第六百六十三話 フィー、湖に挑む
「ふぉおぉぉおおぉぉぉおぉぉぉ~~……っ!」
目の前に広がる雄大な湖沼に、妹様が青いおめめをキラキラと輝かせている。
――セロ湖。
大都市であるセロの街の重要な水源であり、オーリーフィッシュや沼ドジョウなどの水産物を産出する経済の要衝でもある場所だ。
だからであろう。
今、目の前に鎮座しているバウマン子爵家の持つ湖船は、大きいが物々しいというべき様相であった。
ラブラブバカップルのように俺の腕に抱きついている子爵家『令嬢』様に、俺は聞いてみた。
「遊覧船じゃないんだねぇ」
「ご指摘の通り、巡視船だよ。ついでに云えば、戦船でもあるがね。――セロ湖はセロ共通の財産であり、加えてこの地の統治者たるアッセル伯爵家の領分だ。その補佐役を任せられている両子爵家が、だから共通で警備に当たっているというわけさ」
フレイの言葉は、ノブレスオブリージュに相応しいものではあった。
けれども傍に居る護衛役のふたり――ティーネとフェネルさんだ――は、微妙な顔で肩を竦めている。
ちょいと、その訳を聞いてみると――。
「礼服を着込んだ鼠賊が一番厄介というのは、どこであっても変わらぬ事実です」
ポニーテールの槍術士が、冷めた目で云う。
軍服ちゃんも、忌々しそうに頷いている。
礼服を着込んだ鼠賊というのは、『貴族の犯罪者』のことであろう。
つまりここでは、本来警邏のために存在するはずのさる名家――あのデネン子爵家が、後ろ暗いことをやっているという意味なのだろう。
商会所属のハイエルフ二名がイヤそうな顔をしたところを見ると、差し詰め沼ドジョウ関連であろうか?
「つまり、密漁?」
「表向きの名目は、『生態系の調査のための捕獲』になってはいるのだがね」
あ~……。
『お題目』があるからコソコソすることもなく、堂々とやってるのね。
てことは商会が握っている沼ドジョウの権利だけでなく、オーリーフィッシュにも手を出しているのかしら?
「だぁ~から、湖の取り締まりは、俺ら冒険者ギルドに任せろと云ってんのになァ……」
シャーク爺さんが、小声でボヤいている。
冒険者志望であり、執行職志望でもあるブレフが、激しく頷いている。
フレイがその言葉に積極的に賛同しないのは、それでは本来取り締まるべきセロの貴族家の面目が丸つぶれになるからなのだろうな。
けれどもそれを口に出さないのは、実際問題としてデネン子爵家の跳梁を許してしまっているからなのだろう。
湖ひとつを取ってみても、色々と複雑なようだ。
だが、ひたすら脳天気であることが売りの我らクレーンプット家には、そんなことなどどこ吹く風なのだ。
ぴょんぴょこと飛び跳ねながら、懸命に俺の袖を引っ張って来る子がいる。
「にーた! にぃたぁぁっ! お船、おっきい! ふぃーたち、あれに乗れるっ!?」
「まー! うーっ! むふーっ!」
「ふふふ~……! ノワールちゃんも、お船が楽しみなのね? お母さんも子どもの頃、おっきなお船に憧れて密航しようとして、つまみ出されたことがあるのよぅ」
何やってんスか、マイマザー……。
我が家の間の抜けた気配に毒気を抜かれたのか、軍服ちゃんが苦笑する。
「そうだね。つまらない話はこれくらいにして、皆には我がバウマン子爵家の船を楽しんでいただこうか」
そうそう。
今は楽しいことに集中しましょうぜ?
しかしここで、事件がひとつ起きてしまう。
それは、『アルト・クレーンプット、渡し板往復事件』である。
※※※
「……何故、こんなことに……」
「あ、アルトさん、お、お疲れ様です……」
憔悴している俺を気遣ってくれるのは、心優しいハトコ様のシスティちゃんである。
切っ掛けは、まさにこの子であった。
それなりに大きい船に乗れることに目を輝かせた妹様とハトコ様は、笑顔で船内へと突撃した。
フィーもブレフも運動神経は悪くないので、揺れる渡し板もなんのその。船員さんに「危ないから慎重にね?」と注意されているのに、ドタドタと駆け込んで行った。
一方、あまり動くことが得意ではないシスティちゃんは、板の上を通ることに若干の恐怖を感じたようである。
なので僭越ながら、エスコートをさせて貰うことにしたのだ。
「何かあったら、俺がフォローするよ。さ、行こう?」
手をさしのべると、穏やかな方のハトコ様は赤い顔で俯きながら、おずおずと右手を差し出してきた。
そしてそのまま、船に乗って貰ったわけである。
しかし、それを見た妹様が大激怒。
もちもちほっぺをぷくっと膨らませたまま、とてとてと渡し板を下って桟橋へと戻っていく。
「にーた! ふぃーもっ! ふぃーもにーたに連れてって貰わないと、お船に乗れないっ!」
いや、お前……。
力強く往復していく姿を、全員が見ているからな?
「……じゃあフィー。兄ちゃんと手をつなぐか? だっこでも良いけどさ」
「だっこっ!? ふぃー、にーたに、だっこして貰えるっ!?」
勢いよく飛びついてくるマイエンジェルを抱え、お船に乗せた。
妹様は、たちまちご機嫌におなりあそばれた。
「ふへへ~……っ、にぃさま、ありがとーございますっ! ちゅっ!」
はい、熱いキッスをいただきました。嬉しそうで、なによりだよ……。
しかし、ホッと一息ついたのも束の間。
振り返れば、おめめを爛々と輝かせたマイマザーと末妹様と子爵家ご令嬢と商会局長様のお姿が。
というかフェネルさんまで何やってるんスか……。
普段のセロだと離れての護衛なのに、今回こうして近くにいるのは、『水に落ちたら危ないから』。その為の救助員も兼ねているんでしょうに。
ほら従魔士様、ティーネの視線が冷たいですよ?
なお、うちの槍術の先生は、今回の旅では水に飛び込むことも想定し、革鎧を身につけている。
いつもは白っぽい金属鎧姿なのだが。
ともかく、何往復もして俺は疲れた……。
何でゴツい爺さんの手まで引かなきゃならなかったのか、コレガワカラナイ。
だがともあれ、これでうちの家族たちに、湖を楽しんで貰えるぞ。
その点は、この超絶美少女風男の娘に感謝をせねばなるまいて。
「なに、気にすることはない。愛しいキミのために骨を折るのは、少しも苦ではないのさ」
俺の視線を受けた軍服ちゃんは、小悪魔チックに片目を閉じて見せた。
※※※
「にぃたぁっ! にぃたぁぁっ! お船楽しいっ! ふぃーたち、おっきな水たまりに浮かんでる! ここにたくさんのアヒルさん浮かべたら、きっと面白いっ!」
「フィーよぉ、こういう大きな船も良いが、ボートも楽しいんだぜぇ? あとでこのお爺ちゃんが漕いでやるから、一緒に乗ろうぜぇ……」
「ボートに乗るなら、ふぃー、ティーネちゃんに漕いで貰う!」
「なぜだぁっ!? なぜだぁぁっ!? もっと俺を頼ってくれよぉぉっ!?」
爺さんが血の涙を流しているが、残念ながらうちの妹様の中では、力仕事=ヤンティーネという信頼が出来てしまっているのである。
いつも重い荷物とか装備品とか運んできてくれているからね。
一方、ご指名を受けたポニーテールの槍術士は、澄ました顔で聞こえていないふりをしているが、美麗なお耳がぴくくっと動いているのを俺は見逃してはいない。
(しかし、たくさんのアヒルさんか……)
一応ここ、セロ湖は絶好の観光スポットとなっている。
貴重な漁場であるから常に人目があり、両子爵家の警備兵までいるから、案外安全なのだという。だから貸しボート屋みたいなものまであったりもする。
(スワンボートとか置いたら、お客さんを獲得できないかしら)
ちょいと考えていると、フェネルさんが目敏く近付いてきて、
「何か思いつきました?」
とか訊いてくる。
この人、最近仕事が忙しくて軽く病んでるっぽいから、余計なことを口にしても大丈夫なのだろうか?
「ええ、平気です。こちらでの仕事なら、それはセロ支店の受け持ちになりますから」
何と云う他人事か。
苦笑しながらも、俺はスワンボートに付いて説明してみた。
「――足漕ぎ式のボートですか。それも、白鳥の形をした……。相変わらずアルト様は、独特の視点をお持ちですね……?」
俺の……じゃないけどね?
しかしフェネルさんはそんな呟きには気付かず、
「湖に関する事柄なら、領主のアッセル伯爵に許可を貰わないと……。いえ、いっそバウマン子爵家を巻き込んで、そっちに受け持って貰える方が、デネン子爵家からの嫌がらせ対策にもなるし……」
とかブツブツ云ってる。
うん。
仕事が忙しいのって、この人自身の性格もあるんじゃないですかね?
「にぃたっ! ここ、釣りも出来るって云ってる! あっちでは、泳ぐことも出来るって! どうしよう、にーた!? ふぃー、お船にも乗ってたいし、釣りもしてみたい! ボートも楽しみたい! やることたくさんで、ふぃー、目が回るの……」
我が家の天使様の表情も、喜びだったり困惑だったり苦悩だったりと忙しい。
そんなマイエンジェルの言葉に呼応するように、各々が、あれがやりたい、こっちが気になると騒ぎ出して、もうしっちゃかめっちゃかだ。
「全部楽しめば良いじゃないか。まだ午前中だし、時間はいっぱいあるんだから」
まあ、途中で疲れて寝ちゃうんだろうけどね。
その予想通り、フィーは体力が尽きるまで、満面の笑顔で湖に挑み続けた。
 




