第六百四十一話 悪意と望月
ムーンレインには、ふたつの月がある。
満月と、新月。
それは、ふたりの少女姫を表した言葉だ。
一方は賞賛を。
そしてもう一方は、侮蔑の意味を込めて。
両王女は、ともに性質穏やかであったし、何より心根が善良であった。
けれども、仲の良い姉妹なのかと云えば、そうでもない。
「クラウディア、様……」
「……ぁ」
バッタリと出会ったふたりは、気まずそうに顔を歪める。
「あの、クラウ――」
「…………っ」
それでも声を掛けようとする第四王女の目の前から、第三王女は走り去ってしまう。
『姉』が『妹』を見る目は、いつも通りに、絶望に曇っていた。
「…………クラウディア様……」
シーラは、悲しそうに肩を落とす。
自分が彼女のトラウマの一因となっていることを知っているから。
だから『妹』は、『姉』を追うことが出来ない。
「殿下が気に病むことではないと思いますが」
傍に控える宮廷魔術師のフィロメナが、第三王女の消えた廊下を見ながら呟いた。
近衛騎士エルマも、それに同調するように頷く。
「殿下の御業は、殿下ご自身の努力によるもの。それに第三王女様への誹謗中傷も窘める側であって、荷担など一切していないではないですか。その殿下に対して引け目を感じるなど、寧ろ無礼と云うべきでありましょう。本来ならば、感謝して然るべきです」
「…………」
ふたりの言葉に、幼女姫の表情が霽れることはない。
もしもこの場にいたのが、心優しい母であったらどうだろうか?
きっともっと、温かい言葉を口にしてくれたのではなかろうか。自分だけでなく、『姉』のことも気遣うような、そんな言葉を。
或いは、あの少年であれば。
「…………」
シーラは、自分の近習となることを拒んだ、ひとりの男の子を思い浮かべる。
年少者とは思えない程に、常に落ち着いていて、年長者のような包容力のある、あの人ならば。
自分と姉姫を取り持ち、その心を繋げてくれたのではないか。
もしもこの場にその少年が居れば、過大評価だと顔をしかめるその胸中の呟きを、第四王女は、確信を持って噛み締めている。
(もうすぐ、またあの方にお会いすることが出来る……)
『彼』の二度目の登城の、直前のことだった。
※※※
第四王女の近習の人数は、三名しかいない第三王女のそれよりも多い。
その中で特に彼女が信頼を寄せているのが、イザベラというふたつ年下の少女である。
シーラは、この誇り高く努力家な少女のことを気に入っていた。
彼女の観察するところでは、イザベラは性格面ではかなりの不器用者であるが、これは家庭環境によるのだろうと思っている。
つまり、なかなか素直になれないのだ。
反面、心を許した相手には、とても懐いてくれるのだが――。
この金色のドリルを装備した少女は今、本人の知らぬところで、密かに話題になっている。
と云ってもそれは、彼女の能力や出身である侯爵家とは、関係のない部分でだ。
「ふ、ふふふ……♪」
誰にも見られていないと思っているからだろう。
彼女は、銀細工を見て笑っている。
子猫のような大きなツリ目を思いっきり細めて、美麗な輝きを放つ、その細工物を見つめているのだ。
これこそが、イザベラが噂になる理由だ。
彼女が肌身離さずつけているそのアクセサリは、二重の意味で注目を浴びている。
ひとつは、そのデザイン。
シンメトリーな紋章のような造形は、この世界ではお目にかかれないもので、いやがおうにも人目を惹いた。
そしてもうひとつが、控えめなのに明確に記憶に残る、その輝きである。
これ程綺麗な銀細工は、シーラも見たことがない。
アクセサリの類にあまり興味のない彼女ですらが、『ちょっといいな』と思う程なのである。
しかし、シーラが一番気になるのは、イザベラの表情だ。
(あんなに幸せそうに笑うなんて……)
その贈り物が、余程に嬉しかったのか。
或いは、送り主が……?
イザベラは、その銀細工をどこで手に入れたものなのかを口にしない。
他の近習に羨ましがられたときも、堅く口を閉ざしている。
その理由はわからないが、きっとそれは、あの笑顔と関係があるのだろうとシーラは推論している。
いずれにせよ、ここまではまだ、『羨んでいた』だけだ。それ以上のざわめきなど、存在しなかった。
変化があったのは、七月になり『彼』が二度目の登城を終えた直後。
再び『姉』と再会したときであった。
「…………ぁ」
第三王女は、今日も逃げていく。
そこには何故か、今まで以上の絶望があった。
その理由を、シーラは知らない。
しかし、目に入ったものがある。
『姉』は、銀のアクセサリを付けていたのだ。
その意匠。その輝き。
それはまさしく、イザベラの所持するそれと、同じ方向性を示している。
つまり、制作者ないし、送り主が『同じ』ということ。
「…………っ」
聡明な彼女は、クラウディアとイザベラ、その二名の少女の傍に居る、ある人物が思い浮かんだ。
(あれは――あの方が……?)
シーラが母と並んで、心を許せるあの『少年』。
彼は、イザベラとクラウディアに、銀細工を贈ったということなのだろうか。
「――――」
瞬間。
彼女は異次元の怖気を感じ取り、振り返って身構える。
それは、『世界が切り変わった』から。
周囲に誰もいない、そんなほんの僅かの隙を突くかのように、誰もいない廊下に、『白い子ども』が笑みを浮かべて立っていたのだ。
(あの人物は……っ!)
師であるマルヘリートより、要注意人物と云われ、『絶対に単独では会うな』と云われた相手であった。
その子どもは、口元だけで笑っている。
いや、目も笑ってはいるのだ。けれども、その性質が違う。
赤い瞳に映し出されているのは、侮蔑と憐憫だろうか。
白い子ども――ピュグマリオンは白い唇を動かした。
「おいおい、そんなに警戒しないでよ。ボクはまだ、キミに何かをする気は無いんだからさぁ……?」
「……既に、仕掛けられているのでは? わたくしの周囲に誰もいないというのが、その証拠でしょう?」
「酷い誤解というヤツだね。ボクはただ、自分の身を守っているだけなんだぜ? 何しろ、この身を誤解する人が多くてさ。可哀想だと思わない?」
「…………」
第四王女は答えない。
しっかりと対象だけを見つめ、意識を逸らさず、魔力を横溢させている。
ピュグマリオンは、へらへらと笑った。
「まさかキミ、噂話だけでボクを嫌うつもり? キミはアレかな? 複数の人間が『市場に虎が出た』と云えば、信じてしまうタイプ?」
「…………」
シーラは答えない。
その必要を認めない。
こうして対面して、分かったことがある。
これは、間違いなく『敵』だ。
彼女の持つ第六感が、最大限の警報を打ち鳴らしている。
ピュグマリオンは、そんなシーラの様子など気にもとめないで、ただ一言。ポツリと呟く。
「――銀細工」
「――――っ」
「キミの近習とお姉さんが身につけてるアレ。とても綺麗だよねぇ? いや、ボクはアクセサリより、ぬいぐるみのほうが好きなんだけどね?」
「…………」
何が云いたいのですか、という言葉を、シーラは吞み込んだ。
この者とは、口を利かないことが最善。
自らの直感と、師の言葉が、その選択をさせる。
けれども『白い悪意』は、構わずにこう云ったのだ。
「キミだけが貰えない。キミだけが、贈られない」
聞く耳など持つな。
「キミは、あのふたり以下なのかな?」
聞く意味なんて、ない。
「大事な相手に、大事に想われていない。うん。まあ、よくある話だよねぇ? でもボクは当事者じゃないから、こう訊いておこうか。ねぇねぇ、今どんな気持ち?」
「――――」
シーラの魔力が、膨れあがった。
白い子どもは、ケタケタと笑う。
「おいおい、真実を目の当たりにして、八つ当たりはやめてくれよ? ボクは争いごとを起こすつもりなんてないんだ。でもさ、流石に攻撃をされたら、反撃をしなきゃならなくなるんだぜ?」
云い切ってから、ピュグマリオンの目が細まる。
そこには、つい先程までの侮りがない。
寧ろ、興味と警戒心を持ったようである。
第四王女は、真っ直ぐに、白い子どもを見つめ返していたのである。
「――へぇ? まだそんなに幼いのに、激昂しないでいるとはね。寧ろ、戦うときこそが、最も冷静なわけか。良いね。キミという人物の評価を、ひとつ上げようか。――楽しみだよ。そんなキミの心が、砕け散るときが」
ヒラヒラと手を振って、その子どもは歩き去る。
シーラはその気配が完全に消えるのを確認してから――。
「……はぁっ」
大きく、息を吐き出した。
「あの方と敵対するのであれば、相応の戦力が必要になりますね。わたくしだけで当たる、というのは、絶対に避けるべきだと確信しました」
その言葉をピュグマリオンが聞けば、更に評価を上げたことだろう。
シーラは強大と認識した相手に対し、最善の手段で優位を確保することに、何の躊躇もない。
自身の力を過信することがないのである。
「アルト様……」
なんだか無性に、『彼』に会いたくなった。
ピュグマリオンの言葉と銀細工の存在が、かすかに胸に波紋を残していた。
 




