第五百三十一話 左後一白と来訪者
左後一白。
それは古来より、名馬の証と云われてきた身体的特徴である。
左後一白とは、どんな特徴なのか?
それは四本の脚のうち、左後ろ足の一部だけが、靴下でもはいているかのように白いものを指す。
もちろんそんな特徴だけで身体能力に影響が出るわけはないから、これは迷信――と云うよりも、ゲン担ぎというべきであろう。
統計なんか取ったことはないが、左後一白でも走らなかった馬も、たくさんいたに違いない。
それでもたとえば、日本にたった七頭しかいないクラシック三冠馬のうち、三頭までもがこの左後一白であったことを考えると、競馬関係者たちが名馬たれ、と願いを込めたことも頷けると云うものだ。
――で、現在。
地球ではない、別の世界の侯爵家の離れの庭である。
「にーた! この子、左足だけ白い! メジェド様の色!」
目の前でぴょんぴょこと飛び跳ねるマイエンジェルの眼前には、一頭の果下馬の姿があった。
それはまだ幼く、やっと人や荷物を積めるようになったばかりの若駒。
この子こそが、フィーの乗馬訓練のパートナーに選ばれた馬――名をノンノ――なのである。
俺のパートナーであるタリカを連れてやってきたヤンティーネ先生は、誇らしげに云う。
「このノンノは、他の果下馬よりもだいぶ小柄なのですが、非常に頭が良く、気性も良好です。フィーリア様が乗馬訓練を始めるにあたって、これ以上ない適役かと」
ティーネは、うちの子がやんちゃな性格なのを知悉しているからな。
その上で適任と思える仔馬を連れてきてくれたのだろう。
「ノンノ。うちのフィーをよろしくな?」
首を撫でる。年若い果下馬は、嬉しそうに眼を細めた。
「――おっと」
俺の愛馬がカポカポと寄ってきて、割り込むかのように首を下げた。
タリカは首を撫でられるのが好きだから、羨ましくなったのかもしれない。
「にーた! ふぃーも! ふぃーもにーたに、なでなでして貰いたい!」
「はいはい」
サラサラの銀髪を撫でる。
妹様も、「ふへ~……」とか云いながら、眼を細めた。
撫でられるの好きな子ばっかだな……。
「フィー。今日からお前を乗せてくれるノンノに、よろしくを云おうな?」
「うんっ! ふへへっ! ノンノ、ふぃーなの! よろしくなの!」
見よう見まねで首を撫でているマイエンジェル。
感情優先の少々荒っぽい撫でかただが、そこに悪意や恐れの類は一切見られない。
うちの子はセロへの旅や普段の俺の訓練で、馬には慣れているからだろうな。
「フィーちゃんの場合、そこが心配なのよねぇ……」
とは、母さんの弁。
まあ確かにマイシスターは『恐れ知らず』なところが事故につながるタイプだろうからな……。
一方、ノンノはそんなフィーの行動にも動じず、どっしりとしている。
精神的に強い子なのかもしれない。
「ちっちゃいお馬さん、可愛い……っ」
ノンノ、うちの子のことを、頼むぞう。
※※※
「ふへへへへへっ! お馬さん、楽しい!」
そして、上機嫌でノンノの上に乗っかっているマイエンジェル。
今日は乗馬初日なので、自分で果下馬に指示を出すようなことはしない。
文字通り、上に乗っかっているだけである。
それでもフィーはご機嫌だ。
ブランコとか三輪車とかも大好きな子だから、これは当然かもしれないが。
「にーたぁ! にぃたぁぁっ!」
馬上からブンブンと手を振る妹様。
その様子は何と云うか、メリーゴーランドに乗っている女児を連想させた。
「フィーリア様っ! 乗馬中に手を離してはいけません!」
ティーネに怒られている。
ちゃんと謝り手を添えて、フィーは明るく続行する。
「にーた! ブタさん! ふぃー、今度はブタさんに乗ってみたい!」
そう来たか……。
流石は発想が自由なマイエンジェル……。
そういえば昔、少年院をブタに乗って逃走しようとする作品があったよな……。
ノンノを引いているティーネが、呆れたように肩を竦めた。
「フィーリア様には、馬の上に乗せてならすと云う行為は必要なさそうですね。本当にリラックスしていらっしゃる……。手綱も今は、ちゃんと掴んでおりますしね」
なお、三輪車やキックスケーターに乗るとき用の疑似ヘルメットも、ちゃんと装備している妹様なのである。
「ふへへ……。かぽかぽ進むの楽しいっ」
この分なら、フィーの乗馬訓練は、良いペースで進むかもしれない。
――油断さえしなければ、だが。
※※※
さて。
フィーの訓練――と云うよりも、新しい娯楽か? ――が済んだところで、今度は『俺』の用事がある。
村娘ちゃんのときの近習試験でお世話になった段位魔術師のフィロメナさんが、当家にやってくるのだという。
別れ際に云っていた、「話がある」うんぬんというやつだろうな。
不穏なことでなければ良いのだが……。
「むむー? アルトきゅん、浮かない顔をしていますねー? 何か心配事ですかねー? もしもそうなら、このミアお姉ちゃんに話して欲しいですねー」
心配そうな顔をしながらも、手をわきわきとさせて距離を詰めてくる不審者様よ。
「ミア。お客様が来るから、対応のほう、よろしくね?」
「任せて欲しいですねー。アルトきゅんの姉兼・専属メイドとして、ミアお姉ちゃん頑張りますねー」
うん。
姉でもなければ、専属メイドでもないけどな?
「アルトきゅんには、いつでも笑顔でいて欲しいんですねー。――この写真のように!」
サッと胸元から何かを取り出す変質者様。それはもちろん、写真である。
「くふっ! くふふふふふふ……っ!」
駄メイド様は、胸元から取り出したものを見てニヤついている。
アレは、俺とミアとのツーショットのやつだな……。
引きつった顔をしている四角い過去の中の俺と、それを怪しい笑顔で捕らえている不審者という、世にも珍しい構図なのだ。
何でそんなものが存在するのか?
侯爵家で働く男爵家令嬢様には随分と世話になっているので、『たっての願い』を断ることが出来なかったのだ。
「……その写真を見て、嬉しいか……?」
「もちろんですねー。これは私の宝物なんですねー。ほら、見て欲しいんですが、写真の中のアルトきゅんは、実に子どもらしい笑顔を浮かべていますねー。これこそが美幼年のあるべき姿なのだと、ミアお姉ちゃんは思いますねー」
実に子どもらしい笑顔だと……?
俺には我が事ながら、無理をして何とか笑おうとしている哀れな存在にしか見えんが……。
「これを見ていると、勇気とやる気が湧いてくるんですねー。何があっても、へっちゃらになるんですねー」
その『やる気』とやらが、いかがわしい類のものでないことを切に願うよ……。
ミアが犯罪者にジョブチェンジした場合、いの一番に被害者になってるのって、たぶん俺だろうし。
「そういえばアルトきゅん。『写真機』の使用に大口の予約が入ったことは知ってますかねー?」
「うん? 予約、入ったの?」
と云うか、決まったのか。
ショルシーナ商会は『写真機』の宣伝の為に、オオウミガラス軍団――こっちはレジャー浴場の宣伝も兼ねている――の写真の他、『人物写真』もおさめて、商会ゆかりの施設に張り出す予定なのだと聞いてはいた。
ただ、『政治的意図』を排除しようと商会長やヘンリエッテさんが話し合っていたのも聞いている。
その『対象』が決まったのなら、そのへんの折り合いもついたと云うことなのだろうが……。
「ヒゥロイトなんですねー」
「うん? ヒゥロイトって、セロの声楽隊の?」
「そうなんですねー。貴族から庶民まで大人気のヒゥロイトをモデルにすることで、双方共に宣伝の材料にすることが決まったようなんですねー」
成程ねぇ……。
まあ軍服ちゃんなら、ああいうのに乗っかろうとしない訳がないよね。
というか、よもや、バウマン子爵家が主体になって乗り出したのではあるまいな?
「――そこで、アルトきゅんに、お願いがあるんですねー」
「……写真を手に入れてこいと?」
「流石は天才のアルトきゅんですねー。話が早くて助かりますねー。商会に顔の利くアルトきゅんなら、ゾン・ヒゥロイトの美幼年たちの写真が、よりどりみどりで手に入ると思うんですねー」
それはセロ声楽隊の皆さん及び、身分違いの友人様を、生け贄のヒツジに捧げろということか?
(良いのか、それ……。しかし、直接的な被害ではないだろうし……。いや、写真を得たことで、ミアの『標的』が増えてしまうことにもなりかねんが……)
うんうんと悩んでいると、駄メイド様は、嬉しそうに。
実に嬉しそうに微笑んだ。
「くふっ! くふふふふふっ! アルトきゅん、さてはミアお姉ちゃんが他の美幼年の写真に心奪われることに、焼き餅をやいていますねー?」
ちゃうわい。
「安心して欲しいですねー。ミアお姉ちゃんの心と体は、アルトきゅんのものですねー。もちろんアルトきゅんの心と体も、ミアお姉ちゃんが愛でる予定ですねー」
そんな予定など、聞きとうないわ!
などという下らない――しかし俺にとってはシャレにならない話をしていると、時間はフィロメナさんの来訪予定のそれへと到達した。
「……じゃあミア、出迎えお願いね?」
「――かしこまりました、ご主人様」
くそ……っ。
こんな時だけ、『完璧メイドさんモード』になりやがって……。
ミアはしずしずと部屋から出ていく。
応接室っぽい部屋の中には、俺と母さんとフィーの三人だけが残った。
宮廷魔術師様より、「ご家族にも挨拶をしたい」と云われているからだ。
もうひとりの妹であるマリモちゃんは、エイベルが屋根裏部屋で預かってくれている。
流石に天下のアーチエルフ様や、純精霊の存在を知らせるつもりはない。
「ノワールちゃん、大丈夫かしら……?」
別れ際に泣き出しそうだった末妹様を、母さんは気にしているようだ。
そして、お客さんが到着した。
――のだが。
「あ、貴方は、ミア・ヴィレメイン・エル・ヴェーニンクっ!? な、何故ここに……っ!?」
「ん~……? どこかでお会いしましたかねー? ちょっと記憶にございませんねー。それから、私の名前は、ミア・クレーンプットですねー」
不穏な気配と大きな声と、そして身分詐称が聞こえて来た。




