第四百三十六話 屋根裏の姉妹
「酷い目に遭いました……」
とある貴族屋敷の離れの屋根裏で、ひとりの少女が憔悴しきった表情で呟いた。
その名はリュティエル。全エルフ族の長だ。
彼女は今の今まで、一緒に入浴していた姉の友人に浴室で襲われていたのである。
「……リュシカは『ああいう存在』。犬に噛まれたとでも思って、諦めるしかない」
淡々と呟くのは、彼女の姉・エイベル。
無表情ながら、その顔には『自分に矛先が向かなくて良かった』という安堵の気配が、ありありと見える。
「エイベル……。貴方、こうなるのを分かっていて、私を一緒の入浴に誘いましたね……?」
「…………」
聞こえていないかのような態度で、そっと横を向く姉の方。
見え見えのソラとぼけに、リュティエルは美しい眉根を寄せた。
「貴方はいつもそう。ラミエルに私が襲われているときも、自分だけはそっと逃げ出して……! と云うか、彼女――リュシカは、ラミエルとは絶対に気が合うタイプですね」
「……ん。それは私も、そう思う。ラミエルは騒ぐのも好きだし、子どもも大好きだったから、きっとアルたちとも仲良くなれた」
「…………」
「…………」
姉妹は、互いを見ながら沈黙する。
最早、この世界にふたりしかいない家族なのだった。
「私たちの家も、以前は、もっと賑やかでしたね……」
「……ん」
リュティエルは一度目を伏せ、それから『唯一の姉』を見つめた。
「ここの家族は、貴方にとって、大切なのでしょう、エイベル?」
「…………」
『姉』は声を出さず、けれども、しっかりと『妹』に頷く。
「なら、ツラいですよ? 私たちはたぶん、見送る側になりますから」
「――――」
エイベルは、無言で拳を握りしめた。
それから、絞り出すように言の葉を紡ぎ出す。
「……いつか消える灯火だとしても、その火の側にいることは、決して無駄ではないとリュシカに云われた。……私は、その言葉を信じたい」
「失うことのツラさを、分かっていても、ですか?」
「……肉体は失われても、思い出として残る。私たちの兄妹たちが、そうであるように」
「素敵な理屈ですね。でも、貴方はそれに耐えられるだけの強さがありますか? 大切であればある程、喪失したときの疵も、深く大きくなりますよ?」
「…………」
リュティエルは、表情を消して『姉』を見る。
「――純粋な戦闘能力において、私は貴方に及びません」
「…………」
「けれども、何かを失うことに対して。或いは切り捨てることに対しては、私の方が、きっと強い」
「…………」
「貴方は最強ではあるけれど、あまり強くはありません。そこは自覚しておくべきことでしょうね」
「…………」
ちいさく俯く『姉』の姿を見て、あの『家族』が、どれ程この少女の心に深く入り込んでいるのかを、リュティエルは知った。
「――或いは」
「……ん?」
「或いは、貴方のそんな『弱さ』を知った上で、心から支えてくれる相手が出来たならば、貴方の脆さも――いえ。これは高望みですね。そんな人物が、現れるわけもない」
『天秤』の高祖は、どこか自嘲気味に笑った。
「そもそも、私たちが『残る』と云う考えも、慢心なのかもしれませんね」
リュティエルは、そう呟いた。
その言葉の意味を、エイベルはよく知っている。
ハイエルフにもノーマルのエルフにも、寿命は明確に存在する。
――では、アーチエルフはどうなのか?
実のところ、誰も知らない。
何故なら、天寿を全うしたアーチエルフはひとりとして存在せず、道半ばで斃れた高祖たちは、全員が戦死だったからだ。
「……リュティエルがハルモニア家に権限の一部を任せているのは、それを見越してだと知っている」
「……ええ。私たちとて、不死ではないし、不敗でもない。負ければ、死ぬのです。或いは突如として、寿命が尽きるかもしれません。いずれにせよ、私たちは有限です。あの子たちは、私たち『祖』が永遠だとでも思い違いをしていますけどね」
リュティエルは少しだけ沈黙し、それからかすかに口元をほころばせた。
「……ここの家族は、とても仲良しさんでしたね」
「……ん」
「『義務』で子供を作った私には、温かい家庭と云うものが、ついに分かりませんでした」
「……けれどリュティエルは、一族皆を大事にしている」
「大事にはしますよ。でも、明確な線引きはします。普通の家族は、身内を処刑にしたりはしないでしょう? だから私はやっぱり、少し違います」
「…………」
『妹』の笑顔が、『姉』には痛々しいものに感じられた。
「エイベル。貴方とバルディエルは、私たち兄弟の中でも、特に戦闘能力に特化していました。それ故に、大切な局面では、いつも矢面に立たせました。常に難敵と戦わせました」
「……それは役割だから当然のこと。私には、何かを壊し、殺すこと以外に何も出来ない」
「いいえ。貴方は、たくさんの同族を救った。精霊たちを守った。それに、私たち兄弟も。貴方は自分の全てを切り捨てて戦い続けた。それは、あの時代を生きた皆が知っています。もう今は、私しか生き証人がいないとしても」
「…………」
「だから貴方は。貴方だけは、その分、これからは幸せになって下さい。それが私の――ううん。私たちの望みですから」
エイベルは知っている。
高祖としての責務は、全て『妹』が負ってくれていることを。
だからこそ自分は、自由気ままに生きていられるのだと。
そして彼女はこれからもただひとりで、それを背負っていくつもりなのだと。
その命が、尽きるまで。
「……リュティエル。私は――」
「ああ、云っておきますが、一族の運営に関して、エイベルには一切期待しておりません。と云うか、無理でしょう? そういうの」
『妹』は、ニヤリと笑った。
「……む。それはどういう――」
「言葉通りの意味ですよ。だってエイベル、私にメロンはくれますし、スイカもくれますが、イチゴを譲ってくれたことは一度も無いじゃないですか」
「……イチゴとプリンは誰にも譲る気はない」
「ほら。そんな心構えじゃ、何も出来ませんよ。貴方の『庭園』のガーデナーたちにも聞いていますよ? 『破滅』の高祖様は、イチゴだけは常に独り占めにすると」
「……むむむ……」
「何が、むむむですか。貴方は色々と無頓着のくせに、大好きなものだけは握りしめて離しませんよね? そういう精神性、妹としては、とても不安です」
「……だ、大事なものを手放さないのは、当然のこと」
「ほら、これですよ」
『妹』の言葉に、『姉』は無表情のままにむくれた。
そこに、階段をのぼってくる足音が響いた。
「えっへへ~……。こんばんは~。せっかく姉妹水入らずのところ悪いけど、私たちもこっちで寝かせて貰いたいな~って」
「ぎゃあっ! で、出ましたね、リュシカ・クレーンプット……っ!」
「ふふふ~。リュティエルちゃん、とっても抱き心地が良さそうだから、今夜はだっこして寝たいなって」
「何で『ちゃん付け』ですか!?」
「だって、エイベルの妹なら、私の妹も同然だもの! 私一人っ子だったから、弟か妹って、ずっと欲しかったのよね~」
「いや、母さん。迷惑だから」
くたびれた雰囲気を纏った少年が吐息をもらす。
彼には銀色の髪をした幼女と、黒色の髪をした赤ん坊がまとわりついている。
エイベルは、たぶん本気で困っているであろう『妹』を見て、かすかに微笑んだ。
そんなエイベルの姿を見て、親友とその息子が笑顔で顔を見合わせたことには、気付かなかった。
かくして静謐なはずの屋根裏部屋は、ドタバタと騒ぎを起こしながら、ひっそりと更けていったのであった。




