第五百二十七話 いのちのまたたき(後編)
動かなくなった赤ちゃん。
呼吸が止まり、心臓も停止した。
けれどもフィーの云う通り、まだ生きている。
この娘は、生きているのだ。
フィーは魂命術によってそれを知ったのであろうが、俺は前世より持ち越した知識によって、それを知っている。
心肺停止は、『その後』の五分間が勝負なのだと。
「フィー、この子を助けるぞ」
「うん……っ!」
赤ちゃんに駆け寄る。
医者のひとりが道を阻もうとした。
これはこちらの意図が分からないから、子どもがおかしなことを始めたのだと思い込んだのかもしれない。
或いは、死者を辱めさせないようにという配慮か。
いずれにせよ、一刻を争う今は、邪魔でしかない。
「ティーネ!」
「は!」
一瞬で部屋に入って来たハイエルフの女騎士は、即座に目の前のエルフを抑えてくれた。
彼女は俺やフィーを信頼してくれている。
何も云わなくとも、それが伝わってくれているのが嬉しかった。
そして信頼と云えば、うちの母さんとフェネルさんも。
こちらは声すらかけていないのに、フィルカーシャ嬢の前に立って、彼女の動きを掣肘していた。
「な、なにをするおつもりですか!?」
「アルちゃんは、この娘を助けると云ったわ。だから私は、それを信じる。貴方も、自分の妹さんを、信じてあげて」
「し、信じるも何も、もうこの娘は――」
「死んでない!」
まだ、心肺が止まっただけだ。
肉体も、魂も、ちゃんとここにあるんだ。
赤ちゃんに取りすがり、ふいごをはずす。
呼吸をさせるなら、別の手段がある。
「フィー! このこの中に、空気を送れるか?」
「ふぃー、やるの! にーた、どうすれば良い!?」
「俺の『後』を辿ってくれ!」
重要なのは、きちんと肺を満たしてやること。
そして、吐き出させてやること。
生のままの魔力を導線として使い、そこをフィーの魔術で追尾して貰う。
この娘はもっと幼い頃から、自分の膨大な量の魔力を制御していた。
周囲に影響を与えないよう、完璧にコントロール出来ていた。
それはおそらく、余程に高性能な魔力計測器でもない限り、『魔力無し』と表示されるレベルの完全なる統制。
その繊細な操作能力で、空気の循環をして貰う。
俺が他にやることは、みっつ。
ひとつは、心臓を動かすこと。
それはある意味で、人工呼吸よりも大事なこと。
通常は胸部を掌で圧迫して行うのだが、こちらには魔術がある。
生のままの魔力で心臓を直接動かす。
こうすれば、赤ん坊の胸に余計なダメージが加わることもない。
心肺蘇生の明確な技術が確立されたのは地球世界でも本当に新しく、1900年代も半ばを過ぎてからだ。
人工呼吸の記述自体は聖書にもあるが、それでも完成したのは、現代なのである。それ程、蘇生作業というのは難しい。
次に同時に行うのは、胸部にある魔力の除去だ。
触れてみて分かったが、これは、この赤ちゃんの大きな魔力がもたらしたものであったようだ。
魔術師は魔力を『変換』してこの世に顕すが、無意識にそれに近いことを発現させてしまっていたようだ。
属性は『水』に近い。
或いはこの娘は、水の魔術に大きな適性があったのかもしれない。
結果として、ゲル状の魔力が胸を塞いでいた。
これを、取り除かねばならない。
そして最後が、魔力順路の誘導だ。
胸部に魔力が溜まっているということ。
それは、長期間の魔力の渋滞が起こっているということ。
どっちが先だったのかは今となっては分からないが、自分で生み出した魔力が『外』へは行かず、内部に留まっていたことが、大元の原因であったようだ。
だから、それらを、導いてやる。
おそらく無意識であっても、一度正しい方向に導いてあげれば、きっと安定する。
逆に云えばそこに気付かなかったら、胸の魔力を取り除いても、同じことが起こるかもしれない。
これらの作業を、フィーへの導線を使いながら行う。
(なァに、エニネーヴェのコアを修復したことに比べれば、それでもずっと楽だ……!)
ズキンと脳が痛んだ。
魔力はフィーから融通して貰っているが、複雑な作業をいくつも同時に行うと、それでも負荷が掛かるみたいだ。
ノーコストでこれなのだから、魔力を貰っていなかったら、ちょっとヤバかったかもな。
しかし、効果は覿面だった。
「けぱ……っ」
赤ちゃんが口を開いて、息を吹き出したのだ。
「止まっていた呼吸が動いた!?」
「バカな、この子は、死んでいたはずでは……!?」
「息を吹き返したというの!?」
吹き返したも何も、そうなるようにしたのだから、戻って来て貰わなくては、こちらが困る。
フィーは赤ちゃんの呼吸が戻っても、魔術の使用を止めていない。
俺が導線を引いたままだということが分かっているのだろう。
そうだ。止めるのはまだ早い。
この娘自身の身体が、安定して生命活動を再開してからでいい。
云われずともそれが分かっているあたり、やっぱりうちの子は優秀だ。
(でも、『技術』以外にも、必要なことがある)
俺は目を見開いているエルフの親子に叫んだ。
「この娘に、呼びかけてあげて下さい! 生きようと頑張ってるんだ!」
魂命術を使えるフィーと繋がっているからか。
意識もなく、知性の存在すら危うい赤ん坊から、懸命な意識が伝わってきている。
――生きたい。
――死にたくない。
きっと不安なんだ。
心細いんだ。
こういうときに一番大事なのは、きっと家族の応援だろう。
ここにはフィーがいる。
だからその『想い』は、きっと届く。
フィルカーシャとその母親は、赤ん坊の手を握った。
握って、涙ながらに叫んでいた。
「頑張って!」
「お願い、生きて」
それは不純物のない、真っ直ぐな愛情。
赤ちゃんの顔のこわばりが、少し解けたように見えた。
(よし。胸の魔力の、除去を完了。順路も問題ない。俺の作った道を辿って、体内に溜まらないようになっている……)
鼓動も完全に再開した。
こちらは、もう魔力を使わなくて良いだろう。
だからか、赤ちゃんの胸が、しっかりと上下を始めた。
「フィー。もう大丈夫だ。呼吸も出来るようになった」
「う、うん……っ」
最後に、赤ちゃんに浄化を掛けておいて、俺たちは離れた。
今の赤ん坊は苦しんだ様子もなく、すやすやと眠っているようだった。
「信じられん……っ! 死んだ者が、生き返るなど……!」
「あぁぁぁ……っ! 神様……っ!」
「な、なんて……! なんてお礼を云えば……!」
医者たちが目を剥き、赤ちゃんの肉親たちは泣きながら抱きしめていた。
家族が戻ってきたんだから、嬉しいだろうな。
「……こ、ここから先は、お医者さんたちに任せよう……」
――とにかく、疲れた……。
「アルちゃん、大丈夫……!?」
フラついた俺の身体を、母さんが支えてくれた。
この人を心配させるわけにはいかないから、精一杯の笑顔を作る。
「……あの子と比べれば、何の問題もないよ。それより、頑張ったのはフィーだから、そっちを褒めてあげて欲しいな……」
「…………っ」
そう云ったのに、母さんは何も云わず、俺とフィーを抱きしめた。
「にーた……」
フィーが改めて抱きついてくる。
全く今回の話は、完全にこの娘のおかげだった。
フィーが異変に気付かなかったら?
フィーが蘇生の場にいなかったら?
フィーが手伝ってくれなかったら?
ちいさな命を、助けることが出来なかっただろう。
「――何者なのです、あの子たちは!?」
「何をしたのか、全く分からない! どうして赤ちゃんは生き返ったのですか!? どうしてこの娘は、死の淵に立っていたのですか!?」
「どのような技術だったのかを知れば、更なる命を救えるかもしれない!」
赤ちゃんのお世話をしながら、医者たちがそんなことを云っている。
根源干渉や魂命術を語るようなことをする気はないが、地球医学の心肺蘇生術くらいは伝えても良いのかもしれない。おそらく、心臓マッサージの知識は無いだろうし。
(まあ、それより何より、フィーだ)
母さんにも云ったけど、まず俺が褒めてあげたい。
ちいさな命を救ったこの娘に。
――遙か北の地で知り合った白いオオウミガラスは、自分の命と引き替えに、バラモスという後継者を残した。
でも、それだけじゃない。
あの海鳥は、うちの家族に『命の大切さ』を教えてくれたのだ。
白い雛鳥と別の意味で、あの鳥は、今も生きているのだろう。
かつて俺が、『ちいさな雪精』に多くのことを教わったように、フィーも命を学び、尊ぶことを知った。
今回の結果は、それらがもたらしたことなのだ。
だから『命の瞬き』を、消さずに済んだ。
「フィー、よく頑張ったな?」
俺は大切な家族に笑顔を向け、頭を撫でる。
「…………」
けれども、うちの妹様から返事はない。
「……にぃ、た……。ふへへ……」
フィーは既に、眠っていた。




