第五百十八話 アル対マノン(後編)
鈴の音とともに広がる波。
水に垂らした水滴が波紋を広げるように、空中に美しい文様が描かれていく。
これこそがマノンの切り札――『音叉境界』である。
アルトはこの結界が発動した瞬間に、後方へと逃れている。
「良い判断ね。あたしの『世界』は身体強化の魔術も無効化する。それだけでなく、魔性武具の類の性能も激減させる効果を持つ。つまり、あたしの前では皆が等しく『ただの人』になるってことよ」
最早勝利を確信したマノンは、自信に満ちた笑みを浮かべるのみ。
焦って攻撃を仕掛ける意味など無いと云わんばかりだ。
「もうアルトは、何にも出来ない。だから、大人しく降参しなさい。そうすれば、よく頑張ったご褒美として、デートに連れて行ってあげるわよ?」
その言葉に反応したのは、母親のほうである。
「で、デートなんて、まだ早いです! い、いけません、いけませんよっ!」
焦った様子で、そんなことを云っている。
既に娘がいる身なのに、どうやら『そちら方面』は、からきしのようだ。
「…………」
そしてアルト・クレーンプットは、ツーサイドアップの少女が攻めてこないことを幸いに、長考に入っていた。
真剣な顔で、ジッとマノンを――音叉境界を見つめている。
「ふふふふん。無駄よ。無駄無駄。これが発動した以上、もうアルトには勝ち目はないの」
からかうかのように、風の弾丸が飛ぶ。
アルトは考え込みながら、それをアッサリと躱してのけた。
「ふぅん? 腑抜けているわけではないみたいね? でも知ってる? そういうのって、万事休すって云うのよ?」
「…………」
ちいさく。
アルトは、ちいさく何事かを呟いている。
マノンの瞳には、それが無意味なことのように写っている。
けれども、聴力強化を使えるマルヘリートは、自分の娘にこう告げた。
「マノン。勝ちたいのであれば、慢心は捨てなさい。取り返しの付かないことになりますよ?」
「ふふっ。今更私が負ける訳ないじゃない。見てよ、アルトの無力なこと。もう何も出来ないわ。哀れなことね?」
そう云った瞬間に、『天球儀』が輝きだした。
先程までと僅かに形状が変わっていることに気付いたのは、マルヘリートとフィロメナだけ。
マノンはそちらを見てもいない。
彼女の母親は、頭を抱えたようだった。
やがて、何発かの水弾がマノンに向けて発射される。
彼女は攻撃には気付いたが、躱す動作を一切見せない。
その必要が、無いからだ。
果たしてアルトの攻撃は、その全てが無効化された。
「無駄だって云ったでしょ? もしかして、『回数制限』でもあると思ったのかしら? 無いわよ、そんなもの。あたしの魔力が続く限り、この『世界』は破れない」
勝ち誇るマノンに対して、リングサイドにいるフィロメナは、疑問を抱いた。
(あのアルトくんが、無意味な攻撃なんてするでしょうか? あの『白い子ども』の未知な攻撃ですら、仮説と推論の末に『撃破』へと結びつけた彼が……? いいえ、そんなはずはありませんね)
フィロメナは実戦を積んできているだけあって、慎重である。慢心もしない。
マノンと比べ、視野の広さと思慮の深さで、彼女は圧倒的に勝っていた。
だからもし、今のこの状況にフィロメナがいたら、『この後』のような状況には、きっとならなかったことだろう。
アルト・クレーンプットは、槍を手放したのである。
「あら? 降参でもするつもりなのかし――」
云っている途中で、アルトは突っ込んできた。
それは身体強化による突進。
矢のように、速く。
「物理攻撃に活路を見いだしたの? 無駄だって云ったでしょう? 私の『世界』の前では――」
「……なんて愚かな……」
すぐ傍から、『母』の嘆きが聞こえた。
彼女はそれを、アルト・クレーンプットに向けられたものだと思った。
しかし――。
(アルトの身体は、間もなく『境界』と接触する。身体強化は消滅し、ただの無力な子どもになるわ。その瞬間にこれでもかと魔術を叩き込んで、屈服させてあげるんだから!)
超高速の世界で、アルトの身体は『境界』に触れた。
彼は、掌をかざしていた。
掌が、『境界』に接触する。
(さあ! 失速するわよっ!?)
目の前の子どもに、ガクンと急ブレーキが掛かる。
――そんなことを考えていた彼女の瞳は、大きく見開かれた。
(失速しない!? 何でッ!?)
彼女は見た。
まるで油膜が弾かれるように、音叉に穴穿たれるのを。
その隙間から、美形の少年が突っ込んでくるのを。
(か、回避……ッ!)
驚愕しながらも、回避行動を取ろうとしたマノンは、矢張り非凡であったのだろう。
普通、虚を突かれれば、人はとっさには反応できない。
アルトの突進を躱そうと思えたことだけでも、確かに優秀だった。
――けれど。
「――え」
呆然とした声が出た。
身体強化による回避を行おうとしたマノンの身体には、何の魔術も掛かっていなかったのである。
そこにいたのは、ただの華奢な少女。
皮肉なことに失速すると思われた少年は健在で、マノンこそが魔術の無い状態に陥っていたのであった。
「う、うそ……!?」
それが、『決着』前に呟いた、マノンの最後の言葉。
ドン、と云う空気が破裂するような音が響くと共に、少女の身体は、リングの外へと吹き飛ばされていた。
それは、受け身も防御も忘れる程に。
しかし、怪我はない。
彼女の母親と対戦者とリングサイドにいた宮廷魔術師の三者が、いずれも風のクッションを展開してくれていたからであった。
マノンは、芝生の上に仰向けに倒れていた。
何が起きたのか、理解が出来なかった。
「そこまで。勝者、アルト・クレーンプット」
母の声が、淡々と響く。
『彼』が勝つのが当然だと云わんばかりの、意外性を排除した声。
マノンは、フラフラと立ち上がった。
未だに、決着が付いたことが理解出来なかった。
芝生の上にある己の姿を見おろして、
「――あれ?」
と、呟くのみであった。
※※※
――もの凄いものを見た。
フィロメナは、そう思った。
彼女は優秀な魔術師である。
そして、マルヘリートの『音叉境界』も知っている。
それ故に、何が起きたのかを理解出来ていたのだ。
(アルトくんは、すぐに『波形』に気がついていた。おそらくは、一目で――)
戦慄した様子で、屍人のような雰囲気を持つ、彼女好みの外見をした少年を見つめる。
あの子どもは、未知の強大な魔術に対して、即座に『性質』と『攻略法』と『逆用の仕方』の三点を思い付いたに違いない。
おそるべきことであった。
噂通りの神童。
或いは――。
(『魔力』という性質そのものに、深い造詣があるか、極めつけの好相性を持っているのか?)
その推察は、当たっている。
アルト・クレーンプットの真の適性は『生のままの魔力』であり、その『根源』にあった。
水術に優れているというのは、単なる噂に過ぎない。
(どのように破ったかという私の推論は、後でマルヘリート様に伺おう。今の戦いを知っておくことは、きっと大きな財産になる……)
興味本位と『知人の娘』であるマノンを見守る為についてきた場所で、思わぬ収穫があったことを、彼女は喜んだ。
そして、正気を取り戻したマノンは。
「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでよぉ~~~~っ!」
だだっ子のように、芝生の上を転がっていた。
ぱんつが丸見えになっているが、誰ひとりそれを指摘しない。
彼女は、負けたことが、まだ信じられないのだ。
どうやって負けたのかも、理解出来ていない。
「うぅ~……っ! アルト、あんたなんなのよぅ……!」
「何って云われてもな……」
社畜のなれの果てだ、と云う言葉を、彼は呑みこんでいた。
「あの槍さばき、まずアレがおかしいでしょっ!?」
「と、云われてもな。武術の先生には、未だにダメ出ししか貰わないし、そもそも身体強化を使わないと、『同年代』に、まるで歯が立たないヤツがいるんだけどな」
「う、うそでしょ。絶対にウソよ!」
「ウソじゃないんだよなァ……」
「じゃあ、魔術はなんなのよぅ! あんなに凄いなら、あたし以外には負け無しでしょッ!?」
「…………」
その言葉に、アルトとマルヘリートとフィロメナの三者が顔を見合わせた。
過労したゾンビのような気配を纏った少年は、面白くもなさそうな真顔で云う。
「この戦いのほんの前に、事実上のボロ負けをしてきたばかりだよ……」
「――――」
母たちの反応から、それが事実であるのが、すぐにわかった。
マノンは、わなわなと震えながら俯く。
「じゃ、じゃあ、あたしって、弱いわけ?」
別に弱くない。
そう云おうとしたアルトを遮って、マルヘリートは云う。
「慢心できるような強さではないことは、たった今、味わったばかりでしょう? これからは訓練をサボることは、絶対に許しませんよ!」
「そ、そんなぁ~~……っ」
ションボリと落ち込んだ少女の額から、絆創膏のようなものが剥がれ落ちた。
それまで努めて冷静そうだった少年は、あんぐりと口を開ける。
「え……っ!? まさか、マノンって――!?」
そこには、額に『第三の目』を持つ少女の姿があったのだ。




