第五百七十八話 とある女王の領地にて
それは、ノワール・クレーンプットの奮戦が行われる、ほんの一瞬前の話――。
花の精霊王の領域。
女王フィオレが精霊たちの領地の内で、最も壮麗で華麗と自負する花の玉座に、二名のエルフがやって来たのだ。
人族の大半が及ばぬ強大な魔力と実力を備えた『花の騎士』たちが、一目で竦み、身動きが取れなくなる程の存在の来訪であった。
ある者たちは、小声で語り合う。
「見よ。あれこそが生ける災厄。死と破壊の権化。この世で最も強き者。エルフの高祖・『破滅』だ」
「破滅の高祖――。実在したのだな。その戦歴とは裏腹に、全く姿を現さぬ故に、人間どもはもとより、我ら精霊族の間でも、実在を疑問視されるような存在が」
「傍に控えているエルフの女は何者だ? 伝え聞くところによれば、『破滅』は自らの護衛騎士を持たぬ高祖とされているはずだが」
エルフ族の始祖は、八人。
そのうちの三人が命を落とした最初の世界崩壊――。
命の季節が終わってより始まる幻精歴。
幻獣と星の申し子たち、そして紋章使いの生まれ始めた時代から、生き残ったエルフの高祖たちは、護衛騎士を持つようになった。
それは高祖らが云い出したことではなく、これ以上高祖を失うことを恐れたハイエルフたちによって始まった制度とされている。
彼らの懇願は命をかけたものであり、常に単独行動を好み、世界を自由に旅することを望んだ放浪の高祖ですら、その願いをはね除けることは出来なかった程だ。
そんな中でただひとり。
『専属騎士』を持たなかった者がいる。
それが『破滅』。
故に、彼女の実在性は、より霞むこととなった。
逆に最も騎士制度を整え、ハイエルフ有数の闘者たちに守られている者が、『天秤』と呼ばれる高祖である。
しかし、その『天秤』の高祖の配下には、ハイエルフ族最強――或いは双璧と呼ばれる二名のエルフは名を連ねていない。
花の騎士のひとりが、恐れを抱いた瞳で云う。
「高祖の傍に控えているのは、あの『天の杯』よ」
「天の杯……! バルケネンデの娘かっ! ハイエルフ族最強の魔術師ではないか! アレは、破滅の高祖に仕えていたのか!?」
柔らかい。
どこまでも柔らかい雰囲気を持つハイエルフの少女は、影のように破滅の高祖の傍に立つ。
僅かふたりのエルフ。
けれども、この領域そのものを滅ぼせるだけの戦力者。
花の騎士たちが警戒し、恐れるのは当然であった。
それに対し、玉座にある美しい少女は。
優美で落ち着いた笑みを持って、その二名を見下ろしている。
「エルフ族の首魁たる破滅の高祖直々に我が領地を訪れるとは、どういう理由なのかしら? 私も忙しい身の上。用件は手短に頼むわね?」
尊大な云い回しであった。
この場に血の気の多いエルフがいれば激怒したであろう言葉はしかし、エイベルとヘンリエッテの両名の心を揺らすものではなかった。
さる商会の副会長は、柔らかく微笑んで花の女王の姿を見つめる。
「陛下が忙しいというのは、事実のようですね。ここにあって、ここにいないのですから」
「……へぇ」
フィオレの瞳が細まる。
それは彼女の状況を一目で見抜いたが故の警戒心なのであった。
分体――。
この身が花の女王の『予備』であることを看破できる者は少ない。
たとえばすぐ目の前にいる表情のないエルフならば、『魂の状況』でたちどころに見破れるであろうが。
(魂命術を持たぬ身で、私の状況を理解しているか。全く、エルフというものは、どこまでも忌々しい)
そんな思考をフィオレはおくびにも出さず、重ねてエルフたちの来訪理由を問うた。
無表情の小柄なエルフが、淡々と呟く。
「……警告。私の傍での画策をやめるように」
「――っ」
ピクリと。
花の女王の眉が動いた。
それは分体を見破られたことよりも、大きな動揺であった。
尤も、ヘンリエッテ以外の者には、その心の波紋に気づかれることはなかったが。
フィオレは、その外見と同質の美しい声を響かせる。
「何のことかしら? 私はこの地の王。貴方の傍になど、用はないのだけれど?」
「……小規模な『世界』を展開しての潜伏。ベイレフェルト家の庭で、貴方が何を見つめているかを、私は知っている」
「…………」
正確に云い当てられ、フィオレは微笑を浮かべたままに身を震わせた。
(どういうこと……!? 魂の質量から、分体が見破られるのは分かる。けれど、文字通りに『別次元』にある私を、何故見つけられる……!?)
それは彼女の持つ『世界浸食』が、このちいさなエルフには通用しないことを意味していた。
業腹ではあるが、自分はまだ『破滅』には及ばないと自覚せざるを得なかった。
けれども、高祖の言葉を認めることもしない。
そんなことは、プライドが許さない。
「――つまり、エルフの高祖よ。貴方は私に、云い掛かりを付けに来たと?」
「……私は、『警告』と云っている。素知らぬ顔を決め込むのであれば、それでも良い。以降、私がそれを力で排除に及んでも、この『花の領域』とは無関係ということにさせて貰う」
「……っ」
フィオレは胸中で、己の失策を認めた。
言質を取られないつもりが、言質を与えたことになってしまったからだ。
「……百歩譲ってエルフの高祖の云うとおりだとしても、それが何になると云うのです? アレは人間族の子ども。貴方に所有権があるとは思えませんが?」
彼女は目を逸らしながら呟いた。
間近で見ていたヘンリエッテは、拗ねた子どものようだと心中でひとりごちる。
商会の副会長は云う。
「『彼』は、天秤の高祖様自らが、名誉エルフ族であると公認されております。つまり『彼』に手を出すのであれば、それは我々エルフ族そのものを敵に回す行為であるとお考え下さい」
この場にその『彼』とやらがいれば、「ちょっと、その称号広めないでよォッ!?」とでも涙目で云ったであろうが、幸か不幸か、『彼』はこの場にはいなかった。
フィオレは静かに目を細める。
「――ああ。囲い込んでいるから、手を出すなと」
明らかな侮辱であり挑発であった。
ヘンリエッテは、フィオレなどよりも高祖を見る。
彼女は特に怒りを覚えてはいないようである。
なので商会副会長は、花の精霊王の言葉を静かに無視した。
精霊王は、静かに笑っている。
それは現在進行形で、彼女らの裏をかけているからであった。
(アレがエルフ族の『手つき』と聞いたのは、『たった今』の話。そして、別の私があの子どもを連れて行くのは、この瞬間。アレを私の世界に仕舞ってしまえば、あとの抗議など、どうとでもなる)
エルフ族の云う『彼』は、今まさに西の離れの一室で、フィオレに囚われていた時期なのであった。
だから女王は、笑顔で云う。
「今回の訪問は、的外れで見当外れの云い掛かりでしかありませんが、我ら花精とエルフ族の長年の誼を考えて、不問として差し上げましょう。どうぞお引き取りを」
「……警告はした。無駄な争いが起きないことを願う」
「起きませんよ。そちらが再び、我らに云い掛かりを付けてこない限りはね」
そうして、ふたりのエルフは立ち去っていく。
人の屋敷へと戻り、そこで消えた『彼』を見たとき、あの高祖はどんな反応をするだろうか?
考えるだけで、笑いがこみ上げてくる。
(ふふふ……。こうして捕らえてみれば、あの子どもはただの無力な人間だとハッキリ分かる。さあ、まずはその『味』を、確認させて貰うとしましょうか)
その前にと、彼女は謁見の間にいる花精たちも下がらせる。
勝利を確信したフィオレが『見たこともない精霊』により全てを崩されることになるのは、ほんの数分先の未来であったのだ。
かくしてエルフの高祖と闇の純精霊は、花の精霊王より逆恨みじみた怒りを買い、ひとりの人間族の少年が、目を付けられていくことになる。




