第四百五十八話 幼女迷宮(後編)
第三王女クラウディアが『ひとりになる』と云うことを味わったのは、五歳の時だった。
云うまでもなく、宝剣の儀の後からだ。
あの時から、彼女の世界は酷く色あせたものになった。
宝剣が輝かないと云うことは、王位継承権を得られないという政治的な意味だけでなく、月の神に祝福されていないという宗教的側面も併せ持つ。
だからクラウディアはあの時から、忌み子のような扱いを受けるようになった。
多くの者が、彼女を避け、その傍を去って行った。
いつも自分を慈しみ、微笑みを向けてくれていた乳母でさえ。
――本当に信頼できる者なんて、誰もいない。いつかは自分から離れていく。
だから少女は、そう考えるようになる。
自分には、誰かをつなぎ止めておける価値なんて無いのだと。
その後も、彼女は似たような目に遭った。
第三王女と第四王女を天秤に掛け、一も二もなく『妹』を選ぶ。
そんな光景を、幾度となく見たのだ。
ありとあらゆる才能があり、神に愛されたとしか思われない完璧な王女と、誇るべきものなど何もなく、祝福すら得られなかった、ただの子ども――。
どちらを選ぶかなんて、わかりきったことだった。
クラウディアの心には、そんな『諦め』と、『これからも大切な者がシーラに奪われていく』と云う絶望が、染みのように残留している。
そして今日。
僅かなりとも親しくなれた者達は、一瞬にしてシーラの側についた。
少なくとも、クラウディアにはそう思えた。
彼女は明るい。
だから皆が寄り添い、慕う。
自分にはない、自分には届かないもの。
そのことが、酷く悔しく、そして惨めだった。
だから思わず駆け出した。
一緒にボードゲームを遊び、オオウミガラスの愛らしさに胸を躍らせた皆が、自分を遠ざけ距離を置く光景なんて、見たくなかったのだ。
建物を飛び出したクラウディアは、物陰にうずくまっていた。
身体のちいささと相まって、すぐには見つけられない場所に。
「ぅ、ぅぅ……っ!」
こんな所に逃げ出して、何かが変わるわけでもない。
それなのに、逃避してしまう。
どうしてこうなのだろう?
自分が悪いのか?
それとも世界が悪いのか?
ちいさな少女には、それも分からなかった。
「にーた、ここ! あの娘、ここにいる!」
「おぉっ、ここか。凄いな、フィー。よくわかったな?」
「ふへへ……! ふぃー、かくれんぼ得意! にーた! ごほーびのキス!」
「はいはい……。ありがとな? ちゅっ」
「きゅふうううううううううううううううううううううううううううん! ふぃー! ふぃー、にーたに、キスして貰ったああああああああああああああああああ! ふぃー、嬉しい! ふぃー、にーた好きっ!」
何とも場違いな――自分の心の在り方とは、かけ離れた陽気な声がする。
それは彼女もよく知った声。
失望をされたくないと思った、声。
「こんにちは」
振り返ると、酷くくたびれた雰囲気の少年が、穏やかな笑顔で立っていた。
「……ッ!」
クラウディアは、反射的に逃げようとした。
しかし奇妙な少年は、すぐに柔らかい言葉を発する。
「大丈夫だよ」
そう、云ったのである。
『待って』、でも『逃げるな』でもない。
温かい声で、『大丈夫』だと。
予想外で、そして柔らかかったから。
思わず、第三王女は足を止めていた。
『彼』は何も問わなかった。
逃げ出した理由も。
泣いていたわけも。
幼い妹を腕の中から降ろし、白く綺麗なハンカチを差し出した。
呆気に取られていると、静かに目元を拭いてくれた。
なんだか随分年上の――親のようだと、クラウディアは思った。
「うん。綺麗になった」
死にかけの労働者のような気配を纏った少年は、安心したように笑う。
次いでポケットをまさぐると、ちいさな包みを取り出し、彼女へと差し出す。
「これ、は……?」
「うちで作った飴だよ。美味しいよ?」
「にーた、ふぃーも! ふぃーも飴、食べたい! ふぃー、甘いの好き! にーたが好きっ!」
兄の身体にまとわりつき、飴玉を貰う少女。
銀髪の女の子はすぐに自分の口に不格好なお菓子を放り込むと、満面の笑みを浮かべる。
「ふへへ……! 甘い……っ」
その様子があまりにも美味しそうだったから。
クラウディアも、思わず口に含んだ。
普段食べるお菓子よりも、洗練された甘さな気がした。
「美味しいでしょ?」
「は、は、ぃ……」
「良かった。うちの女性陣は、甘味にうるさいからね」
男の子は家族を思い、静かに笑っている。
『身内』に対して、こんな顔が出来ることを、彼女は羨ましく思った。
胸が締め付けられるようだった。
クラウディアは、絞り出すように云う。
「……何も、訊かないのですね……」
「キミが云いたいと思えば、云えば良いさ。言葉を交わすだけでなく、『ただ傍にある』というほうが、ありがたいこともあるもんさ」
『彼』はクラウディアを見ることなく、独り言のように呟いている。
視線を向けてこないことも、きっと気遣いなのだろうと、幼い王女は思った。
「……ひとつだけ」
「うん?」
「どうして、『こちら』へ来たのですか……? シーラ様の傍ではなく……」
「そりゃ決まってる。ボードゲームをするためだよ」
それは、『繋がり』を断たないと云う言葉。
慰めでも憐憫でもなく、『絆』を口にしていたのである。
「…………」
クラウディアは、泣きそうになった。
それを誤魔化す為に、こう云った。
「急に飛び出してしまって、どんな顔をして戻れば良いのでしょうか……」
「笑って戻ればいいさ。『ボードゲームを取りに行った』と云うだけで良い」
或いは、タルタルならば、本当にそれで誤魔化せるのではないか? などと失礼なことを考えるアルアルだった。
あまりにも下らない云い訳に、クラウディアはキョトンとし、それから、少しだけ笑った。
笑うだけのゆとりが戻ったのである。
「おお、ここにおったか」
そこへ、枯れた老人が現れる。
『やっと見つけた』と云う顔をしているが、もっと前からいたのではないかと少年は思った。
「エフモント、様……」
彼女は、『祖父』にも心配を掛けたことを気にやんでいるようである。
しかし、当の老人に、気にした様子は見られない。
だから、アルトは、そっと背中を押してやる。
逡巡する暇を与えないように。
彼女はヨロヨロとした足取りで、背の高い老人の腕の中に飛び込んだ。
伝説に謳われる予言者は『孫』を慈しむような目で見つめた後、顔を上げて少年に笑いかけた。
それはイタズラを思い付いた悪ガキのような笑顔だった。
「やっぱり、お前さんは、是非にも『こちら』に引き込んでおかんとなぁ?」
「……何を企んでいるのか知りませんけど、我が家の平穏を乱すようなマネはしないで下さいよ?」
「ふふふふ。『家族が一番大事』。それはこちらも、同じことじゃて」
『祖父』は『孫』を連れて歩いて行く。
一度、洗面所か馬車にでも戻るのだろうかと思い、アルトは後を追わなかった。
「にーた、だっこ……」
飴玉をかみ砕き終わって暇になった妹様が、抱き上げることを要求する。
彼は即座に、それに従う。
改めて先を見ると、建物の影に、ひっそりと立っている女の子が。
それはたった今立ち去った少女の、『妹』なのであった。
「村娘ちゃん……」
「はい。村娘ちゃんですよ?」
彼女は、穏やかに笑う。
いつからいたのだろうか? アルトはそう考える。
「エフモント様の後を追いかけました。離れていたので、わたくしには声は届いておりません」
真っ直ぐな瞳で云う。
たぶん嘘は云っていないだろうなとアルトは思った。
「クラウディア様は――」
お月様が、目を伏せる。
「クラウディア様は、ヴェンテルスホーヴェン侯爵家縁の方と、エフモント様以外には、近づかれない方なのだと思っておりました」
「そうでもないよ。普通に、良い子だ」
「はい。貴方様を見て、笑っておられましたから」
第四王女は、瞳をあげる。
「――クラウディア様と親しいなんて、知りませんでした」
「俺が親しいのは、クララちゃんだったからね」
その言葉に、王女は再び目を伏せる。
「わたくしは」
「うん」
「わたくしは、貴方様と『親しい』のでしょうか?」
「親しいから、こういう話をするんだろう」
「――はいっ」
お月様な幼女は、眼を細めた。
きっと彼女には彼女で、色々あるのだろうなと彼は思った。
※※※
そして帰りしな。
アルト・クレーンプットは、タルビッキ・アホカイネンに云われる。
「あんたさぁ、ズブズブの沼に――ううん、厄介な迷宮に迷い込み始めたんじゃないの?」
「はぁ? 何です、藪から棒に」
「ううん、単なるカン。でもあんた、今後苦労するかもね? あ、他の子にかまけて、うちの娘をないがしろにするのはやめてあげてよ? あれでも傷付きやすい子なんだから」
アルトは、訳もわからないままに首を傾げた。
確かに彼は、迷宮の入り口に立っていたのである。
それは人の心が作り出す、厄介な迷宮なのであった。




