第五百七十五話 帰宅中の出来事
一旦、家に戻ってきた。
明日はまた、忙しくなるのかもしれない。
「フィー、大丈夫か……?」
「んゅ……? なぁに、にーた……? ふぃー、にーたのこと、好きだよ……?」
完全に寝ぼけておりますな。
本日まだお昼寝をしていない妹様は、既に腕の中で船をこいでいる。
うちはしっかりと子どもたちにお昼寝をさせる方針であり、眠ることは習慣となっている。
しかもフィーは体力全てを使い切るまで全力で遊ぶ子なので、眠たくて仕方がないのだろう。
「おかえりなさい、ふたりとも」
出迎えてくれたのは、母さんだ。
マイマザーは柔らかい笑顔で、俺たちを見つめている。
「みゅぅ……。おかーさん……?」
「ふふふーっ。フィーちゃん、おねむなのね?」
俺の手からマイエンジェルを受け取って、愛おしそうに抱きしめる母さん。
フィーも母親に抱かれて安心したのか、そのまますぴすぴと寝息を立ててしまった。
我が子を抱きしめている母さんの表情は本当に愛情で満ちあふれていて、この人がどれだけ自分の娘を大切にしているのかが、ありありと伝わってくる。
俺の視線に気づいた母さんは、目を細めながら云う。
「アルちゃんたちを待っていたのは、私だけじゃないわよー?」
「にいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
とたとたと危なっかしい足取りで駆けてくるのは、我が家の末妹様。
ノワールは俺の体に、勢いよく抱きついた。
「にー! にー!」
これは、だっこをせがんでいるのかな?
抱き上げてみると、マリモちゃんは途端に満面の笑みを浮かべた。
「ノワールちゃん、アルちゃんがいなくて、寂しがってたみたい」
当家の次女様が一番好きなのはもちろん母さんなんだが、光栄なことに俺のことも好いていてくれているみたいだからな。
こうして甘えられるるのは、悪い気はしない。
「ただいま。ノワール」
「にー! ちゅっ!」
なんとなんと。
ほっぺにキスを頂いてしまいましたぞ。
「にー! にー!」
そして、今度は自分の白いほっぺをアピールしてくる末妹様よ。
俺は要請に従い、すぐにキスを返してあげた。
「きゃーっ!」
うーん。
実に嬉しそうな顔だ。
ご機嫌になったマリモちゃんは、笑顔で俺をてしてししてくる。
そんな様子を、母さんが羨ましそうに見つめていた。
「うぅ~……っ! ズルい、ズルいわ~……っ! お母さんも、アルちゃんにキスして貰いたい! ノワールちゃんに、キスしたいわ~……っ!」
「まー、まーま!」
マリモちゃんが腕の中で母さんに向かって手を伸ばしているので、近づかせる。
すると。
「ちゅっ!」
末妹様は、マイマザーにもキスをした。
あーあー……母さん、ゆるみきった顔をして。
「ん~~っ! お母さん、ノワールちゃんのこと好きィ……! ノワールちゃんは? ノワールちゃんは!?」
「あきゃっ!」
「うふふ~、ありがとぉ! じゃあじゃあ、アルちゃんとお母さん、どっちが好き?」
「――きゅっ!?」
黒髪の幼児様は俺と母さんを見比べている。ちょっと顔が引きつっているが。
「にゃん、にゃんにゃ……っ!」
何度も何度も行ったり来たりし、やがて――。
「まー!」
母さんを指さした。
まあ、知ってたけどね。
顔が引きつったり何度もこっちを見たのは、この子なりに俺に配慮してくれたんだろうな。
これがフィーだったら、一も二もなく「にーた!」と答えて、母さんを泣かせたに違いない。
「アルちゃんアルちゃん! ノワールちゃん! ノワールちゃんも貸して?」
お?
愛娘の『同時だっこ』を繰り出すおつもりか?
大丈夫?
貴方の娘さんたち、よく食べるから、最近前よりだいぶ重くなってきているけども。
「こ、根性ォ~~……っ!」
ふたりあわせて、三十キロくらいはあると思うんだけどね。
母さん頑張るな。プルプルしてるけど。
「あ、そ、そうだ、アルちゃん」
青い顔をした笑顔で、母さんが云う。
「あとでエイベルがアルちゃんに話があるって云っていたから、顔を出してあげてね?」
「ん? エイベルが? なら、今行ってくるけど」
「ああ、今だと、エイベルの方が留守なのよ。だから、夜にね?」
ふーむ、何だろう?
まあ急ぎとも云っていないし、重い話ではないのかな?
俺は娘ふたりを抱えて脂汗を流す母さんに別れを告げて、部屋へと戻った。
※※※
「ありゃ? 俺宛の手紙が置いてあるな。ミアが持ってきてくれたのかな?」
それを手に取り、読む前にクッションに倒れ込む。
これ、普段は母さんが独占してるんだよね。
あとは、たまに妹たち。
だから俺が使える機会が地味に少ない。
自分専用のでも、買おうかしら?
いやいや、無駄遣いは出来んねぇ……。
神聖歴1207年の二月は近習試験やらエルフの里やらで忙しかったが、今月や来月も、また少し忙しくなるかもしれない。
まずは、村娘ちゃん――あの第四王女様の御伽役として、登城することが正式に予定されている。
それから生まれたばかりのハイエルフのお姫様――ユーちゃんのところに、発明品を持って行ってあげないとダメだし、ヒツジちゃんのママンには、また娘に会いに来てあげて下さいと催促を貰っているし、ショルシーナ商会のほうでは、近々写真館がオープンするとかで、その様子も見に行かないとね。
なお写真館の方は、予定通りセロのヒゥロイトによる撮影もあるんだそうだ。
軍服ちゃんも、当然来るのだろうな。
「あと、魔術団関連ね」
イフォンネちゃんのために、結成したばかりのメンバーで何事かの成果を出さなくてはならない。
尤もこれは、今月や来月じゃなくても良いんだろうけれどもね。
だからと云って、放置は出来ないが。
(前世の末期程ではないけれども、予定が押しているよねぇ……)
こんな状況だから、おちおち新商品の開発なんてやってもいられない。
エッセンもバイエルンもプリマも魔道具技師も、現在は休業状態だ。
商会も人手不足で忙しそうだし、もうちょっと遠慮しないとだねぇ。
「さて、この手紙は何かな……?」
それは、実に意外な人物からのものだった。
差出人は、ミィス。
あの怠惰なダメエルフだ。
(ってことは、この手紙はヤンティーネが持ってきたのか……)
しかしあのダメエルフなら、こっちに来るのを口実に、自分で足を運びそうなもんだけどねぇ。
「――って、ああ、冒頭に見張りが多くて抜け出せないって恨み言が書いてあるわ」
サボり魔らしいからな、あのエルフ。
商会長さんに捕まっているのか。
手紙の内容は、比較的シンプルだった。
曰く、
『エフ爺が貴方に、なんぞ相談があるようです。会うだけ会ってあげて下さい。ああ、別に断っても構いませんよ? 私があのクソ爺に要求されたのは、今の言葉を伝えてくれと云うことだけで、『承諾させる』ことまでは含まれていませんでしたので』
残りの文章は、鬼畜眼鏡から助けて下さいとか、お酒の差し入れが欲しいですとか、高祖様を動かして私に救いの手をとか、読む価値のない文字が延々と続いている。
この辺は無視でいいのかな?
「しかし、ミチェーモンさんがねぇ……?」
と云うことは、クララちゃん関連なのかな?
あのご老人がそれ以外で俺に会おうとするとは思えないし。
(考えても、わからんものはわからん!)
手紙を投げ出して、大の字に寝そべった。
処理すべき予定が多いと云ってもこうして寝転ぶ時間があるのが、前世との決定的な違いか。
目を閉じて、息を吸う。
なんとも芳醇な、花の香り――。
「……えっ!?」
花の香り!?
ここは花畑でもなければ、鉢植えだって置いてないのに!?
思わず、上半身を起き上がらせた。
周囲は、美しい花々で埋め尽くされている。
(な、なんだこれ!? まさか、空間転移!? それとも、幻覚か……ッ!? いや、幻の類なら、エイベルの護符が防いでくれるはずで――)
そもそも、誰が、何故、どうやってこんなことを――。
(まさか、ピュグマリオンか!? あいつが、俺に何かを仕掛けて――!?)
クスクスと、花のような笑い声が響いた。
それは俺が恐れた、あの『白い子ども』のそれとは違う。
可憐で、とろけそうな程に蠱惑的で、けれどもどこか恐怖を抱かせるような笑い声。
「だ、誰だ……!? 誰かいるのか……ッ!?」
頭上から空間いっぱいに響くような笑い声は、俺を取り巻くように渦巻いていた。
「――ふぅん? お前がエルフの高祖のお気に入りね?」
背後に、誰かがいる。
けれども、振り向けない。
不可視の縄で縛り付けられているかのように、体の自由がきかなかった。
ただひとつだけわかること。
それはこの声の主が、俺よりも遙かに『格上』だと云うこと。
確実に俺よりも強いと云うことだけだ。
「自己紹介を、しておきましょうか?」
するりと。
華奢で繊細な腕が、背後から俺を抱きしめた。
よりいっそう、甘い花の香りが強くなる。
ともすれば、心を浸食されるかのように。
「私の名は、フィオレ。お前に用があってやって来たの」
少女の声は、そう告げていた。




