第六百三十五話 悪魔のささやき
やる気を出す――というときが、人にはある。
何か切っ掛けがあって発奮する場合もあるが、何となく『そんな気分』という場合も、また多い。
その日、後者でやる気を出したのは、うちの可愛い先生様であった。
「……ん。今日は、ご飯を作るの、がんばる」
無表情にそう呟いて、夕方から時間を掛けて準備をして、美味しい晩ご飯を作ってくれた。
しかし俺的に見逃せないのは、その『戦闘服』のほうなのだ。
エイベルはご存じの通り、クラシックな魔女スタイルをしている。
けれどもこの日のマイティーチャーは、別の衣服に身を包んでいたのである。
それは割烹着と三角巾という、完璧なまでの『おさんどんモード』であった。
うちの先生はちんまいので、こういう格好をするとなんというか、ちいさい子が頑張っているように見えてきて、ついつい応援したくなる。
というかしてみたら、恥ずかしがりながらも不思議そうに首を傾げていたが。
ちなみに、今回の『おさんどんモード』は、母さんのファインプレーなのだ。
「エイベル、せっかく可愛いんだから、おうちのなかくらいは、それに相応しい格好をしなければダメよぅっ」
とか云われて、屈した結果なのである。
ちなみにこれは、今回から云い出したことではなく、年単位で云い続けて、やっとである。母さんの執念、おそるべし。
この調子で、何とか今年の夏は、ワンピースを着て欲しいと思うのだが。
「エイベルさんは、アルトきゅんに、甘々ですからねー」
「むぅっ!?」
強烈な邪気を感じ、振り返ればヤツがいる。
悪魔のメイド。
邪神・ミア・ヴィレメイン・エル・ヴェーニンクが!
「今回のエイベルさんの格好、アレ、お義母さんが『ずっと同じ格好だと、アルちゃんに嫌われちゃうわよー?』って、云ったからだと思いますねー」
ミアの声真似は、微妙に似ていて、微妙に似ていなかった。
今、うちの女性陣はお風呂に行っている。
つまりここで襲われれば貧弱な俺ひとりで、この怪物に立ち向かわねばならない。
なので俺は、最大限の警戒をしながら尋ねる。
「な、何のようだ……?」
「そんなに怯えないで欲しいですねー。お姉ちゃん、傷ついちゃいますねー。安心して欲しいですねー。まだ、何もしませんよー?」
おい。
寸毫程も安心出来ないんだが。
呆気にとられる俺を前に、ミアは胸元から封書を取り出した。
そこには見覚えのある、封蝋印璽がある。
これは、俺の知り合いのお貴族様のものだ。
「フレイからか……!」
それは紛れもなく、セロの名家、バウマン子爵家のものである。
さっそく開封して読んでみると、例の如く例の通り、貴族らしい長々とした時候の挨拶から始まっている。
内容を要約すると――。
――ゾン・ヒゥロイトとして王都へとやって来ることになった。到着して早々は自由時間があるので、その間に俺と会いたい、ということらしい。
軍服ちゃんと会ったのは去年の七月中。
そして、今は七月の頭なので、ほぼ一年ぶりである。
懐かしさに目を細めていると、いつの間にか俺の真横に座って手紙を覗き込んでいた不審者が、こつんこつんと肩に肩をぶつけてくる。
「アルトきゅん、アルトきゅん!」
「な、なんだよ……」
「私からのお願い、憶えてますかねー?」
「ヒゥロイトの写真を手に入れてくるって話だろう? 憶えてるよ、一応ね」
彼らには申し訳ないが、こればかりは仕方がない。
しかし、『こつんこつん』を続ける変質者は俺を見ながら、こんなことを云った。
「実はアルトきゅんにぃ……もうひとつ、お願いがあるんですねー」
「きかないぞ」
俺は確信した。
こいつのこの態度では、絶対にろくでもないことだ。
悪事の片棒を担ぐなど、真ッ平御免だ。
こちらの塩対応に、駄メイドはぷくっと頬を膨らませる。
この変質者、見てくれだけは良いからな。
こんな仕草なのに、妙に可愛らしく見えるのが腹が立つ。
「アルトきゅんは、もっとお姉ちゃんに優しくすべきだと思いますねー」
「俺に姉などおらん」
前世にも、おらん。
ミアはお冠なのか、『こつんこつん』の頻度が上がっていく。
くそっ、こそばゆい……っ。
なおも耐える俺に対し、駄メイド様は云う。
「むむむ……。そっちがその気なら、こちらにも考えがありますねー」
何をする気だ?
そう問うよりも早く、ミアは胸元から紙のようなものを取り出すと、これ見よがしに床へと落とした。
「な……ッ!?」
俺の思考は、一瞬で凍り付いた。
そこにあったもの。
それは、一枚の写真であったのだ。
「おっと! うっかり、おっこどしてしまいましたねー」
わざとらしく、ミアはそう云う。
くそ……ッ。
何が『落とした』だ。
これは、俺に見せつけるためだろうに……ッ!
四角い過去の中には、マイティーチャーの姿。
それは先程までの、『おさんどんモード』なのである。
手におたまを持ち、真剣な顔で鍋に挑んでいるエイベルの姿があった。
「な、何故、この写真が……ッ!? エイベルがこんな……ッ! こんな無防備な姿を撮られることを了承するわけがない……ッ!」
「くふ……っ」
ミアは意味ありげに笑うと、写真を胸元へと引っ込めてしまった。
これではもう、手が出せない。
俺は拳を握りしめ、震える声を絞り出す。
「何が……望みだ……?」
「はい、素直なのは良いことですねー。アルトきゅんは、常日頃からもっと素直になって、ミアお姉ちゃんに甘えるべきだと思いますねー」
素直だから、警戒していると云うのに……!
俺の心の軋みを理解したミアは、勝ち誇った顔で『お願い』を口にする。
「実はですねー……」
わざわざ、耳打ちをしてくる不審者。
耳たぶに唇がかすめて、酷くくすぐったい。
「バカな……ッ! そんなことを、俺に要求するというのか……ッ!?」
「別に断ってくれても構いませんねー。お姉ちゃんは、アルトきゅんの自由意志を、心から尊重しますねー。自分でも、ちょっと無茶な話かな、とは思っていますねー。なので無理強いはしませんので、気楽に答えてくれれば良いんですねー」
「ぐ、ぐぐぐ……ッ」
俺が断れないことを知っていて、そんなことを……!
「くふ……っ」
その日俺は、悪魔のささやきに屈した……。
※※※
「やあ、アルト! 久しぶりだね……っ!」
そして数日後。
目の前には、一年ぶりに会う畏友の姿が。
軍服ちゃんは、嬉しそうに俺の掌を握った。
白くてきめ細やかな手は、とてもmaleとは思えない。
「フレイも、元気そうで何よりだ」
「アルト様? そこは『元気そう』ではなく、『女ぶりが上がった』と云って頂きたいのです……」
完全に女性の声色で、パチリと片目を閉じてくるフレイ。
というか、いつまで手を握りっぱなしなんですかね?
しかし、『美人になった』というのは、本当だろう。
去年よりもしなやかで、まだ幼い年齢だろうに、妙な色香がある。
これで女性ではないというのは、本当に信じられない。
俺の心の動きを読んだのか、軍服ちゃんは艶やかに笑う。
「相変わらず、私は美しいだろう? これ程の美人には、お目に掛かったことがないのではないかな?」
「俺、エルフに知り合い、いっぱいいるんだけど……」
「むぅ……。美形で知られる種族を出すのは、少しズルいぞ?」
拗ねたような顔をする軍服ちゃん。
その様子も、女の子のそれっぽい。
ちなみに俺はエルフを引き合いに出したが、この世界で最も美しいとされる種族は、花精である。
そう、あの精霊種だ。
今もキシュクードで平和に暮らしているであろう、お花ちゃんことクッカ以外の花精には、どうにも良い印象を持てない俺である。
なにしろ頭目からして、あんなだし。
(ただ、悪感情があっても、美形だとしか認識できないのは、間違いないんだよなァ……)
花の精霊王のことは、ハッキリと嫌いだと断言できる。
けれどもあの少女は、おそらく俺の知る中で、ぶっちぎりの美人であった。
まあ、耳が普通な時点で、俺的にはエルフたちに総合的に劣るという結論だがね。
「――ところでアルト。そちらの女性は、何者なのかな? キミは平民なのだろう? 使用人を従えているとは、知らなかったが」
「ミア・クレーンプットと申します。どうぞ、よろしくお願い致します」
パーフェクトメイドさんモードで完璧な礼を取るのは、いつも通りに名前を詐称する王都一の変質者である。
そう。
ミアの要求とは、軍服ちゃんに会わせろというものだったのだ。
俺の手を握りしめたままで、フレイはニコリと笑う。酷く女性的な笑みだった。
「セロの子爵家当主、エドウィンが子。フレイ・メッレ・エル・バウマンだ。このアルトとは、唇歯輔車の間柄だ。よろしく頼む」
「音に聞こえしバウマン子爵家の嫡子様にお目もじ出来て、光栄の極みです」
擬態したままで、サラリと手を差し出すミア。
こいつ、フレイの手を握る気まんまんだな?
「…………」
しかし、薄い笑みを浮かべたままの軍服ちゃんは、スッと距離を取る。
「あの……? 何か……?」
ミアが首を傾げる。
擬態しているときのこいつは、本当に掛け値無しの美少女にしか見えんな。
けれども、フレイは笑みを浮かべたままで云った。
「私はヒゥロイトの人間で、従って演技には一家言持っている。更に加えて云えば、仕事柄、『危険なお客さん』には敏感でね?」
ピシッと、擬態したままのミアが凍り付いた。
う~む、流石はプロの役者さんだ。
駄メイドの本質を、一目で見抜いているとは。
彼はすぐに戻ってきて、まるでか弱い少女が隠れるように、俺の背中に張り付いた。
「アルト様? わたくしを危険な目に遭わせるようなことは、ございませんよね……?」
そういや、この子も小悪魔だったよね。
友人のささやき声を聞きながら、俺はそれを思い出したのだった。




