第五百七十六話 閉じた世界で
冷や汗が流れる。
それはまるで、自らが『食われる側』に回ったみたいに。
他方、俺を抱きすくめているほう。
フィオレと名乗った女は、どこまでも軽い。
それは、自分こそが上位であると確信しているからなのだろう。
身動きのとれない俺は、この女の姿が見えない。
ただひとつだけ理解しているのは、こいつは人間じゃないと云うことだけだ。
「そんなに警戒をしなくて良い。だって、無駄だもの。私がその気になれば、お前くらいはいつでも殺せる。だから考えるだけ無駄よ? 安心して、その体をゆだねなさい」
云ってることがメチャクチャだ。
だが、こいつがこちらの命をどうでもいいと考えていることは分かったぞ。
それを踏まえて、俺は上手く立ち回らなくてはならない。
この状況を打破できるであろう存在、エイベルが戻ってくる、その瞬間まで。
「ふぅん……? ついさっきまでと違って、心がとても凪いでいるのね? 危地にあって冷静でいられる者は多くない。お前は、まだほんの子どもだというのにね? 天性の大器か、それともあのエルフの高祖に、そういう風に鍛えられたのか」
何者なんだ、この女。
口ぶりからすると、エイベルの存在とその強さを知りながら仕掛けてきているということだよな?
「許可を出します。こちらを見ても良い」
可愛らしい声と尊大な口調で、女は命じた。
すると先程まで動かなかった俺の体が、今度は制止の意志を無視して動き出す。
目の前に、フィオレの姿が映し出された。
「花精――!」
目の前にいたのは、花の精霊であった。
掌サイズだったお花ちゃんとは違う。
華奢で若々しく、そして冗談みたいに美しい少女が、炯々とした瞳で俺を見つめていた。
「そう。花精。この世で最も華麗で美しい精霊種。それが私。この姿を下賎な人の身で見ることが出来た幸運に感謝なさい?」
俺が知る花精は多くない。
今もキシュクードで幸せに暮らしているクッカの他は、万秋の森で出会った、あの連中だけだ。
まだちいさな花精の女の子を、実験材料にしようとしていたあの男たち。
華美な外見とは裏腹に、綺麗とは云い難い心根を持った連中だった。
「ザルンを一騎打ちで破ったのは、お前でしょう?」
ザルン。
その名には覚えがあった。
それは万秋の森で戦った、あの花精の魔術師。
それを呼び捨てにするということは、この少女は、彼よりも上位の存在なのだろう。
フィオレと名乗った少女の桜色の瞳が、ジッと俺を見つめてくる。
「――答えなさい。お前は、私の言葉の全てに従うわよね?」
彼女の瞳が淡く輝き、そして――。
「きゃ……っ!?」
バチン、という、『何か』を弾いたかのような音。
フィオレは、その存在感に似つかわしくない可愛らしい声を上げた。
「私の『魅了』が、キャンセルされた……!?」
驚きと忌ま忌ましさが混じったかのような視線。
どうやら、またもエイベルの護符に救われたようだ。
「――そう。お前、あの高祖に守られているのね……?」
花精が、冷たい瞳を向けている。
きのこ狩りのときに出会った連中と同じく、彼女もまた、うちの先生に含むところがあるに違いない。
つまり、その時点で俺の敵だ。
「ふぅん……? この私に、敵意剥き出しの瞳を向けてくるのね。それ程、あのエルフの高祖の教育が行き届いているのか。それとも、既にアレに魅了され、囚われているのか」
囚われているのは、あんたにだよ。
俺が睨むと、フィオレは目を細めて笑った。
どこか酷薄そうな笑みだった。
「あの高祖に守られているから、手出しをされないとでも思っているの?」
先程も思ったが、改めて思う。
これは、俺の命など何とも思っていない者の目だ。
言葉の選択を誤れば、即座に殺されてしまうかもしれない。
「ふふふ……。そう。それで良いの。お前は矮小な存在なのだから、そういう怯えた目をしていれば良いのよ」
表情を変えたつもりはなかったはずだが、心の動揺を読まれたのかもしれない。
フィオレの機嫌は、僅かに良くなったようだ。
「云っておくけれども、高祖の助けなんかを期待しても無駄よ? お前は今、ここにいる。他のどこでもない、花の精霊王の領域内にね」
花の精霊王!
この少女は単なる花精ではなく、王の位を持つ存在だったのか!
そして今俺がいる場所が自宅ではなく、切り離された別世界であるともわかった。
(キシュクード島の聖霊のニパさんや、万秋の森のローヴは、その力で自らのいる場所に特別な力場を形成できていた。その内部では、古式魔術を使っても無効化されるような、特殊なフィールドを)
それにあの頑張り屋さんな水色の少女――マイムちゃんも、リソースがあれば、島そのものの環境を変質させることが出来るとも云っていたはずだ。
つまり聖霊には、場所そのものを作り替えるような力が備わっていると云うことなのだろうか?
そもそも聖域自体が、この世界とは『あり方』の違う別次元のようなものなのだし。
(となると、精霊王であるこのフィオレも、それに近いことが出来るのでは)
実際、出来ているのだろう。
今こうして、俺をここに攫っているのだから。
現実を浸食し、世界を作り替える力――。
それこそが、精霊王や聖霊の持つ異能なのかもしれない。
そして別次元であるが故に、おいそれとエイベルも手出しを出来ないと考えているのだろう。
「俺なんかを攫って、どうするつもりなんだ……?」
「ふふふ……。そうね。確かにお前は、ただの弱い人間に過ぎない。だけど、あの高祖に気に入られているという一事が重要」
「人質にでも、するつもりか」
「ええ。それも有りかもしれないわね。お前と引き替えに、『バラ』を差し出させるのも一興かしら」
フィオレは、そんな風に笑う。
だが、どうにも作り物めいた笑顔だ。
俺と例の『バラ』を交換するなんて、本当に考えているのだろうか。
(それに、この目……)
僅かに上気した頬。
チロリと赤い舌が、自らの唇をなめている。
花の精霊王が俺に向けている視線には、憶えがあった。
それは精霊たち共通の衝動――『食欲』を反映したもののように俺には思えた。
氷雪の園のエニネーヴェや、うちの末妹様が、俺を見るときの瞳に似ている。
尤もフィオレのそれは、彼女たちとは比べものにならないくらい、脂のべとつくような粘着性を感じさせたけれども。
「ふ、ふふふふふふ……っ!」
白く華奢な腕が、俺の肩をつかんだ。
何かに魅入られたかのように、精霊王の呼吸は荒い。
「――お前、美味しいのでしょう?」
狂気をはらんだかのような目で、フィオレは云った。
「味わう前から、もう分かったわ。だってこんなにも、美味しそうな匂いを漂わせているんだもの……っ! お前は精霊を誑かす、天性の資質を持っているようね?」
味わう前から。
つまりこいつは、俺を食いに来たのだ。
マリモちゃんにもエニネーヴェにも、そしてピュグマリオンにすら云われた。
俺の魔力は、精霊好みの味なのだと。
この花精の少女も、それだけの理由でやって来たのか。
「美味しかったら、死ぬまで私のおやつとして飼育してあげる。不味かったら、高祖との取引に使う。光栄に思いなさい。お前は、価値の塊なのよ?」
誰が思うか、そんなこと。
しかし花の精霊王は、俺の首筋に噛みついていた。
「……ッ!」
痛みに顔を歪めた。
フィオレは、魔力とともに、俺の血もなめているようだった。
そして。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
声にならない声を、精霊王はあげる。
それは、歓喜に満ちた絶叫。
全身を震わせ、目を見開いている。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! こ、こんなに美味しい魔力は、食べたことがないわッッッ!」
まるで、のたうち回るように。
フィオレは体をくねらせる。
「お前は! お前はッ! お前は永久に秘蔵の御馳走として、私に魔力を供出し続けるのッ! 今決めたッ! もう決めたッ! 絶対に、逃がさないッ! 誰にも渡さないッッッ!」
俺の魔力を奪った瞬間、花の精霊王の態度が一変した。
そこには先程までの落ち着いた様子がない。
完全に、魔力の味に魅入られているようだ。
彼女は、すぐさま再び、俺から魔力を吸い上げる。
それはさっきの少量の収奪とは違う、本能に任せた強引な吸収の仕方だった。
「うっ、く……ッ!」
思わず、うめき声を上げる。
こんな調子で魔力を奪われたら、あっという間に俺は死ぬだろう。
こいつは俺を永続的なエサにするつもりのようだが、そんな状況になる前に、俺の命は尽きると思う。
本来ならば、ただちに抵抗か逃亡をすべき状況だ。
だが、それが出来ない。
急激に魔力を吸われた影響で身動きが取れず、また仮に動けても、この『閉じた空間』から逃れ出る術を、俺は知らないのだから。
(せめてエイベルが戻ってくるまで、保ってくれれば……ッ!)
その望みが薄いことを、俺自身が知っている。
そして、他の助けが来られないであろうことも。
「あははははは……ッ! お前はもう、私のものッ! 誰も邪魔をさせない! 邪魔を出来ないッ! さあッ! もっとその魔力をよこしなさい! 天上の御馳走にも勝る、その魔力をッ!」
もっとだと!?
こんなペースで吸われたら、次かその次くらいで、俺は死んでしまうぞ!?
好き勝手なことを、云いやがって!
しかし、打つ手がない。
時間稼ぎすら不可能そうだ。
俺は顔を歪めた。
その、瞬間だった。
フィオレは動きを止めて、振り返った。
「な、何……ッ!? 精霊王である私の『領域』に、干渉できる者がいる……!? バカな、あの高祖以外で、こんな真似が出来る存在なんて――」
それは現実を塗りつぶした異空間すら穿つ、黒い穴。
中空がひび割れ、『別の空間』が浸食してくる。
「この力は、聖霊……ッ!? それとも、別の精霊王……ッ!? 一体、何者が――」
闇が広がる。
清浄で、そして暖かい闇が。
そこに現れたのは聖霊でも精霊王でもない、よく見慣れた、ちいさな人影であった。
「にーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
黒髪の幼児が、飛び込んできた。




