第五百七十七話 花と闇と
「にー! にぃぃぃぃぃっ!」
俺の腕の中に飛び込んだもの。
それは紛れもなく、見慣れた義妹。
ノワール・クレーンプットに相違なかった。
困惑しながらも、末妹様を抱きしめる。
一方、目の前にいた女。
花精の女王・フィオレは、呆然とした様子でマリモちゃんを見つめていた。
「子ども……ッ!? それも、まだほんとうに幼い……! まさかこの幼児が、私の『領域』に割り込んだとでもいうの……!?」
奥歯を強く噛み締めながら、花精の女は、ノワールを睨み付けていた。
その顔には、屈辱と憎悪が見え隠れしている。
「近年、キシュクード以外で新たな聖霊が誕生したという話は聞いていない。もちろん、精霊王にも……! ならば、この子どもは何者……!?」
フィオレの瞳が輝く。
あれはおそらく、魔力感知。
本来はレアな能力だが、日常的に魔力をエサにしている精霊たちにの多くに、備わっている力だ。
花精の女王は、マリモちゃんを睨み付けながら云った。
「これは、まさかトゥルー・ダーク……!? 神聖歴になって、純精霊が生まれたという話も聞いていないのに……ッ!」
美しい顔が、憎悪に歪む。
しかしそれは、闇の純精霊に向けてではなかった。
ここにはいない誰か。
それを思い描いているように、虚空を睨む。
「あのエルフの高祖は、我ら精霊族に黙って、純精霊を誕生させていたのね……っ! それを使って嘗てのように、また我々を支配するつもりかッ! これだからエルフは信用できないッ! あの女が『バラ』を独占していることにも、ますます確信を持ったわ……ッ!」
ぞわりと。
俺の周囲の空気が一変した。
ここは花園なんかじゃなく、途方もなく巨大な化け物の胃か口の中にでもいるかのように錯覚する。
いや、実際それに近いのかもしれない。
精霊の『世界』の内部では、囚われた者はどこまでも無力なのだから。
「あ、あぶ……っ」
フィオレの眼光に、マリモちゃんが竦む。
けれども彼女は、俺を見てから勇気を振り絞って彼女を睨み返した。
なんのことはない。
この黒髪の幼児は、ただ単純に俺という『家族』を守ろうとしてくれているだけなのだ。
「トゥルー・ダーク! 不意打ちで私の『領域』を侵すことが出来たからと云って、図に乗るなァァッ!」
こちらを保護するかのような『暖かい闇』を、美しい花々が浸食していく。
これ、全てが吞み込まれたら、大変なことになるのではないか。
「あーきゃっ!」
マリモちゃんは、懸命に力を込める。
すると僅かばかり、暗闇が花園の浸食を押しとどめた。
世界の取り合い――。
それこそが、『支配者クラス』どうしの争いであるらしい。
目の前では、ジリジリと『世界の果て』が押しつ押されつ、刻一刻と切り替わっている。
逆綱引きとでも云うべきか。
いずれにせよ、これが俺たちの死命を制するものであるには違いない。
(フィオレはノワールの『世界』に注力している。この隙に、俺も何かを出来ないものか?)
なけなしの魔力から、攻撃魔術を放つ。
しかしそれは、『花の空間』に到達した瞬間に、アッサリと掻き消えてしまった。
花の女王が、こちらを睨み付ける。
「世界改変の力すら持たぬただのエサ風情が、支配者どうしの戦いの邪魔をするなッ! 弱者はおとなしく、世界の片隅で震えていろッ!」
美しい瞳が瞬き、返しの一撃が放たれる。
けれどもそれは、今度は『ノワールの闇』が無効化をする。
俺はまたしても末妹様に守られてしまったわけだ。
「トゥルー・ダークめ! どこまでも私の邪魔を……ッ!」
ああ、ちくしょう。
これはダメだな。
たとえ無理して古式を放っても、精霊王には届かないだろう。
威力が高いとか、より多くの魔力を込めたとか、その程度では覆らない程の明確な差が、ここにはある。
文字通り、ただの人と精霊王とでは、次元が違うのだ。
しかし、花の精霊王の言葉に怒り出す者がひとり。
「あにゃ……ッ!」
ノワールは、俺が侮辱されたことを怒ってくれているらしい。
彼女の闇が、女王の花を押し返していく。
「こ、こいつ……ッ! まさか、この私を! 私の世界を、塗りつぶすつもりなの……ッ!?」
虚栄の花園が、暖かい闇に押されていく。
フィオレは驚愕よりも怒りをもって、その様子に顔を歪めた。
まだほんのちいさな子どもに後れを取ることが許せないのだろう。
「精霊王は、世界の頂点……ッ! 一部の例外はあるとしても、至強の存在であるはず! その領域を侵す者は、絶対に許さないッ! 私がこの『世界』にたどり着くまで、どれほどの時と研鑽を必要としたことか! なのにお前は、生まれたばかりにして『王』の力を! 許せない! 許せないわ、トゥルー・ダーク! お前だけは、決して許さないッ!」
花園は、再び闇を喰らい始める。
マリモちゃんが頑張ろうとし、花精の少女が怒ったときに大きく境界が動いたのを見るに、どうやら『世界の取り合い』は、精霊の格と魔力量、そして意志力が大きく影響をするようだ。
「にーっ! にー……っ!」
ノワールは懸命に抗っている。
ただ俺を守る、そのためだけに。
精霊――それも支配者クラスに及ぶことのない俺は、どこまでも無力なのだろうか?
(いや、そうじゃない)
自分が弱っちいなんて、最初から知っていたこと。
『弱い』ことと『無力』なことは違うのだ。
雑魚は雑魚なりに、出来ることがあるはずだ。
そうとも。
この『世界』が常人では及ばない『魔力』で編まれているというのなら。
変質していても、これが『魔力』であるというのなら。
(その『根源』に、俺は干渉するだけだ――!)
アルト・クレーンプットに唯一出来ること。
俺の持つ、唯一の特性。
それを使って、この領域を解析していく。
世界を世界たらしめる、核にして支柱。
そこに干渉するために。
(見つけた……!)
根源干渉は、エイベルですら過去に使い手を見たことのない能力。
だから精霊王の『領域』も、こんな『システムの外からの攻撃』は想定していない。
故に、支柱を発見することは容易い。
全く秘匿されていないのだから。
「ノワール!」
俺は義妹の魔力を、そっとそこへと導いた。
聡い末妹は、即座にその意味を理解する。
「あーきゃっ!」
彼女の『闇』は、過たずにそれを吞み込んだ。
フィオレの表情が、驚愕に歪む。
それはそうだろう。
踏ん張っての押し合い圧し合いをしていた最中に、突如として足元を掬われたようなものだから。
こうなっては、力があるとか経験があるなんて意味はない。
無様にスッ転ぶ以外のことは出来ない。
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああ……ッ!」
花園が暗闇に蹂躙されていく。
それはもう、取り返しの付かない状況。
まあ仮になにがしかの手段を用いて世界を再構築したところで、俺がまた妨害させて貰うんだけどね。
世界の壊し方は、覚えたよ。
暗闇に飲まれ、崩壊する世界の中で、花の精霊王はそれまでとは違う動きを見せた。
彼女の背後に、別の空間が広がっていたのだ。
(撤退するつもりか)
判断も早いが、術式の構築も素早い。
おそらくフィオレは、術者としても超一級品なのだろう。
花精の少女は、ノワールを睨み付ける。
「トゥルー・ダーク……! 今日のことは忘れない。絶対に忘れない。お前は今より、この私の怨敵となった。ただ挨拶と食事をしようとしただけの私を、一方的に攻撃したのだからな!」
こいつの中で、今回のことはどうなっているんだという発言だった。
常識が完全にズレている。
そして次に、フィオレは俺を見る。
「誰よりも美味なる人の子……。お前は必ず、私のものにするわ。これはもう、定まったこと。――では、また会いましょう?」
花吹雪が舞う。
それは最悪の出会いではあっても、憎らしいほどに美しく。
視界を覆う花弁が霧散し、『世界』が正常へと回帰する。
「にー! にーっ!」
花園の監獄から俺を救ってくれた末の妹は、ぷにぷにほっぺを押しつけてきた。
だいぶ心配を掛けてしまったようだ。
「ノワール、ありがとうな? おかげで、助かった」
「あきゅ……っ」
ぎゅっと抱きついてくる末妹様よ。
この子はまだ幼いのに、がんばってくれたんだな。
俺のせいで、余計な因縁が生まれてしまったみたいだけれども。
「う……っ、く……」
急激な脱力感に、思わず、へたりこんだ。
腕の中のノワールを落とさなかった自分を、褒めてあげたい。
(魔力がすっからかんになっている……?)
赤ん坊の時期程ではないけれども、倒れる一歩手前ってところまで消耗していた。
花の精霊王の『世界』が消える直前までは、もうちょっとマシな気がしていたんだが……。
(まさか、最後の花吹雪のときか……?)
おそらくはアレで、俺の魔力を食って行ったのだろう。
裏を返せば、あの最中――ノワールというほぼ同格の精霊を相手にしていても、フィオレがその気ならば、俺を始末することは容易かったのだろうな。
(根源干渉を隠しておいて良かったな)
なりふり構わずに手札を晒していたら、どうなっていたことか。
「にー? にー?」
「ああ、うん。大丈夫だよ、心配してくれてありがとうな、ノワール」
「あぶ……」
倒れる寸前ではある。
けれども、これは回復できる範囲の疲労だ。
二~三日も休めば――。
「あ……!」
「あにゅ?」
明日からのヴィリーくんやメルローズ関連、もしも戦闘になったら、どうしましょ?




