第五百九十一話 哀は霧のかなたに
「ひぐ……っ! ふぇぇぇぇぇぇぇぇんっ! にーた! にぃたぁぁぁっ! たすけてっ! たすけてぇぇぇぇっ!」
目の前で、大事な大事な妹様が泣いている。
痛みと恐怖に顔を引きつらせて、懸命に俺に向かってちいさなおててを伸ばしている。
一方、怒っているのは、うちの母さん。
普段の温厚さはどこへやら、フィーを叱りながら、おしりを叩いている。
「あ、あぶ……っ! にー、にーっ!」
その様子には、母さんのことが大好きなマリモちゃんもすっかり怯えてしまって、末妹様は震えながら俺に抱きついている有様だ。
「にぃたぁっ! にぃたぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ! びぇぇぇぇぇぇぇんっ!」
マイエンジェルの叫びは悲痛であるが、母さんはお冠だ。
泣き叫ぶフィーに、更に怒ってしまっている。
「もうっ! フィーちゃん、違うでしょう!? アルちゃんに助けを求める前に、云うことがあるでしょうっ!?」
何で母さんがここまで怒っているのか?
フィーは何をしてしまったのか?
これをそろそろ、語らねばなるまい。
発端は、一本の木の棒だった。
まあ、うちの子の誕生日にエイベルがくれた例の棍棒――正確にはワンド――なんだけどね。
云うまでもないことだが、フィーは棍棒が好きだ。
何故だか知らないが、とにかく好きだ。
好きすぎて、家の中で持ち歩いているときがある。
しかしそれは、母さんに禁止されている。
だがマイエンジェルは、ついついお気に入りの棍棒を見つめているうちに、フルスイングしたくなってしまったらしい。
そうして云い付けを破って、室内でブゥン、ブゥン。
フィーの一撃は、よりにもよって母さんのマグカップにジャストミート。
中身をまき散らしながら壁にぶつかり、粉砕された。
更に間の悪いことに、落下した先にはマイマザー読みかけの恋愛小説が。
こうして妹様は、『家の中で棍棒を振るい』、『母さんの湯飲みを壊し』、そして『大切な本をダメにしてしまった』のであった。
これではリュシカ・クレーンプット様が激怒されるのは当然と云えよう。
そうしてマイシスターは冒頭の憂き目に遭っている――のだが、母さんが怒っているのは、それだけではないのだ。
実は、フィーはまだ謝っていない。
なのに俺に助けを求めていることが、母さんには許せないことであるらしい。
確かに『表面だけ』見れば、それはマイマザーが正しいのだが――。
「ひぐ……っ! にーた! にぃたぁぁっ!」
涙でぐしゃぐしゃになっているフィーは、それでもこちらに手を伸ばしている。
俺は母さんに云った。
「まあまあ、母さん。一旦、おしりを叩くのはやめてあげてよ」
「もうっ! アルちゃんまで! ダメよ、フィーちゃんを甘やかしすぎちゃ! この子の為にならないわ!」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ、母さん」
俺が説明する意志を見せると、マイマザーは訝りながらも、フィーを渡してくれた。
俺は妹様を抱きすくめる。
「ふええええええええええええええええええええええええええええん! にぃたぁっ! にぃたぁぁぁぁっ! ふぃー、痛かった! とっても痛かったよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「よしよし。大丈夫だからな?」
「ひぐ……っ! ぐす……っ! にぃたぁ……っ」
さらさらの銀髪を撫でてマイシスターを落ち着けている間に、母上様に説明をした。
「母さん、フィーはちゃんと謝れる子だよ。ただ、云い出せなかっただけなんだよ」
「むぅ……っ。云い出せなかったって、何よぅ?」
「ほら、母さんって、基本的に体罰はしないし、こんなにも怒ったりはしないじゃないか。でも、今回はことがことだから、やむなく叩いた。そうでしょ?」
「そうよぅ。私だって、大切な我が子を叩くなんてしたくないもの。でも、今日はダメ! フィーちゃんは、やりすぎたの!」
それは分かるんだけどね。
フィーはまだ、子どもなんだよ。
「母さん、フィーは謝る気がないんじゃないよ。怯えてるんだよ」
「フィーちゃんが、怖がってる……?」
そう。
つまり痛くて怖くて、それだけで心がいっぱいになってしまっているのだ。
それで俺に助けを求める以外の行動が取れなかったんだ。
この子は天才でも、まだまだ幼いのだから。
「ひ、ひぐ……っ! にーた……。にぃたぁぁぁぁ……っ!」
「よしよし。もう怖くないよ。――だから、母さんに謝ろうな?」
「ぐす……っ。う、うんなの……。おかーさん、ごめんなさい……」
「もう……」
フィーが心から謝っていることが分かったのだろう。
マイマザーもその怒気を引っ込めた。
気が抜けたのか安心したのか、マイエンジェルは、改めて泣き出した。
俺はそんな妹様の頭を撫でる。
我が家の天使様は、徐々に落ち着きを取り戻した。
それはきっと、母さんも。
「アルちゃん」
「何かな?」
「お部屋の片付けはお母さんがやっておくから、フィーちゃんとお風呂に入ってきなさい。アルちゃんもフィーちゃんも、お顔がべちょべちょだから」
まあ確かに、フィーの鼻水と汗と涙とよだれで、俺たち兄妹の顔はぐしゃぐしゃだ。
「わかった。そうさせて貰うよ。――ほら、フィー。お兄ちゃんと、お風呂に行こう?」
「う、うん……」
涙をぬぐいながら、マイシスターは頷いた。
そのタイミングで、ひょっこりとミアが顔を覗かせる。
「お風呂の準備は、私がしておきましたよー。あと、お片付けも私がやりますので、お義母さんは、ノワールちゃんの相手をしてあげて欲しいですねー」
どうやらこうなることを見越して、先に色々と用意をしてくれていたらしい。
おまけに、取り残されるマリモちゃんのフォローまで。
こやつは変態だけれども、メイドとしては有能なんだよね、実際。
『お義母さん』って云い方だけは、引っかかるが。
ミアにお礼を云い、ノワールを母さんに預け、俺たちは風呂場へと歩き出した。
※※※
さて、お風呂だ。
俺と一緒に体を洗って湯船につかると、妹様は漸く調子を取り戻した。
嬉しそうにこちらに抱きつき、もちもちほっぺを擦り付けてくる。
「にぃたぁ……。にぃたぁぁ……。ふぃー、にーた好き……。大好き……っ」
「うん。俺も好き」
「ふ、ふへへ……。にーた、あたたかい……!」
「そりゃ、お風呂に入っているからな」
「違うの。にーたはいつでも、心が温かいの。ふぃー、こうしていると、とてもポカポカするの……」
「そうか。でも、俺もフィーと一緒だと、心がポカポカするぞ?」
「ほんとー? ふへへ……。ふぃー、嬉しい……」
ちゅっと、キスをされてしまった。
妹様は云う。
「にーた、ふぃーと違って、おかーさんに全然怒られない。ふぃー、それ凄いと思う」
そうでもないと思うけどね。
危険なことをすると、母さんも怒るし。
あとは、バカなことをしでかしたときか。
――そう。バカなこと。
このときの俺は、魔が差したのだ。
まだ微妙に落ち込んでいるフィーを励ましてあげたいという気持ちもあったが、総合的に見て、魔が差したのだろう。
人にはどうしようもなく、愚かな行為をするときがある。
たとえば周囲が凍り付くだけだと分かっていても、思いついてしまった下らないダジャレを口にしたくなるときであるだとか。
そして今日の俺は、風呂場にいるのでアホな行動を取ったのであった。
フィーがバチャバチャと暴れるので、口の中にお湯が入った。
俺はそれを――。
(地球世界の悪役プロレスラーの必殺技だぜ~……っ)
悪い顔をしてから、ブフゥッ! と、霧状に噴き出した。
これぞヒールレスラー伝統の攻撃手段。『毒霧』である。
「ふぉぉぉぉおおぉぉぉ~~……っ!」
そして、そんな行動におめめを輝かせる子がひとり……。
「にーた! 今の格好良い! ふぃー、気に入った! それ、なぁにっ!?」
食いついたか……。
俺は調子に乗って、説明してしまった。
毒霧という必殺技の解説を。
「どくぎり!? 今の、どくぎり云う!? ふぃー、どくぎり気に入った! どくぎり、格好良い!」
さっそくお湯を口に含み、ブフーッと噴き出す妹様よ。
「本来は名前の通り、お湯じゃなくて毒を口に含むんだがな」
なおプロレスの毒霧の成分は諸説あるが、公式には明かされていない。
いや、明かされても困るが。
「にーた、にーた! 毒、口に含む、それ、どくぎりの使い手も危ないはず!?」
「気づいたか。だが、吹き付ければ危なくとも、口に入れても大丈夫なものも存在する。たとえば、ロッコルの実の果汁みたいにな」
「みゅみゅぅ……っ! あれ、確かに飲むと美味しい! でも、目に入ると痛い! ふぃー、それ知ってる! ならどくぎり、ロッコルの実の果汁でやる!?」
「それもひとつの手段だろうな」
あの実って、毒々しい紫色だし。
云われてみれば、案外、毒霧向きのものなのかもしれない。
「にーた、決めたの! ふぃー、どくぎり使いになる!」
「…………」
そんなことを即決で。
「ふぃー、思いついた! まず、どくぎりで相手を怯ませる! 怯んだところに、棍棒を振り下ろす! これで勝てる!」
それたぶん、卑劣と非難される戦法だと思うぞ。
というか、棍棒を好み、毒霧を噴射したがる妹って、異世界含めた宇宙全てを探しても、この子ひとりしかいないのではなかろうか?
ともあれ『お気に入り』を新発見してしまった妹様は、上機嫌で毒霧の練習を始めるのでありましたとさ。
※※※
「お帰りなさい、アルちゃん、フィーちゃん」
「あきゃっ!」
下らないことを楽しみ、ほこほこになって戻ってくると、母さんとマリモちゃんが出迎えてくれた。
部屋の中は既に綺麗になっている。
ミアは片付けを終え仕事に戻ったのか、姿が見えなかった。
マイマザーはフィーに気を遣っているのか、風呂上がりにスポーツドリンクを用意してくれている。
「喉が渇いたでしょう? それを飲んで?」
母さんらしい心配りだ。
しかしその娘さんは、青いおめめをキラキラと輝かせている。
(なんだか、猛烈にイヤな予感がするのぅ……)
マイシスターは元気よくコップを掴むと――。
「おかーさん! ふぃー、にーたに凄いこと教わった!」
「アルちゃんに? 何かしら? うちのアルちゃんは天才だから、きっと本当に凄い事ね? フィーちゃん、教えて教えて?」
「うんっ! ふへへっ、任せるの!」
いや、まさか、お前――!
止める間もなく、ブフーッという噴射音。
宙を舞う、カラフルな毒霧。
そして、
「みぎゃあああああああああああああああああああああああっ!」
淑女らしからぬ叫び声を上げて床を転げ回る、我らが母上。
これから何が起こるのかが分かったらしいマリモちゃんはガクガクと震えながら青くなり、一方で得意満面でお日様のような笑顔を見せる長女様。
俺はといえば、呆然と惨劇を見送っていた。
「あ、あ、あ、あ、アルちゃんっ! フィーちゃんっ! そこに座りなさァァァァァァァァァァァァいッ!」
結局、俺とフィーは、母さんにしこたま怒られたのでありました。哀。




