第五百五十二話 ある義兄妹の風景
神聖歴1207年の三月。
やたらめったら忙しかった二月も終わり、なんとか一息と云ったところか。
今年はまだ一応、ツインテールのメイドさんであるイフォンネちゃんの為の『結社』の設立イベントが残っているとは云え、今は小休止だ。
休憩と云えば、当家の家族も今はお昼寝中。
エイベルは朝から用事で出かけているが、残る三人の家族はハンモックでひとかたまりとなって、よだれを垂らして寝息を立てている。
(まあ、かくいう俺も、しだらなく寝そべっているんだけれどもね)
仰向けになり、薄ぼんやりと天井を眺めている。
こういう無駄な時間、或いは浪費にも似た時間の経過が、たまらなく贅沢に思えたりするのである。
何せ、前世の晩年には全くなかったものだからね。
「アルトきゅんは、少し頑張りすぎですねー。もう少し休んだほうが良いと、お姉ちゃんも思いますねー」
駄メイド様にすら、そんなことを云われる始末。
まあ、去年までは受験勉強も忙しかったからな。
それらも済んだし、今後は少しのんびり行くさ。
「くふふっ。無防備にコロンとしているアルトきゅんも、とてもそそりますねー。これはもう、添い寝をするしかないと思いますねー」
いらん。去れ。
「じゃあ、後で襲いに来ようと思いますねー。楽しみにしていて欲しいですねー」
誰がそんなことを楽しみにすると云うのか。
ともあれ、変質者は仕事へと戻った。
俺はもう少し、のんべんだらりとしますかね。
(む……?)
しかし、モゾモゾとする気配が。
何事かと目を走らせると。
「あきゅ……っ」
なんとなんと。
綺麗な黒髪をした幼児様が、俺の身体を這い上がってくるではないか。
「ありゃ、ノワール。母さんとお昼寝してたんじゃァないのかよ」
「みゅー……!」
マリモちゃんは俺の服を両手で力一杯掴んで、揺さぶった。
えーと……。
これは『遊んで』ってことなのかな?
どうやら、ひとりだけ先に目がさめてしまったようだ。
末妹様はそのままよじ登りを再開し、ついに俺のお腹の上へとまたがった。
そして両の拳を握りしめて、天に掲げる。
「だー!」
所謂コロンビアのポーズだねぇ。
クレーンプット家の次女様の真っ黒な瞳が、何かを期待するかのように炯々と輝いている。
これはアレか?
俺にもリアクションをしろと?
「だ、だぁー」
「きゅふ~……っ!」
マリモちゃんご満悦。
ぺたんと身体を前に倒して、俺の胸に寝そべってきた。
「にゅふ~……! にゃにゅっ!」
そして俺のほっぺを、白い指でぷにぷに攻撃。
この娘何気に、いつもフィーが俺にほっぺを押しつけてくるのをジーッと見ているからな。
実は興味があったのかもしれない。
「に、に……!」
意を決したように、自分のほっぺを俺の頬に擦り付ける。
フィーとは感触が違うが、すべっすべだ。
「――!」
そして、黒い綺麗なおめめを見開いた。
「にゅー……!」
どうやら、お気に召してしまったらしい。
マリモちゃんはそのまま、ほっぺスリスリを繰り返している。
「にゅっ、にゅ……っ!」
そうしてなすがままになっていると、マリモちゃんはすっくりと身を起こし、再び俺にまたがる体勢に。
「に、に……!」
今度は片手で俺の服を引っ張りながら、もう片手で窓を指さす。
「何だ? お外で遊びたいのかな?」
「きゅっ! きゅっ!」
力強く頷く末妹様。
まあ、お姫様がそう仰せなのであらば、臣下としては従うより他にない。
「じゃあ、行こうか?」
「きゃーっ!」
嬉しそうに抱きついてくるノワール嬢。
俺はクレーンプット家の次女様を抱きかかえて、外へと向かった。
※※※
「きゃぁ~……っ!」
と云う訳で、お外では黒髪の幼女様が元気よく駆け回っている。
幼児特有の危なっかしい、とたとたとした走り方である。
でも、とっても嬉しそうだ。
「にーっ! にーっ!」
時たまこちらに振り返っては俺に向かって、ちっちゃなおててをブンブンしている。
うちの子たちは母さんの影響なのか、無邪気に、そして元気いっぱいに育つようだ。
(イザベラ嬢は、元気かねぇ……)
今いる場所は、本館近くの生け垣の傍なので、『親の都合で無邪気ではいられなかった』異母妹の姿を思い浮かべた。
(――む?)
そこに通りかかったのは、向こう側の使用人がふたり。
あのパンストを被ったような顔の女は、前にも見た事があるな。
あちらもこちらに気付いたのか、底意地の悪い笑みを浮かべて噂話を始めた。
「見てよ、あれ」
「ああ、あの落ちこぼれ……! 無様よねー?」
クスクスと笑っては、見下すような視線を向けてくる。
彼女等がどうしてこういう態度を取っているのか?
簡単に云うと、第四王女殿下――村娘ちゃんの近習試験の結果なのである。
めでたい事に、イザベラ嬢は正式にシーラ王女の側仕えとなることが決まった。
ベイレフェルト侯爵家は大喜びをし、盛大にお祝いをしたようだ。
尤も『お披露目パーティー』の主役はトゲっちだったようであり、話題の中心もアウフスタ夫人ばかりだったようだが。
ともあれ、『正夫人の子』は優秀であることを内外に示したのである。
一方、そのお隣。
離れに住んでいる小倅のほう。
そちらは王女殿下の近習にはならなかった。
どうやらそれが、『落選した』と解釈されたようだ。
まあ、普通に考えれば、近習に『ならなかった』ら、落第したと考えるほうが自然ではあるが。
ともあれ、それで俺は『無様を晒したヤツ』と目されるようになったのだとか。
以前からクレーンプット家の長男には、『天才説』と『愚鈍説』が入り乱れていたようだが、この度、後者へと天秤が傾いたようだ。
実際、俺の実像は『愚鈍』のほうに近いから、あながち間違いとも云えないのだが。
他者を見下すのが好きな奴というのは一定数存在するし、実際に俺はアホなので侮蔑の視線を向けられる事はいちいち気にするつもりもないのだが、実は最近、少しだけ心配事がある。
それは――。
「ほら、あの黒髪の子……!」
「ああ、離れの妾が、他所の男をたらし込んで作ったんでしょう? サイテーよねぇ……!」
どうやらマリモちゃんが、『不逞の子』であると誤認され始めているようなのだ。
尤も、彼女の正体をバラす訳にも行かないし、母さんもノワールが大好きで、平気で人前で「ママですよ~?」とか云っているから、誤解される材料自体はあったのだが。
(単なるゲスの勘ぐりなら気にしないが、余計な方向に話が転がらなければ良いけれども……)
これまで通りに放っておいて貰えるのが、一番嬉しいんだけどねぇ。
「にー!」
「ああ、はいはい……」
しょーもない話は置いておいて、末妹様のご機嫌伺いに注力しなくては。
どちらのほうが楽しく、また価値があるかなんて、比べるまでもない事だから。
「に、に!」
とたとた走ってきたマリモちゃんは、ボフッと俺に抱きついた。
今更だが、「に」ないし「にー」と云うのは、『兄』である俺の事である。
かなりゆっくり目ではあるが、ちょっとずつ成長して行ってくれている事が、俺は嬉しい。
「にゅー!」
抱きついたまま離れないので、これは『だっこして欲しい』の合図かな?
抱き上げてあげると、『義理の姉』と同じく、嬉しそうに頬ずりしてきた。
どうやら正解だったようだ。
「よーし、このままノワールを振り回しちゃうぞー」
「きゃぁーっ!」
くるくる回転すると、何とも嬉しそうな悲鳴をあげる末妹様なのだった。
「に! にー!」
「ん? どうした?」
「にゅふ~……! ちゅっ!」
なんとなんと、ほっぺにキスされてしまいましたぞ。
なんだかんだで、母さんの次くらいには気に入られている俺なのだった。
ちなみにノワールは、ミアとも仲が良かったりする。
この娘とたわむれている時の駄メイド様は、不思議と邪気がないからな……。
或いは単純に『守備範囲外』なのか……。
そんな感じで、兄妹の交流は、ほんの少しだけ続いた。
何で『ほんの少し』で中断されたかって?
それは、こんな声が聞こえて来たからだ。
「ふえええええええええええええええええええええええええええええん! にいいいいいいいいいいいいいいいたあああああああああああああああああああああああ! どこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」




