第五百七十話 深緑に、命尽きるまで(その十四)
ヴィリーくんが去り、オットーもまた退出した。
あの様子では今日は本当に、もう来ないと思われる。
一時しのぎでしかなくとも、取り敢えずの危難が去ったことを今は喜ぶべきだろうか。
俺の横にいるままのノエルは、小声で呟いた。
「アル、ボクらも一旦、ここから出よう。キミに相談しなくちゃいけないことがあるんだ」
「ん? 相談?」
イケメンちゃんは、浮かない顔だ。
何か良くないことでもあったのだろうか?
ともかく、ノエルの云う通り、外に出ようか。
「フィー、おいで?」
「だっこ!?」
ぴくくんと、マイエンジェルは反応される。
そして俺が手を広げ終わるより前に、猛烈な勢いで飛び付いてきて、定位置にすっぽりとおさまった。
「みゅふー……っ! ふぃーの帰るところ、それ、にーたの腕の中だけ!」
実に嬉しそうな笑顔で、だっこをされる妹様よ。
一方、その友人の幼女ちゃんは、開いたままになっている扉を見つめていた。
「お兄ちゃん、本当に帰っちゃったんだ……」
なんだか寂しそうな残念そうな、そんな様子だ。
その態度が、ちょっと不思議だ。
この娘は、明らかにヴィリーくんを嫌っていない。
あのヴィリーくんをだ。
そして俺の見る所では、ご婦人――お母さんとの仲も良好である。
子どもというのは案外、親の顔色をよく見ているものだ。
畑の買収騒ぎで夫人が落ち込んでいるのに、何と云うか、そんな母を心配する素振りがないのだ。
これが妙だ。
もちろん、そういうことを察せないくらいののんびり屋さんという可能性もあるにはあるが、俺の目にはこの幼女ちゃん、どこか安心しきっているように映るのだ。
となると、まさか――。
(ヴィリーくんを、信頼している?)
ちょっと他に考えられない。
「アル、ボクは先に出ているよ?」
ノエルはそう云って出ていくが、これはたぶん、昨日のようなことを警戒してだろうな。
つまり何かあった場合、自らを囮にするつもりなのだ。
それをさりげなく、目立たないように何も云わずに。
この友人はこの友人なりのやり方で、俺たち兄妹に気を遣ってくれているのだろう。
(さて。俺も後を追う前に、ちょいと確かめておこうかね?)
俺は幼女ちゃんに話しかけてみた。
「ねえキミ、ちょっと良いかな?」
「なぁに、フィーちゃんのおにーさん?」
女の子は、可愛らしく小首を傾げた。
※※※
色々あったが、外に出た。
イケメンちゃんは――良かった、無事なようだ。
取り敢えず襲撃者はいない……と云うことなのだろうか。
しかしこれから一体、どうするんだろうね?
ヴィリーくんもオットーも、薬草畑を諦めるとは思われず、しかしそれらを退ける手段もないのだから。
だが、そのことを考えるより先に、『イケメンちゃんの相談事』だ。
「ノエル、俺に話って?」
「う、うん……。それなんだけど、実は――」
性別不詳の友人は、悔しそうに語り出した。
その内容は、半ば俺が予想していたものではあった。
「そうか、平民会がね……」
ノエルの相談事とはつまり、どうやら平民会は、今回の件から手を引きそうだという話だった。
まだ本決まりではないようだが、このままだと遠からずそうなるだろうとのこと。
理由は、メルローズ商会が出張って来たから。
もともとヘイフテ家単体でも及び腰だったのに、この国の上流階級との繋がりも強く、豊富な資金力も併せ持つあの団体を敵に回したくないと考えたようだった。
そりゃ、いち薬草農家がどこに売却されようが、本来、平民会には関係のない話だ。
大貴族とズブズブの大手商会と争ってまで、夫人の感傷に付き合う理由がないと云われれば、それはその通りではあるのだろうが――。
「結局、大勢力に尻尾を巻くというだけじゃないか……。ボクにはそれが情けない……」
まあ、メルローズに売却されたら、不幸一直線の可能性があるからね。
正義感の強いこの子には、色々と複雑な話なんだろう。
正直な話、俺もそこまで、あの親子に思い入れがあるわけではない。
けれども友人が守ろうとし、フィーの友だちになってくれたあの子の為にも、出来る範囲のことはしてあげたいと思うのだ。
(と云っても、俺に出来ることは限られているのも事実)
足りない部分を、別の方法で補うのみだ。
だが、その前に――。
「フィー、隠れてる奴とか、いないよな? イェットさん以外で」
昨日のチンピラみたいに、自ら進んで出てくるパターンだけとは限らない。
コッソリ何かを仕掛けてくるタイプの敵がいるかもしれないから、フィーに訊いておこうと思ったのだ。
「んゅ……? いるよ?」
「――えっ、いるの!?」
念のためにと小声で話しかけると、妹様は何でもないことのように云い切った。
(まさか、またメルローズが……っ!?)
思わず身構えそうになるが、それならばイェットさんが警戒してくれるはずだ。
果たして、ちいさな笑い声が聞こえて来た。
どうやら、ちょうど出てくる所だったようだ。
「無様だな、平民会も」
「お前は……っ!」
イケメンちゃんが身構える。
現れたのは、先程退去したはずのヘイフテ家のドラ息子、ヴィリーくんに相違なかった。
確かに彼は実力者だが、ノエルに気付かれずに潜伏するだけの技量もあるのか。
「お貴族様、帰ったんじゃなかったんですか」
思わず呟いてしまうと、ヴィリーくんはフンと鼻を鳴らす。
「誰が帰ると云った? 私は『空気が悪い』としか云わなかったはずだ。だからここでこうして、新鮮な外気に触れていたのだ」
ええと……。
つまり、メルローズの人間が立ち去るまで、身を潜めていたってことなのかな?
で、あちらさんが話をまとめてしまう前に、自分が先んじて買い取ってしまおうと。
やり口といい、云い回しの利用の仕方といい、相変わらずのヴィリーくん節だねぇ。
しかし彼は、続けてこう云った。
「別に、立ち去らないとも云ってはおらぬ」
はて、それはどういうことだろうか?
ここで帰るということは、メルローズに後れを取るということ。
事実上の敗北宣言になるのではないか?
イケメンちゃんが、俺に云った。
「平民会と同じだよ。どうやら彼は、メルローズ商会が出てくるから引っ込む気になったみたいだね」
つまり、イモを引いたと。
「――無駄な衝突を避けるだけだ。下らぬ邪推はよせ」
『避ける』と口にしたと云うことは、ノエルの推測は当たっていると云うことか。
事実ヴィリーくんは、イケメンちゃんの言葉に不愉快そうに顔を歪ませている。
一方、ノエルはどこか淡々としている。
今の言葉も、お貴族様を煽る為ではなく、事実を口にしたとでも云わんばかりだ。
この子はもともと『陰湿』とは無縁な人物なので、不要な罵倒をしないのだろう。
加えて、もしも本当にヴィリーくんが脱落するならば、『ふたつの厄介事』のうちのひとつが自動で潰れてくれると云うことにもなるから、煽って意固地にさせる気もないというところだろうか。
お貴族様が、ノエルに歪んだ笑みを向ける。
「平民会はメルローズに恐れをなし、撤退をするらしいな?」
どの口がそれを云う――とも思うが、俺も余計なことは云わないでおこう。
背の高い大人の男を相手に、ノエルは真っ直ぐな瞳で答えた。
「平民会は、確かにそうなるかもしれない。けれども、ボクは彼女を見捨てる気はないよ」
「ふん。見捨てる気がないだと? 大きく出たな? だがお前は平民会という後ろ盾がなければ、ただの子どもであるに過ぎん。そんなガキに、一体何が出来ると云う?」
「もちろん、ボクに出来ることを。ボクは人に誇れる、立派な者になりたい。だから、権力や財力がある相手が出て来たというだけで尻尾を巻くような、情けないマネはしたくないんだ」
「……貴様、私を……侮辱するつもりか?」
「そちらのことを云ったつもりはないよ。ボクがそうありたいと願っているだけなんだ。ただ、それだけだよ」
うん。
イケメンちゃんは、本当にそう思っているんだろう。
でも、ダメだ。
『その言葉』は、地雷なんだよ。
ヴィリーくんにとっては。
貴族の青年は、冷たい顔をしていた。
それはまるで、怒りが度を越して表情すらなくなっているかのように。
「――良いだろう。貴様の『覚悟』を試してやる。ついてこい」
真っ黒な感情を滲ませるようにして、ヴィリーくんはノエルに云った。




