第六百二話 ヒツジちゃん旋風録
フロリーナ・シェインデル。
それが、その少女の名前である。
彼女のお気に入りの少年からは、ヒツジちゃん、などという身も蓋もない名前で認識されている、ふわふわヘアーと見事な巻きツノの持ち主。
種族柄、同年代の子どもたちと比べても、突出した魔力量を持ち、最も得意な魔術属性は、希少な光属性。
しかしてその実態は、ただの甘えん坊な幼児なのであった。
「あるー……」
その日、ヒツジちゃんことフロリーナは、ぺたんと床に座ったまま、お空を見上げていた。
想うのは、ひとりの少年のこと。
フロリーナは、いつ、どこで、何故、『彼』と知り合ったのかを憶えていない。
当時はまだ二歳だったのだからそれは当然で、たとえば同じ幼児でありながら、二歳時の記憶を明確に保有しているフィーリア・クレーンプットなどが、この点では明らかに異常であると云える。
フロリーナは、日々、大好きな『彼』に会うことを望んでいた。
けれども、それは叶わない。
だからこうして、寂しく佇んでいる。
「フローチェ様、戻りましたよ?」
「ああ、お帰りなさい、ナッツさん」
そこに、買い物に出ていたヘルパーさんが戻ってくる。
ヒツジちゃんの母親であるフローチェ・シェインデルは、笑顔で彼女を出迎えた。
この両者は雇用関係にあるが、互いに相通ずる信頼があった。
早い話が、友人のようなものなのである。
ナッツは買ってきた荷物を置きながら云う。
「ダメですね、やっぱり、あのパン屋さんは閉まっていました」
「あら、またですか? もうずっとねぇ? 身体でも壊しているのかしら? あそこのパン、とっても美味しいから、フロリーナに食べさせてあげられないのが残念だわ」
フローチェの呟きに、ナッツは声を潜めて告げる。
それは彼女にとっても大切な、フロリーナに聞かせないために。
物事を理解できぬ子どもが相手であっても、耳に入れない方が良い話題というものはあるはずだ。
また、そういう配慮が出来ない人間にはなりたくもなかったのである。
「実は奥様。例のパン屋さん、どうも亡くなったみたいなんです」
「――亡くなった!?」
フローチェは、慌てて口を押さえる。
愛娘は、まだ空を見上げていた。
ナッツは頷く。
「どうも、無理心中みたいで」
「そんな……」
「何があったのかまでは分かりませんが、こんな世の中ですからね」
確かに、人の死というものは、極めて身近なものだ。
或いは、急にいなくなることも。
(ヨリック……)
フローチェは、ちいさく俯いた。
余計な情報を与えてしまったとナッツは恥じたが、すぐに笑顔を作った。
明確な朗報が、届いていたのである。
「フローチェ様、こちらを」
「手紙? クロンメリン女史からかしら……? いえ、違うわね。これは――」
在野の学者は、たちまち笑顔を取り戻す。
それは、同じ『ママ友』――リュシカ・クレーンプットからの手紙であった。
「フロリーナ……っ!」
「んぅ~……。まーま……?」
直後に、ふわふわヘアーの幼女が、喜びの絶叫をあげていた。
※※※
「え、と……。精霊ですよね、この子……」
「ふふふ~……っ。私の子です~。可愛いでしょ~?」
「え、と……。ハーフ、というわけじゃ、ないですよね……?」
「私の子よー?」
「いや、あの、せい――」
「ノワールちゃんは、私の子なのです」
翌日。
シェインデル家で、そのような遣り取りが発生していた。
魔導学者フローチェ・シェインデルは、リュシカ・クレーンプットの迫力ある笑顔の前に、詮索を諦めた。
(精霊の幼体って、確かもっと不確定な姿のはず――。それこそ、ぷかぷかと浮遊する、丸い玉みたいに。そこに食欲以外の明確な意志はなく、知能だってろくに発達していないはずなのに……。けれどもこの子は、明晰な頭脳と確固たる意思がある……。つまり、ただの精霊ではない。もっと高次元の者――。もしや、大精霊なのでは……?)
少ない資料から仄聞するところによれば、大精霊ほどの存在になると、自身の適正と魔力に満ちた地域などに限定されはするが、天候操作や地質の変化すら可能と云われている。
その上の存在――精霊王に至っては、『世界改変』の力すら有すると云われているが、流石にこれは大仰な表現であり、誇張されて伝わっているのだろうとフローチェは考えている。
しかし、精霊族が総じて膨大な魔力を持つことは事実であり、魔術の素人たる観測者たちに、『世のあり方が変わった』と誤認させるくらいの大魔術を発動させられる者だということに関しては、彼女も異論はない。
ママ友によって、ズズイッと前に出された幼児を見てみると――。
「あきゃ~……。きゃっ!」
黒髪の幼女は、見よう見まねで、ぺこりんと頭を下げた。
挨拶のつもりのようだ。
世間にある他所の子がこれを行ったのであれば、
「あら~、ちゃんとご挨拶できて、偉いわねー?」
などと相好を崩していたに違いない。
黒い瞳は、曇りなくフローチェを映している。
この子が大精霊の幼体でなれなんであれ、『良い子』ということだけは、間違いがないようだとフローチェは思った。
「うちのノワールちゃんと、フロリちゃん。お友だちになれるかしら?」
リュシカ・クレーンプットは、のんびりとそんなことを云う。
魔導学者が闇の精霊に驚いていた一方で、大切な我が子たちは、強風・旋風のまっただ中にいるというのに。
「めーっ! ふぃーのにーたから、離れるのーっ!」
「やーっ! あるぅ! あるー! ふろり、あるとあーぶんだもん!」
しおれた野菜クズのような気配を持った少年が、左右から引っ張られていた。
彼の身体が真ッぷたつになっていないのは、女児たちの腕力が足りていないという、ただそれだけの理由であって、もしもこの両幼女にオーガの膂力があれば、既にちぎれた野菜クズと化していたことであろう。
「あらあら、フィーちゃんったら」
リュシカ・クレーンプットは長女のもとに歩いていって、娘をササッと抱きかかえてしまった。
競争者のいなくなった野菜クズを、ふわふわヘアーの幼女が抱きしめる。
「あるぅ! あるーっ!」
「やーっ! にーた、やぁーーーーっ!」
銀髪の女の子は、この世の全てに絶望したような顔で、実兄に手を伸ばした。
フローチェは泣き叫ぶ子の相手は、あちらの家族に期待することにして、自分も我が子を抱えあげ、黒髪の幼女の前に、フロリーナをトンと置いた。
「あにゅ?」
「あにゃ?」
かくして、ふたりの幼女が対面を果たす。
大きなおめめが、互いの姿を、じーっと見つめていた。
フローチェは背後から追いかけるように、娘に云う。
「フロリーナ。その子――ノワールちゃんと、遊んであげて?」
「まーま……? ふろり、あるとあーびたい……っ!」
その言葉に反応したのは、自分の妹を慰めながら苦笑を浮かべる、廃棄野菜のような気配の少年だった。
「うん。後でいっぱい遊んであげるから、うちのノワールとも仲良くしてくれると嬉しいな? ――ノワール。ヒツ……じゃなかった。フロリちゃんと、遊んであげて?」
「にー? うきゅ」
両者とも、大好きな家族からの要請は断れない。
再び、ジッと見つめ合う。
ふたりの母親は沈黙をもってその様子を見つめたが、BGMが静かではないのは、銀髪の幼女が泣き叫んでいることと、お手伝いさんのナッツが、
「こ、これはメロン……っ! それも、高級品種の……っ! ま、まさか、セロの果樹園のものですかッ!?」
とか大声で驚愕していたからであろう。
黒髪の幼女と、ふわふわな幼児は、どちらからともなく手を伸ばし――。
「むきゃっ!」
「きゃーっ」
握手ではなく、ハグをしだした。
そのままの体勢で、ゆらゆらと揺れている。
端から見れば意味不明な光景ではあるが、幼児同士には、『よくわからないが、とにかく楽しい』という行動が時たまあって、この場合もそれであったろう。
ふたりは訳も分からぬままに笑いあっている。
「えへへ~♪」
「あきゃきゃっ!」
「あら~……。フロリちゃんとノワールちゃん、仲良くなれたみたいねぇ?」
「ノワールちゃんが良い子で、助かりました。うちの子、懐くと遠慮がないんですが、最初は小心というか、妙に人見知りなところがありますので……」
しかし、子どもの行動には脈絡がない。
次の瞬間にはヒツジちゃんはノワールを手放し、再び野菜少年に突撃していた。
「あるー♪ あるぅ……♪ きゃーっ!」
「めーっ! めーなのーっ!」
まさに吹き荒れる旋風であった。
普段は、実母かヘルパーさんとしか遊べないフロリーナにとって、今日は嬉しくも忙しい日であったのだから。
ふわふわ幼女は、クズ野菜の胸に顔をうずめて、グリグリと頬を押しつけている。
「あるぅ! あるぅー♪」
「痛ッ!? フロリちゃん、ちょっとツノが痛いかなー……?」
「あるー! あるぅーーっ!」
大好きな少年に思う存分甘えたり、黒髪のお友だちに抱きついて、ツノを当てて泣かせてしまったり、銀髪の幼女と張り合い続けて、互いにお邪魔キャラと認識しあったり、今まで食べたことのない甘い果物を笑顔で頬張ったり……。
子どもには、色々な関係の同年代の子が必要なのだと、フローチェは改めて思った。
彼女は、ママ友に問う。
「そういえばそちら様は、お子さんを託児所か手習いへは行かせないのですか? うちの娘は、もう少し大きくなったら預けようと思っているのですが」
「そうねー? 娘たちには、色々な場所で色々な経験をして貰いたいわねー。もちろん、本人たちの意思も大事ですけど」
「……ご子息のほうは? あれほど明晰な頭脳ですと、既に大人の学舎へ通っていても、遜色ないとは思いますが」
「それも、あの子の意思次第ねー……。ただ、あの子の教師は、もう立派に存在するから、上級学校へ行かせる意味はあまりないかしら? だから学舎へ行くなら、関係重視になるかしらねー? 楽しそうなところとか」
「彼の教師役とは、何者なのでしょうか? 余程の人物でないと、あれほどの子の先生役は務まりませんよね?」
その言葉に、リュシカ・クレーンプットは微笑むだけで答えなかった。
けれども、まるで我が事を褒められたかのように喜んでいることだけは分かった。
(えぇと……。まさか精霊と親交があって、高位精霊を招いている……とかじゃないわよね? ノワールちゃんも、その縁で預かっているとか……?)
あり得ないと思った。
しかし、筋道は立っている。
ただ、相手が話したがらないのだから、無理な詮索はやめておこうとフローチェは胸中で呟く。
目の前では、我が子が大はしゃぎし、笑っている。
今は、この事実だけで充分ではないか。
彼女は、お土産の果物に手を伸ばす。
その果実はとても甘く、そして美味しかった。
それはきっと、果物の質が良いという理由だけではないのだろう。
そう思える状況の素晴らしさを、彼女は尊いと思った。
全力で笑う愛娘。
それこそが全てではないか。
ただ、それこそが。




