第六百四十話 七月の異母兄妹
神聖歴1207年の七月。
かつての俺には、割と意味のあった月。
そして、去年までの我が家にも、大事であった月。
まあ、それはつまり、『予定があった』ということなんだけどね?
今までの七月は、免許試験があった。
それに、セロへの里帰りも。
だが、俺は去年に初段位を獲得し、魔道具技師の資格を得ている。
つまり、今後試験を受けるつもりはない。
そのうち妹様が十級免許くらいは取るだろうから、そのときに会場へ行くことくらいはあるかもしれないけれども。
無くなったと云えば、それはセロへの里帰りもだ。
今までは毎年、お祭りの時期に戻っていた。
だが今回は、爺さんの強い要望で、来月――八月に向こうへ向かうことが決まっている。
フィーはお祭り大好きだから、俺としては七月でも良かったんだけどね。
グランパ曰く、
「ダメだ、ダメだァッ! 祭りの時期だと、俺が忙しくて休みが貰えねぇッ! だから、八月だ! 大手を振って休みを貰える、八月にしろ! あ? フィーを楽しませたい? 大丈夫だ! 湖で遊べれば、フィーの奴はきっと喜ぶ!」
泣きそうな顔で、そんな風に力説されたもんなァ……。
実際、毎年爺さんとは遊べてなかったし。
ただ、つい先日まで王都に来ていた畏友・軍服ちゃんには、
「ほほう。キミたち家族は、今年は八月にセロに来るのだな? よろしい。では我がバウマン子爵家が、クレーンプット一家を歓迎させて貰おう。湖で泳ぎたいというのであれば、そちらにも手を回すぞ? なんなら、湖船をチャーターしても良い。キミの妹君も、そちらのほうが嬉しいのではないかな? 待っているよ!」
とか云われている。
どっちも一方的にまくし立てるだけなんだもん。
これ、ダブルブッキングになっていないよね?
いずれにせよ、俺に決定権は無いのだろうけども。
「すぴすぴ……」
祖父と友人のダシに使われた妹様は、親子仲良くハンモック――ではなく、ベッドでお昼寝中。
母さんとフィーとマリモちゃんで、川の字ならぬ、小の字になって眠っている。
うーむ、実に幸せそうな寝顔だねぇ……。
(これなら、もうしばらくは目を覚まさないかな?)
今のうちに、外のブランコのメンテに行っておこうかしらね。
眠る家族に手を振って、俺は庭へと出かけていった。
※※※
金色の髪を巻いたその少女は、ブランコに腰掛け、そわそわと周囲を見渡している。
誰にも見られないように。
そして、『彼』が早く現れますようにと。
垣根の向こうから、『あの家族』をいつも見ている。
だから、来るべき時間も分かっている。
果たしてすぐに、その足音はやって来た。
金髪の少女――イザベラは、何気ない様子を装い、そっぽを向いた。
「……あれ?」
と、間の抜けた声がする。
死にかけの労働者のような気配の少年が、そこにいた。
「ぐ、偶然ね……」
イザベラは明後日の方向を見たままに喋るが、ここは完全に西の離れの敷地内であり、『偶然』を口にするのは、かなり苦しい状況と云わざるを得ない。
けれども、『彼』は微笑する。
「うん。偶然だね。こんにちは」
「……こ、こんに……は」
挨拶を交わすのが恥ずかしいのか、少女はちいさな声で、そう返した。
彼女がここにいる理由――。
それを『彼』は何となく察しているが、わざわざ口にすることもない。
かわりに、彼女が身につけているアクセサリに視線を移した。
「それ、付けててくれてるんだね」
「そ、そうよ……っ。せ、せっかく、貴方が作ってくれたんだから、つ、付けてあげないと、可哀想でしょう? 別に、気に入ってるからじゃないんだからね! や、優しい私に、感謝しなさい……っ!」
「うん。気を遣ってくれて、どうもありがとう」
「…………っ」
イザベラの顔は、真っ赤になっている。
何でそうなるのか、本人にも分からない。
彼女は、目を合わせずに云う。
「で、でも、少しだけ……。す、少しだけは、デザインを、褒めてあげても良いわよ? 少しだけなんですからね……っ!」
「うん。少しでも気に入って貰えたなら、俺も嬉しいよ」
『彼』は、本館勤めの童顔のメイドさんから、イザベラが大のお気に入りの銀細工を、常に身につけていることを聞いているのだ。
巻き毛の少女は、続けて云った。
「こ、この細工物は、恐れ多くも第四王女殿下も、注目して下さっていたわ! 光栄に思いなさいっ。どこで買い求めたものなのか、訊かれちゃったんだからっ!」
「それは社交辞令なのか、本当に興味を持ってくれたのか、判断に困るねぇ」
そう呟く少年の顔には、奇妙な余裕があった。
この国の王女殿下の話題を前にして、畏まっている様子は、どこにもない。
イザベラは、胸元を押さえながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「あ、貴方、王女殿下と顔見知りなの……?」
イザベラの脳裏に、つい最近、王宮で見かけた脳天気な兄妹の姿が浮かぶ。
あれは一体何であったのか、ずっと気になっていたことだ。
「あー……。うん。あれはねぇ。単なる偶然なんだ」
「ぐ、偶然……?」
「キミも村むす――もとい、第四王女殿下と知己なら、あの子が好奇心旺盛なのは、知っているだろう?」
「……え、ええ。とても気さくで、色々なことに興味を示される御方よ」
「で、俺の場合、魔術試験に行ったときに、あの子のほうが興味を持って、平民と貴族を別けるついたてのほうに、歩いてきたんだよ。だから最初は、彼女の身分も知らなかった」
云ってから、『彼』は自らの失敗を認めた。
免許試験。
その名称を出すのは、傷をえぐることになるのだと知っていたから。
童顔のメイドさんは、『彼』を抱き上げ、フリフリしながら、こう云っていたのだ。
「アルトくん、アルトくん。イザベラ様は、九級試験、また落ちちゃったみたいなんです。それで奥様が激怒されて、折檻もなさって……。イザベラ様はとても落ち込んでいらしたから、もしもお目に掛かることがあったら、慰めてあげて欲しいんです」
九級試験の筆記は、勉強さえしていれば、そこまで難しいものではない。
けれども、年齢一桁の少女が、易々と突破できるものでもない。
幼稚園児や小学校低学年の子に、中学の数学を解けというようなものだからだ。
(そんなことで激怒する、トゲっちがおかしいんだよなァ……。この子、年齢考えれば、メチャメチャ優秀だろうに……)
果たして、イザベラは俯いていた。
努力家で誇り高い彼女は、結果が出なかったことと母の怒りを買ったことに、とても傷ついているようだった。
「あ~……」
くたびれた少年は、自らの髪の毛を掻き回した。
それから、ばつが悪そうに云う。
「俺で良かったら、少し勉強、見てあげようか?」
「――――っ」
ピクンと、金色のドリルが揺れる。
父親譲りの緑色の瞳には、ある種の期待と、そして『疑念』があった。
「貴方は、勉強が出来るの? 館の使用人たちは、近習試験にも落ちたグズだって噂しているわ……」
「いやまァ、グズなのは間違いないけどね? 九級試験の範囲なら、合格しているから、教えられないこともないよ」
「ほ、ほんとう……っ!?」
「うん。確か九級だと、まだ暗記が重要な部分が多いし、普段は憶えることに集中して、教えるところをそれ以外に絞れば、大丈夫なんじゃないかなァと」
「じゃ、じゃあ……っ!」
勢いよく顔を上げたイザベラは、しかしすぐに、その表情を曇らせた。
「……ダメよ。貴方と一緒にいるなんて、絶対にお母様が許さないわ……」
「まあ、確かに勉強を教えるとなると、それなりにまとまった時間が必要になるだろうからねぇ。コッソリってのは、難しいだろうし、何とかならんかなァ……?」
『彼』は困ったように、うんうんと首を捻る。
その様子は、本当に『自分』を案じてくれているのだと分かった。
母よりも、そして父よりも、不思議な『近さ』を感じた。
家族のような温かさがあった。
「お、にい、さま……」
ポツリと、そんなことを呟いてしまう。
その声はあまりにもちいさくて。
唸りをあげる『彼』の耳には届かない。
イザベラはハッとし、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
「うん? どうかしたの?」
「な、なんでもない……っ! なんでもないの……っ!」
彼女は、思わず駆け出してしまう。
耳までを朱色に染め、黄金のドリルを揺らしながら。
気配が死んでいる少年は、ポカンとしてその様子を見送っている。
イザベラは駆けながら、考える。
(もしも私に、お兄様がいれば――)
あんな風に、自分の傍に居てくれただろうか?
常にぬくもりを、くれたのだろうか?
答えなど出るはずもなく、女の子は駆けていく。
何ひとつ問題は解決していない。
それなのに。
そう、それなのに、何だか胸のあたりが、ポカポカとしていた。
イザベラは、赤い顔で笑っていた。
 




