和な地方の宗教地として、今日まで栄えてきたわけである。
シルリアンピロードは成立の事情から、街そのものが政教一致となっており、街の代表がそのまま教団の代表となっている。
当代のトップはルビルスという名の若い男性で、老齢で死去した先代の後を継いだばかりだ。
けれども街自体が常々平和であることと、引き継ぎも穏当に行っていることから、その治世に波風はない――ということになっている。
のだが。
「……ルビナスは、またおらぬのか」
「は……。おそらくは、街へ出ているものかと」
「そう、か……」
教主ルビルスは、眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
街の長として有能で、宗教団体のトップとして順風満帆であっても、『何も問題がない』というわけではない。
個人――家庭の事情まで目を向ければ、上手くいかないこともある。
彼――ルビルスの場合は、我が子との折り合いが悪いことが、悩みの種であった。
(長の娘が礼拝の時間に姿を眩ますなど、本来はあってはならないのだが……)
あの子はまだ、子どもなのだ。
それをわかっているだけに、どうにも出来ないこともある。
ルビルスは教主であり、街のトップだ。
つまり、とても忙しい。
そのことが、多くの軋轢と親子間の溝を生み出していた。
だから強くは出られないし、逆に優しくしてやらなければならない場面で、強く出過ぎることもある。
(難しいな、子育てというものは……)
大灯台の窓から、教主は外を見つめた。
或いはそれは、現実から目を背けただけなのかもしれないが。
側近のひとりも、視線の先を追う。
視界に広がる美しくもなだらかな海は、彼らが『神』と崇める聖獣のおかげなのである。
(なればこそ教主様の娘には、しっかりとして貰いたいのだが……)
側近は、そう考える。
教団の長の娘であるルビナスは、幼いながらにして、既に『巫女』としての地位を持つ。
で、あるのだから、幼いからと云って勤行をおろそかにして良いわけがないのだ。
殊にルビナスには、他者にはない破格の『特質』があるのだから――。
「う……っ!?」
「え……っ!?」
次の瞬間、教主と側近は同時に目を見開いた。
あり得ない光景が展開されていた。
それは、天へと立ち昇る水の柱。
美しくも荘厳な、逆行の滝。
論ずるまでもない。
それは彼らの『神』の起こした奇跡だ。
「ば、バカ、な……っ!? 聖獣様が噴気をお示し下さるなど、何年ぶりのことだ……!?」
「いや、それよりも、聖獣様はどのような意図があって、噴気なされたのか……っ!?」
両者は、驚愕する。
シルルルスの噴気とは、それ程までに珍しいことなのだ。
一体、何事が起こっているのか?
或いは、何を伝えたいというのか……!?
無論、彼らは知らない。
例のゆるクジラは、その外見と同じく内面もゆるっちくて、噴気のひとつやふたつなど、頼めば普通にしてくれる、などということは。
「た、ただちに主立った者たちを集めよっ! 緊急の会議を開き、その後に、すぐにでも聖獣様のもとへと赴かねばならぬ……っ!」
「ぎょ、御意……っ!」
側近の男は、バタバタと駆け出していく。
教主ルビルスは緊張の面持ちで、立ち昇る水流を見つめていた。
※※※
「ふわぁ……っ! 師匠の作った壺、凄いなぁ……っ!」
「ふふん、当然よ。この道うん十年だからな、わしは!」
シルリアンピロードの裏通りの一角に、ちいさな子どもと、厳つい顔の老人がいた。
そこはこの街有数の窯元ではあるが、規模はちいさく、また人の出入りも少なかった。
その陶芸工房は設備こそ立派ではあるが前述の如くこぢんまりとしていて、雰囲気だけで既に、明確な『拒絶』を感じさせる。
入り口には勢いのある殴り書きで、『一見さんお断り』の文字だけがあり、屋号すらない。
老人の眉間には深い深い皺がいくつも刻み込まれており、これまでの人生を、厳しく過ごしてきたのだと理解できる重みがあった。
けれども、『彼』の表情は明るい。
それは、ちいさなちいさな『弟子』が目の前にいるからだ。
もしもこの場に彼を知る者がいれば、『街屈指の陶工にして偏屈者のヘルロフが、笑うなどということがあるのか!』と、驚愕したに違いない。
実際、彼――ヘルロフは大層気難しく、その扱いの難しさは、ドワーフが比較対象に出される程なのである。
その老人の『現在唯一の弟子』は、美しく輝く壺を見て、目をキラキラさせている。
「師匠の作品は、やっぱり綺麗だ……っ!」
子どもは、心の底から賛辞を送る。
嘘偽りもなく、それ以上に『打算』や『阿諛』の無い言葉に、ヘルロフは気を良くした。
彼は気難しいだけでなく、自らの気分が乗ったときでなければ、作品を作らないのだ。
だからこの幼い『弟子』は、数える程しか師匠の作業風景を見ていない。
「でも師匠。どうして急に壺なんか作ったんだ?」
あけすけな質問に、師は答える。
「北大陸に、古い友人がいてな。そいつから、手紙が届いたのよ。正体不明、新進気鋭の陶芸家に、知り合いはいないか、とな」
彼の知り合いは、北大陸有数の大国、ムーンレインに居を構えている。
偏屈者のヘルロフが認める程の審美眼を持ち、この陶工の作にすら、欠点があれば遠慮会釈もなくダメ出しをする男だった。
そこには、媚びがない。ただひたすらに、芸術のみを追究する真摯さがある。
なればこそ、ヘルロフも気を許したのだ。
その彼から、絵図入りの手紙が届いた。
挨拶もそこそこに語られた内容は、その男の所属する非公式組織・『王国審美会』に現れた、ある一枚の角皿についてであった。
その男は審美眼はあっても絵心がないから、手紙の絵図はお世辞にも上手いとは云えなかった。
だが、『熱意と気迫』は、十二分に伝わってきた。
同時に、その角皿に、いかに感動したのかも。
これ程までに完成度が高く、そして『深い』皿を作れる者が無名であるなど信じられない。
けれどもヘルロフのように偏屈者が影で作っている可能性もある。
だから非礼を承知で知りたいのだ。
この皿を作ったと思しき人物に、心当たりはないのか、と、手紙には記されていた。
『実物を見せられないのが残念だ。せめて『写真機』でも使えれば話は別だが、エルフたちはあれを決して、人間の手には渡そうとはしないのだ』
手紙にはそうもあり、ヘルロフはそれで、この世に『写真機』なる凄まじい発明品が生まれていることを知った。
街屈指の陶工は、それらのことに触発されて、見事な壺を作り上げたのである。
「やっぱ師匠の壺が一番だ! 凄い、凄いよ……っ!」
弟子はそうして大喜びをしているが、素直には喜べないヘルロフである。
目の前の子どもの言葉に嘘偽りはないのであろうが、それでもそれは、『世界の狭さ』から来るものであろうと思っている。
多くの作品を見て、感動をし、知識を蓄え感性を磨く。
真なる芸術は、その『先』にこそあるものなのだから。
なればこそ、ヘルロフは発奮する。
彼は、北大陸にいる友人の眼力を認めている。
その友人の基準から推測すれば、その皿の制作者の技量、或いは芸術的感性は、この自分すらも上回っている可能性がある。
(会ってみたいもんだぜ、その陶工によ……)
友人を唸らせる程の技量がありながら、それでも世に出てきていないということに、ヘルロフは共感を覚える。
今この場にその人物がいれば、案外美味い酒が飲めるのではないか、などとも考える。
人通りの少ない裏道に、大きな声が響いたのは、そんな時だ。
「聖獣様だッ! 聖獣様が噴気をあげられておられるぞッ!?」
「――――!?」
その言葉に、老いた師匠と幼い弟子は、思わず顔を見合わせていた。
 




