第六百六話 天覧・共催御前試合(その四)
ジャクスローと云うのが、その医者の名前だった。
彼はムーンレインで最高レベルの医術者ではあるが、その評価は、『変わり者』、であった。
何しろ彼は、仕えるべき特定の主を持たない。
彼程の腕と名声があれば、王室お抱えにも、貴族の専属にもなれることであったろうに。
実際、ジャクスローの腕は凄まじく、これまでに難病の類をいくつも治してきている。
従って声望も高く、諸侯が争って望む程の者であった。
けれども前述の如く、ジャクスローは在野の医術者のままである。
必要とあらば、貴族間の派閥を超えて治療に出向くし、金持ちを後回しにして、平民の家を訪ねることもある。
どうやら彼には独自の価値観やルールや優先順位があるようで、それでいっそう、変わり者扱いされている。
それでも仕事も仕官要請も途切れないのは、それだけジャクスローの腕が優れていることを物語る。
彼に対する評価のひとつに、『あれ程の腕がありながら、まるで慢心しない』というものがあった。
事実彼は常に控えめであり、弟子となることを希望する人々も謝絶していた。
その理由は、己がまだまだ未熟であるから、というものであった。
人々はいよいよジャクスローを褒め称えたが、実際に彼は自分の腕に強烈な不満を抱いているのであり、そこに謙遜の情というものは、一粒たりとも、無かったのである。
(ああ、クソ……っ! 何で私は、こうも無能なのだ……っ!)
そこには、一種の怒りが渦巻いている。
ジャクスローの主観の中では、これまでの医者としての人生は、まさに『蹉跌の連続』だったのである。
確かに、若い頃は慢心もした。
自分を天才だと勘違いもした。
だが南大陸へ遊歴した折に、そこで出会ったアレッタという名の小生意気なエルフに医術対決で完敗し、鼻っ柱をものの見事に叩き折られ、
「フン、無様ね! 所詮は人間だわ!」
などと冷笑され、暫くの間、落ち込んだ。
それから猛勉強を重ねて自信を取り戻したと思った矢先、生まれながらに病弱であった第一王子――この国の王太子の治療に掛かるも活路を見いだせず、その後、第四王女の生母であるパウラ王妃の死病を取り除くことも出来ずに王女殿下を悲しませ、ヴェンテルスホーヴェン侯爵家の依頼で、そこの歴戦の騎士であった『楼の四剣士』のひとり、ピストリークスの痛んだ腕を治すことも出来なかった。
また直近では、とある公爵家令嬢の病気を完治させるどころか、原因の究明すら出来ずにいるという次第。
(つまり、手も足も出ないのだ! こんな私が、何で――)
目の前にいるのは、獅子のような顔と雰囲気を持つ、若き侯爵。ブルクハユセン侯・ランバーである。
ジャクスローは彼に請われて――あくまでランバーの主観だ――開催間近の、御前試合の医療スタッフとして参加することが決まっている。
本当は、断りたかった。
けれどもジャクスローは、以前にこの侯爵からの切実な依頼を、失敗しているのである。
(雪辱の機会を与えると云われても、私などでは……)
チラリと、同室にいた侯爵令嬢・トゥーリを見つめる。
彼女は、何ひとつ口を開かない。
この幼い令嬢の胸中など知る由もないが、ただひとつだけ、ジャクスローにも分かることがあった。
それはトゥーリが、御前試合に熱意を注いでいると云うこと。
勝ち抜こうと、欲していることだ。
「ドクター」
ランバーは、見た目通りの低い声を響かせる。
貴族のご婦人方を魅了する、バリトンボイスだ。
魅惑の声色でもあるが、場合によっては震え上がる程に恐ろしい喉なのだと、ジャクスローは知っている。
医師は、居住まいを正した。
侯爵は云う。
「戦いに流血はつきものだ。――が、陛下が観覧なさるという事情もある。救える命は、極力救って貰いたい」
「は。それは、私も医師の端くれ。誠心誠意、努めさせて頂きます」
「うむ。殊に今回の試合の主役は、未成年たちだ。その中には更に、『年少者』の部門もある。そちらで人死にを出すわけにもいくまいよ」
「仮に伏龍鳳雛が中におり、将来の大樹の芽を摘んでしまいました、ではすみませんからな」
「クク……。いとも容易く斃されるような者が、あの予言者に『天下も取れる』と云われる存在なわけがあるまい」
「はあ……。では、その逆――挑戦者が、開催者側を手酷く打倒すると?」
「その可能性はあろう。えてして子どもというものは、加減を知らぬ。尤も、前座の騎士たちは兎も角、『五人目』は名うて揃い。むざむざと後れを取るとは思えぬがな」
どこか獰猛な笑顔で、ランバーは口端をつり上げる。
ジャクスローは、顔を引きつらせた。
侯爵は、自らの娘を見る。
「実は今回、トゥーリがやる気を見せていてな?」
「は。姫の技量ならば、相当な戦果を挙げるかと」
「でなくては、意味がない。――そうであろう? ドクター」
「…………」
ランバーの云わんとしていることを、ジャクスローは理解している。
おそらくは、これは最初で最後のチャンスなのかもしれないということを。
(陛下を招いたのは、その為か……)
ジャクスローは、侯爵の意図に気付いた。
けれども、それを表に出すような態度は取らなかった。
(……トゥーリ様、無茶な戦いをせねば良いが……。或いは侯爵様は、意地でも五人抜きをさせるおつもりか)
命を救う云々という言葉も、まさかそこに掛かっているのでは?
ジャクスローは、冷や汗を流す。
「ドクター」
「――は、はい」
「このムーンレインには、神童と呼ばれる魔術師がいるのは、知っているな?」
「シーラ殿下ですな? それはもう、知らぬ者のほうが珍しいのでは」
「そちらではない。もう一方のほうよ」
「と、云いますと、平民出身の子ども……というやつでしょうか? 申し訳ありませんが、私は寡聞にして、件の魔術師の詳細を知りませぬ。第四王女殿下の近習試験で、たいそうな試合をしたという噂も聞きましたが、一方で結局、落選したとも。実際、傑物なのかそうでないのか、私には分かりません」
医師の困惑に、侯爵は、くつくつと笑った。
「虚名と実像。尊いのは無論実像ではあるが、必ずしもそうであるわけでもない、と云うことがあるから現実は面白い。重要なのは、虚実入り交じっていても、広く知れ渡っていること。そういう場合も、あるのだろうよ」
「まさか」
ジャクスローは、青ざめた。
ランバーは、そういう可能性まで、考えているのかと。
獅子の如き顔をした若き侯爵は、イスに深く座ると、笑みを浮かべたままに虚空を睨む。
「ベイレフェルト侯には、感謝しかない。今回も、多く骨を折って頂いた。俺の思惑も、汲んで貰ったしな。――それとも、あちらはあちらで、『信頼』があるということかな?」
「…………」
ジャクスローは、最早何も云えなかった。
ただ、治療の準備だけは万全でいようと心に誓うのみで。
中空を見上げたままで、ランバーは独り言のように云う。
「――アレは、治らぬのであろう?」
「……申し訳ありませぬが、手立てが思いつきませぬ」
「ならば、出来る範囲で、出来ることを、だ。そうだろう?」
「……私如きの非才な者には、口出しをする資格も権利もありませぬ」
「――そして、肯定もせぬか。俺のやり方が不服か?」
「……滅相もございません」
「フ……。ドクターは刀圭家としての腕は兎も角、役者としての才はないらしいな」
「医師としても、まだまだ未熟でございますれば」
ランバーは、笑みを浮かべたままでジャクスローを見る。
その目が笑っていないことを、腹芸が苦手な医師も理解している。
「ドクターには、何か望みはないのか? ギラつくような、野心の類が」
「さて……。そのようなものは、蹉跌と挫折の連続で、とうに摩耗致しました。ですが、叶うことならば――」
「何か?」
「伝説に謳われるアーチエルフ。始まりのエルフに、『医』の教えを請うてみたいと思ってはおりますな」
ジャクスローが云うと、侯爵は笑った。
そこにあるのは、純粋な大笑い。
医師の畏れる獰猛さが無かった。
「ドクターも、なかなかに冗談が上手いな。流石に実在せぬ相手からは、ものを学べぬであろうが」
「叶う叶わないではなく、そうありたいという『願い』でございますれば」
そのような遣り取りの後、ジャクスローは笑顔を背に、ブルクハユセン邸を退去することが出来た。
扉が閉じる瞬間に、侯爵家の姫を振り返る。
彼女の心中を察することは、彼には出来なかった。
帰路の道すがら、空を見上げて思いを馳せる。
「侯爵閣下の意図は理解した。では、トゥーリ様はどうなのだ? あの方は、何のために戦われるのだろうか? 何を欲して、剣を握られるのか?」
その意志も。
覚悟も。
ジャクスローには、分からなかった。




