第五百八十四話 深緑に、命尽きるまで(その二十四)
勝っている。
自分は圧倒的に勝っている。
それが、ポーレイの出した結論であった。
目の前にいるのは、子ども。
非力な、子ども。
自分が今まで蹂躙してきた、幼く儚い存在。
肉体のアドバンテージがあり、魔力のアドバンテージがある。
加えて経験のアドバンテージがあり、そしておそらくは、才能のアドバンテージもある。
文字通りの、大人と子ども――。
初めから勝負になどなるはずがなく、『比べる』という行いすらが、そもそもからしてバカげていると云わざるを得ない。
けれど。
けれども、だ。
自身の詠唱が終わり、眼前の年少者の魔術が構築されて行くにつれて、ポーレイは奇妙な危機感を抱き始めた。
それは理論的なものではなく、直感に属するものであったろう。
彼女に、『第六感』は無い。
しかし今、確かにポーレイは明確な恐れを抱いている。
(何……? 私は一体、何を恐れているの……?)
理由など分からない。
だが目の前の子ども。
自分がペットとして躾けて行くべき存在に、行動を許してはいけない気がした。
「喰らいなさいっ」
たったひとつの水の球。
ぶつけられても濡れるだけで倒されることすら無いであろう水の球が完成する前に、ポーレイは仕掛けた。
本当は、待ってあげるつもりだったのに。
哀れな魔術の完成を褒め、喰らってやり、それから、けなしてあげようと思っていたのに。
石柱のように堅い水の魔術を、彼女は発射していた。
「……えっ!?」
けれども、それは躱される。
先程の攻撃と同じように、ちいさな男の子は、ヒラリと躱してしまうのだ。
ポーレイは思う。
自分の魔術は、長いこと実戦で培われて来たもの。
敵を倒すためのもの。
こんな子どもが、おいそれと躱せるものではないはずなのに。
「どうなってるの……っ!?」
一度目は、必死に躱していたはずだ。
だが二度目は、それよりも明らかに簡単に避けている。
まるで、あっという間に学習でもしてしまったかのように。
その目には、今まで彼女がいたぶってきた子どもたちが抱いていた『畏れ』がない。
圧倒的上位者であるはずの自分を、歯牙にも掛けていない。
(気に入らない……っ!)
それがとっても、気に入らない。
ポーレイは再び、詠唱を開始する。
今度は単発の魔術ではない。
複数のそれを、同時に撃ち込む算段だ。
あの子どもは、目が良いのか勘が良いのか、それとも身体能力に優れているのかは知らないが、数発の魔術を同時に浴びる経験など無いはずだ。
「キツいお仕置き、行くわよ!」
それは云うなれば、水で出来た五本の柱。
子どもの身体能力では躱せる速度ではないし、範囲も広い。
怒りと屈辱で頭に血の上っているポーレイは、これを喰らえばアルトが死んでしまうであろうことになど、思い至ってもいない。
果たして撃ち出された五本の柱は一瞬のうちに、その全てが躱された。
子どもはスルスルとした素早い動きで、どの柱をも避けたのだ。
信じ難い光景であった。
(何で、そんなことが……っ)
ポーレイは、ワナワナと震える。
自分が同じことをしろと云われたとして、果たして実行できるものだろうか?
アルト・クレーンプットは目の前の女の攻撃などよりも、手の中の水の魔術に集中しているようだった。
彼女には、それも許せない。
己の攻撃に全精力を注ぎ込み、やっとのことで躱したのであれば、もしかしたら感心できたかもしれない。
だが、男の子の行動は、ほんの『ついで』とでも云わんばかりだった。
それが彼女のプライドを傷つけた。
ではアルトはどのようにして、これらを回避したのか?
それを本人に問えば、
「経験だよ、単なるね」
とでも答えたことであろう。
それは、日々の訓練。
敬愛する師との模擬戦。
ちいさなエルフの撃ち出す魔術の数々は、彼にこういった場合の『優先順位』を教えていた。
目の前で構築される攻撃が、ほぼ同時である場合。
どう動き、どう躱せばより安全な方向へといけるのか。
或いは反撃に結びつけられるのか。
来るべき『格上』との戦いを想定して、彼の師は広域魔術や包囲魔術からの生還を学ばせていた。
あのエルフの少女の扱う魔術の数々と比べれば、たった五本の水柱――それも直線的にしか動いてこない――など、アルトにとっては、ものの数ではなかったのだ。
(こういう時でも動じないでいられるように鍛えてくれた、エイベルに感謝……)
胸中で手を合わせ、くたびれた雰囲気の少年は、手の中の魔術を見つめた。
その『水』は、既に完成している。
ポーレイは、アルトを睨み付けた。
「そんな少量の水の魔術で、何が出来るというのッ」
「それはもちろん、自分に出来ることを」
彼はポーレイなどではなく、後背を見やった。
そこには心底心細そうにぽつんと立っている、少年の妹の姿。
「にぃたぁ……」
女の子はこんな僅かな時間でも、お兄さんと離れたことが不安で不満で、泣きそうになっているのであった。
この少女の目には、メルローズの女魔術師などは、脅威として映っていない。
もしも映っていれば、銀色の髪の少女自らが、ポーレイの排除に掛かったことであろう。
それは一体、誰にとっての幸運であったことか。
アルト・クレーンプットは云う。
「うちの子が寂しがっているんでね、貴女を、倒させて欲しい」
「あはは……! 私を倒す!? 無理に決まっているでしょうッ! でも、決着はすぐにつくわ! だってそんな水球だけで、私を倒せるはずがないんだもの!」
「それじゃ、試してみましょうか」
少年は駆け出した。
思いの外、俊敏であった。
或いは、何か武術の鍛錬でも積んでいるのかもしれないとポーレイは思う。
きっと、この素早さがあったから、たまたま自分の攻撃を躱せたのだと。
詠唱を開始。
接近に合わせ、一撃を見舞うと決めた。
向こうがこちらへ近づけば近づくほど、より回避は難しくなるという単純な理屈だ。
(これなら、躱せないでしょっ!)
ポーレイは、渾身の一撃を放った。
しっかりと狙いを定めた攻撃は、真っ直ぐにアルトに向かい――。
「えっ!?」
実に容易く、躱された。
速度、タイミングともに、申し分ない一発であったはずなのに。
ポーレイは驚愕する。
そして思い込む。
この子どもは、第六感を持っているのだと。
だから、こちらの攻撃を躱してしまえるのだと。
無論、実態は違う。
彼は、そんな破格の能力を有していない。
タネを明かしてしまえば、これはアルトが彼女の魔術発動の瞬間を見切ったからであった。
変換完了、即時の発射。
大きなズレもなく、これを繰り返す。
だから躱せる。
たとえば自分の師。
或いは一級試験で出会った気怠げプッツン女のように、攻撃の瞬間を微妙に変えてタイミングを読ませないと云った工夫がない。
全部が全部、同じ速度。
何回かの発射で、それが分かった。
故に、釣りやすい。
ドンピシャに思える瞬間をこちらから提供してやれば、きっとそれに食い付くだろう。
そうしてポーレイは、ものの見事にアルトに操られた。
そこには明確な、経験の差があった。
尤もこれを持って、ポーレイの未熟を責めるのは酷であろう。
通常は、一対一でそんなことを仕掛けてくる魔術師と何度も戦う機会がない。
こんなことを学べる機会、そのものがないのだ。
つまりこの一連の回避劇は、アルト自身ではなく、その師の訓練が実を結ばせたものであったのだ。
こういう場面に対応できるように鍛え上げている。
或いは、無数の魔術の雨の中でも、少しでも長く生き残れるだけの判断力を養っているのは、弟子を大切に思う、ある少女の願いであったのだから。
絶対の一撃。
そう思った攻撃を躱されて、ポーレイは呆然とする。
それはほんの一瞬のことであったとしても、瑕疵であったに違いない。
少なくとも、彼の目からすれば。
ポーレイが次弾を装填するよりも早く、目の前にアルト・クレーンプットが迫ってきていた。
たったひとつの水の球。
喰らったところで、大過ないと思っていたもの。
無害に位置すると侮った魔術。
だから余計に、回避が遅れた。
ぽかんと開けた、口の中に。
彼女の喉の、その奥に。
唯一の気道を塞ぐように。
たった一掴みの水が、明確に蓋をした。
「が……っ!? ごふ……っ!」
ポーレイは、もがき暴れる。
けれども目の前の子どもが作った水は、吐き出すことも飲み込むこともかなわない。
最初から、そんなことをさせるつもりが無い。
彼は自分の魔術を、そんなふうに設計しなかったのだ。
口の奥に入れば、生半なことでは排除できないようにと、ある種の悪辣さを込めて作り上げたのだから。
(本当はこの瞬間に追撃したいが、『雷絶』を構築するのも、今の俺にはきっついからな……)
相手の女魔術師に、水を除く手段無し。
そう見切りを付けて、追撃はしなかった。
けれども、彼女が倒れ伏すまで、こちらも隙を見せる訳にはいかない。
ここでポーレイが気絶するまで、見張っていなくてはならない。
(でも、ヴィリーくんやノエルの状況をチラ見するくらいの余裕はあるかな……?)
アルト・クレーンプットと女魔術師ポーレイの間には、大きな差があった。
それは才能の差ではなく、練度の差であったことだろう。
少なくとも、この戦いにおいては。
常に『格上』とあたることを想定され、『格上』と訓練し続けている少年に、慢心した魔術師が及ぶべくも無かったのだ。
かくしてふたりの魔術師の戦いは、『水の球』たったひとつで、カタがついたのである。




