第五百八十八話 星の丘のエイベル(後編)
魔力。
まずは、魔力の話をしよう。
それが特殊なエネルギーであることは、誰もが知る。
この世界では大体において生き物が保持しているものであり、その強弱が魔術の発動に関わってくることは、今更説明するまでもないものだ。
また、強い魔力は独自の性質を得る。
たとえば凝固されて魔石になったり、より純度の高いものであると、精霊が生まれたりだ。
そしてその精霊族の主たる食料が、この魔力である。
良質な魔力は精霊をより強化するし、逆に淀んだ魔力は、精霊を邪精へと変えてしまう。
無論、魔力にも相性があって、たとえば雪精や氷精に、『炎の魔力』を与えようとしても、それは不幸な結果にしかならないだろう。
魔力を好む精霊とて、何でも食べられるというわけではないのだ。
故に、優れたエサ場は精霊たちにとっての、最重要地となる。
特に、多くの精霊と好相性のエサ場ともなれば、いっそうに。
――星の泉というのは、まさにそれであった。
この世界そのものが内包するエネルギー。
謂わば、星の魔力そのもの。
それが泉のように湧いている場所。
状況としては、水色ちゃんの管理する『聖湖』に近い。
つまりここは、多くの精霊にとっての、極上のエサ場なのであった。
「……この星の丘は、完全に外界から切り離されている。だからこそ、他の精霊たちの縄張りになることもなかったのだと思う」
エイベルは、そう云う。
俺はそれで、彼女の思惑を理解した。
同時に、出発前に彼女が云ったこと。
――相談はあるが、結論が決まっている。
その言葉の意味を理解したのだ。
「エイベルは、ノワールの住む場所を探してくれていたのか……」
そう。
元は闇の純精霊である、あの幼い女の子が生きていける場所の調査を依頼していた。
ノワールは他の精霊と比しても、圧倒的な力を有する。
しかしそれは裏を返せば、その力を維持出来るだけのエサ場が必要と云うことでもあった。
他の精霊の土地を間借りするのは、難しい。
なにせ、あの子は極めて食欲が旺盛だ。
並のエサ場では、ノワール単独で食いつぶしてしまう。
それでは大迷惑だし、共倒れとなる。
それに、魔力の純度も重要だ。
あの子は格が高い存在故に、並の魔力では、その存在を維持出来ない。
どうしたって、特別な場所が要る。
(うちで預かっていたのは、それを探すまでの、つなぎだったんだけどねぇ……)
日々、懸命に母さんに甘え、笑って過ごしているあの子。
そんな女の子に、『家族』との別れをもたらすのは、あまりに酷だ。
エイベルは云う。
「……既にリュシカは、ノワールを完全に我が子だと思っている。今更、自分の子を手放すとは思えない」
「それは、ノワールだって同じだろう」
ここは確かに、精霊の住環境としてはズバ抜けて優れているのかもしれない。
良質の魔力が大量にあり、しかも外敵の心配が、ほぼ無いのだから。
でも。
それでも。
ここは、『ちいさな女の子』が、ひとりでいるべき場所ではないと思う。
仮にノワールを、この場に置いて去ったらどうなるか?
あの子はきっと、ずっと泣いて過ごすだろう。
この場所で、たったひとりで。
子どもには何よりも、『愛情』を注いでくれる存在が必要だ。
だからこの場は、今のノワールには相応しくない。
(でも――)
あの子が育った後ならば。
そうなれば、話は違ってくるだろう。
精霊の寿命は長い。
だから俺や母さんの最期を、あの子は見送ることになるだろう。
その後ならば、ここの意味も変わってくるのかもしれない。
「……この場所は、私が見つけたもの。だから、私に占有権がある。その私が認め、宣言する。――この『星の丘』は、ノワール・クレーンプットの領地とする」
それは、遙かなる未来の居場所のために。
俺たちがいなくなった、その後のために。
エイベルが考え、用意してくれた場所だったのだ。
「……ありがとう」
絞り出すようにして、俺は云った。
この人はいつでも、うちの家族のことを考えてくれている。
それが嬉しかった。
「……ん」
先生は一見、無表情。
けれども口の端だけで、僅かに微笑んでくれている。
そっと寄り添う身体は、とても華奢でちいさくて。
だけど、しっかりとした、芯を感じたのだ。
エイベルはマリモちゃんを、『ノワール・クレーンプット』と呼んだ。
もともと名前がなかった存在に名付けをし、我が家の家族となったのだから、それで全く間違いはないし、これからもそうだろう。
では、エイベルは。
うちの先生の名前はどうなのか?
実は彼女の名前は、『エイベル』だけである。
他には、何もない。
たとえば俺と仲良くしてくれるハイエルフのひとりに、ヘンリエッテ副会長がいるが、彼女の名前は、ヘンリエッテ・バルケネンデ・ズヴォレ・スタラ・ラミエリオンという、とても長いものだ。
『ヘンリエッテ』が個人名。
『バルケネンデ』がファミリーネーム。
『ズヴォレ』が所属する里の名前。
『スタラ』は種族全体における役職名で、この場合は『聖域守護者』であることを示す。
尤も、ヘンリエッテさんは、既にそちらは辞しているが。
そして最期の『ラミエリオン』が、直系の祖先――大元たる高祖の名前で、放浪のアーチエルフ、ラミエルの末ということになる。
ただ大体において、『高祖名』を名乗りに入れるのはハイエルフだけであるようだ。
ノーマルのエルフがそれを名乗るのは、不遜であるという風潮があるとか無いとか。
エルフ族の名前についてヘンリエッテさん曰く、
「うちの商会長は、もっと名前が長いですよ? ひょっとしたら、ハイエルフで一番長いかもしれませんね」
とのことらしい。
俺は彼女のフルネームを知らないので、ちょっと気になるね。
翻ってエイベルは、『エイベル』だけだ。
これは始まりのエルフたちが、母たる『森の大聖霊』に作られたことに起因している。
たとえば、人が犬や猫を飼う場合。
その名前は一生懸命考えるだろうが、わざわざファミリーネームまでは作らないはずだ。
アーチエルフたちの場合も、これに当てはまる。
もともとは『種族』ではなく、『子ども』として作られた、たった八人だけの存在なので、名前だけだったのである。
だからエイベルやリュティエルや、その他の高祖たちも、『個人名』しか持っていない。
それについて俺や母さんは、共通の見解を持っている。
つまり、いつか彼女に、『姓』を名乗って欲しいと云うものを。
尤もこれは、強制して良いものではないし、デリケートな問題だろうから、軽々しく口にするつもりもない。
けれども叶うならば、『同じもの』を名乗って欲しいと思うのだ。
押しつけがましい考えかもしれないが、それはとても大切で、必要なことのように俺には思えるのだ。
「…………」
「…………」
先生と一緒に、空を見上げる。
天と地の狭間にあるこの場所からの星空は、とても綺麗で。
けれども横にいる人が、もっと気になって。
俺がそちらを向くと、全く同じタイミングで、エイベルは俺を見つめていた。
こんな何気ない『同調』が、それでも俺は嬉しかった。
同じことを思ってくれたのかと、笑みがこぼれる。
しかし、天性の恥ずかしがり屋さんの先生は、すぐに顔を背けてしまった。
赤くなった魅惑の耳をこちらに向けたままで。
誤魔化すように、エイベルは云う。
「……アル、お腹は減っている?」
「うん? お腹?」
特には――と思ったが、こう云うということは、『用意がある』ということなのだろうか。
「何か作ってきてくれたの?」
「……ん。お菓子を」
本当は、夜には食べさせない方が良いのだけれど――と、エイベルは云った。
「そいつはありがたいね。ご相伴にあずかりましょ」
「……今は夜だけれど、今日はピクニックのようなものだから」
デートとは、流石に云ってくれないね。
でも、エイベルの手作りを食べられるんだから、望外の幸福というべきだ。
照れ屋の先生のほうから、俺の手を握ってくれる。
俺は恩師に手を引かれながら、テーブルクロスの上を歩いた。
誰もいない。
誰も来られない、星の丘。
けれどもそこで行われるのは、おままごとのようなお茶会と、四方山話。
きっとそれで良いのだと、俺は思った。
ささやかなことではあっても、こんな日常こそが、大切な幸せなのだろう。
だって前を行くこの人は、こんなにも――笑みを浮かべてくれているのだから。
 




