第五百四十四話 ムーンレインの伏龍鳳雛(その一)
薬を飲み干したスクアーロの身体は、大きく膨れ上がっていた。
膨大な量の筋肉が瞬時に盛り上がり、皺の目立っていた皮膚は、まるで若者のそれのように生命力に満ちあふれている。
剣を握りしめたまま目の前の出来事を見つめていたピストリークスは、二度、三度と瞬きをする。
(バカな……。あり得るのか、こんなことが!? いや、あり得たとして……ただで済むのか、こんな急激な変貌をして……!?)
呆気に取られるピストリークスを前に、スクアーロは巨体を揺すった。
笑っているようである。
「は、ははは……っ! これは凄いっ! 次から次へと、力がわき出してくるかのようだ! 今の俺は、全盛期を遙かに超えている……っ、超えているぞ……っ!」
そこにあるのは、歓喜。
まるで若返ったと錯覚するような程の活力。
そして歴戦の戦士だからこそ分かる、圧倒的な筋力。
若さと力。
騎士として渇望し続けたものを手にし、スクアーロは快哉を叫んだ。
そんな彼を、ピストリークスは怒鳴りつける。
「スクアーロ殿! 笑っている場合ではないぞ!? そのような急激な筋肉の膨れ上がり方は、矢張りおかしい! すぐにでも医者に身体を診せるべきだ!」
「…………」
年下の同僚に声をかけられ、スクアーロは無言で振り返る。
鬼気迫る表情でこちらを見つめるピストリークスの表情を、『己に対する恐れ』であると、彼は判断したのだった。
「くくくくくく……。そんなに、今の俺が恐ろしいか? それはそうだろうなァ? 今の俺は、お前よりも明らかに強いのだからなァ!」
真一文字に、剣を振るう。
それだけで、距離のあるピストリークスの身体に、刃風が届いた。
恐るべき筋力であった。
「…………っ!」
「くくくくくく……っ!」
ゆらりと、大きな身体が構えを取る。
今の自分は、圧倒的な強者。
だからこそ、斬りたい。
目の前の男を、斬って捨てたい。
この肉体を、試したい。
スクアーロは、そう思った。
一方ピストリークスは、同僚の瞳に強い殺意が顕れた事に、瞬時に気付いた。
「なぁピストリークス……。少しは楽しませてくれよ……?」
「く……っ!?」
最年少の四剣士は、剣を盾代わりにしたまま、後方に飛び退いていた。
瞬間、強烈な衝撃が走る。
剣の一部が欠け、吹き飛ばされそうになった。
武器の完全な破壊に至らず、そして転倒もしなかったのは、ピストリークスが優れた剣士であったからであろう。
並みの者であれば、反応すら出来ずに斬り殺されていたに違いない。
「ふふふ……。今のを躱しきるとは、流石は四剣士で最強と云われた男よな? だがな、今のはほんの挨拶代わりだ。この力に、『理合い』を乗せればどうなるか……? お前にならば、わかるだろう……?」
勝ち誇るように笑うスクアーロの姿に、ピストリークスは口を固く結んだ。
(この男は、己の力に酔っている……。或いはあの薬に、精神を過度に高揚させる成分でも含まれていたのか……。いずれにせよ、無力化させねばどうにもならぬ……!)
スクアーロは、地面を蹴った。
まるで山が急激に迫って来るかのような圧力を、ピストリークスは感じた。
(単純な体当たり……! しかし、受ければ死……っ!)
全筋力を脚に集中。
躱す事のみに専念する。
返しの一撃を放つだとか、その後の追撃に備えるだとか、そのようなことを考える時間すら惜しい、危険な一撃であった。
「くく……っ! ギリギリで躱したな? だが今の攻撃も、俺が手加減していたことには気付いたよな?」
「…………」
肯定も否定もせず、真っ直ぐに瞳を向けてくる年下の同僚に、スクアーロは不快な表情を見せた。
(この男は、いつもそうだ……!)
心が折れず、曲がらず。
今のように圧倒的強者を前にしても、ちいさくなることがない。
不快であった。
許し難いことであった。
(少し、分からせてやる必要があるな……!)
剣を振り上げ、突進する。
腕の一本でも斬り飛ばして、痛みと恐怖を植え付けてやるのだ。
「ぬぅんッ!」
「ぐ……っ!」
手加減を排した一撃は、しかしすんでのところで防がれた。
ピストリークスは回避動作と剣によるパリングで、傷は負っても斬り飛ばされることだけは防いでいたのだ。
「ほほう! 一撃は躱したか! だが、次はどうかな……!?」
振り下ろす。
相手の剣が欠ける。
傷を負わせる。
しかし躱される。
薙ぎ払う。
ピストリークスの剣が削れる。
傷を負わせる。
しかし致命的な一撃にはならない。
そんなことを、何度か繰り返した。
(何故だ!? 今の俺は、手加減をしていない! そして、圧倒的にこちらが勝っているはずだ! なのに、何でたかだか腕の一本を斬り飛ばせない……ッ!?)
理不尽さを味わったようで、スクアーロは怒りを滾らせる。
ピストリークスは、血だらけになりながらも笑った。
「どうされた、スクアーロ殿? 早く本気を出して下されい」
「――っ! 貴様ァァァァァァァッ!」
激昂し、大きく剣を振り上げた。
渾身の一撃の為に。
――けれどもそれは、隙となる。
躱す事だけに専念し続け、致命傷さえ受けなければ良しと判断したが故に、回避のみは出来ていたと云う事に、スクアーロは気付かなかった。
「ここ……ッ!」
「しま……っ!」
傷だらけの剣が、右の脇腹から胸部めがけて突き込まれた。
スクアーロは、死と敗北を覚悟する。
――しかし。
「……え?」
「ぬぅ……っ」
四剣士は、同時に声をあげた。
強化されたスクアーロの肉体は、傷を負ってなお、刃の侵入を押しとどめていた。
ボロボロになっていたピストリークスの剣は、真っ二つに折れていたのだ。
「――は、はは……っ!」
安堵の笑いと共に、腕を真横に振り抜く。
最年少の老騎士の身体は簡単に吹き飛んで、地面の上を転がった。
「へ、下手な不意打ちで驚かせやがって……! だがお前の奸計も、この肉体の前には無力だったようだなァッ!?」
「……ぐ、ぅぅ……」
ピストリークスは最早、立ち上がる事は出来ない。
横臥したまま、僅かに蠕動するのみで。
しかし怒りに燃えるスクアーロは、『戦闘不能』程度では許すつもりはなかった。
「何度も何度も、俺の自尊心を傷付けやがって……! お前だけは、決して許さん……っ!」
まず、腕を踏みつぶす。
その次は、脚だ。
そうして少しずつ踏み壊して、最後に頭を潰してやる。
今度こそ、完全なる絶望と恐怖に彩られた叫び声を上げさせてやるのだ。
肥大化した肉体と心を持った元騎士は、倒れ伏した同僚へと近づいた。
「…………」
その途中で、スクアーロは振り返った。
それはたとえば、彼が並外れて鋭敏な感覚を持っていたとか、第六感を有していたというのではない。
強いて云えば、小心さ。
フィジカルで上回っただけで、剣士としては純粋に敗北したという心細さが、周囲を窺わせたに過ぎなかった。
――けれども、そのことが再び、スクアーロの命を長らえさせた。
「う、うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
迫っていたのは、一本の騎士剣。
音もなく気配もない状態で、急所をめがけた刺突の一撃が放たれていたのだった。
スクアーロは、思い切り大地を蹴っていた。
それは楼の四剣士として、何度も死線をくぐり抜けてきたからこそ出来た、とっさの回避行動。
頭で考えるよりも先に、五体が動いていてくれていたのだった。
遅れて身体に響く、鋭い痛み。
(こ、この身体を、傷付けるとは……っ!?)
劣化していたとは云え、ピストリークス渾身の一撃すらも耐え抜いた肉体に、明確なダメージが入っている。
もしも躱していなければ。
もしも振り向いていなければ。
自分は何も気付かぬままに、絶命していたのではないか!?
一体、何者がこのようなことを為し得たのか?
それは少なくとも、楼の四剣士を悉く上回る使い手であるはずだ。
「――ッ!? お前、か……っ」
そこに立っていた者。
それは、ヴェンテルスホーヴェン侯爵家最強の剣士。
ダンと云う名の、近衛であった。




